この世には、名も知られない存在がさて、幾億とあるのだろうか。誰にも知られず、あるいは誰からもあるがままに意に介されず、そうして存在の意義を曖昧にするものが。道端に陽を探すこの小花もその一つと言えるだろう。風に吹かれ、排気を浴び、雑踏を見逃すだけの存在に、誰が意識をむけるだろうか。情報と知識の飽和した社会では、その手にした端末をひょいといじれば、この花の存在は明らかになる。しかしてその存在が、その端末に光らせた画面を消して、幾許もつものか。
何もせずにただそこにあるだけの存在が、人の意識に介入できる余白はそう多くはない。それが風に儚い花であろうとも、社会から隔絶された扉に阻まれた少年であろうともだ。
電子の波が走る液晶の向こうで、今日も清楚に身を包んだ女性キャスターが言葉を紡ぐ。ここ数年ですっかり耳に馴染んでしまった異常気象の四文字は、例年通りの四文字を忘却させてしまうほどだ。
今年のGWは、例年より5度ほど平均気温が高く⸺そう続ける声にも例年との気温差を憂う様子は聞き取れない。もはや何が正常で異常か、その判断すらも危うくなっているように思える。
而して、目下の課題はそのような哲学的なことではなく、タンスから引き出す衣類の判断であった。
「半袖だとまだ朝晩は冷えるかな。かと言って長袖で汗かいても風邪ひいちゃうし…」
顎に手を添えて目を細めた美翠は、数秒の苦渋の末に半袖のTシャツと薄手の長袖シャツを二組取り出した。気温に適した無難な判断に思えるそれも、対象者に限ってはそうとも言えない。
「和は…忘れるかな、うん」
前科がいくつか数えるのは途中でやめた。のんびりとした自分のペースで動いているからか、本人も反省の色は持っていない。注意力は自ずとついてくるだろうという希望を持ちつつ、美翠は慣れた手つきで連絡帳にボールペンを走らせる。
保育士も多忙な業務の最中、園児一人の朝の装いを完全に覚えていることもないだろう。朝は冷えるためシャツを重ねて登園する、忘れても後日引き取る旨を記載すれば、少しは業務負担の軽減になるはずだと信じ、兄に丸印をつけてサイン代わりに。
そうしているうちに、時計を見れば双子を起こす時間。布団から這いつくばるように出る二つの頭に、ぽすんと手を乗せて軽く催促をする。朝の身支度は早めに流れたほうが何かと都合が良いものだ。
二者の挨拶を背中に、布団を畳もうと下に腕を伸ばせば、袖口が手の動きを邪魔する。
はて、袖はそこまで長かっただろうかと首を傾げれば、目の前の姿見に写る肩口が随分と空いていた。なるほど厚みかと、独りごちて納得し、久しく日光に当ててもいない腕の細さを見る。
今年の夏も自身の半袖が干されることはないのだろうと、例年通りに冷たい指先を擦り合わせて息を吐いた。
誰も知らない、明日の話をしよう。
もうどれほど前になるか。まだ幼かった息子が連れてきた、息子と同い年の男の子にそう話しかけた。辞書で引いたとおりの少年像をしていた息子とは対象的に、その子はどこか浮世離れして見えた。
あるいは、嫌味なほど社会に馴染んで見えていた。
特別印象的な何かがあったわけではない。強いて言えば髪の色が多少明るいことや、瞳の色素が若干抜けていたことは挙げられるが、それらは容姿が整っている、の一言でまとめられるものだ。ならば何が異質さを生んだのかといえば、それはきっとその笑顔だろう。整いすぎた笑顔は、感情を乗せているように見えてそうではない。機械的に作られた有機的な表情を、ただ筋骨格の動きにあわせて入れ替えているだけに過ぎない。それが人間らしさと捉えるには、自身はあまりにも人の内側を見すぎた嫌いがある。
目の前に立つ、息子と比べて幾分か線の細い体は、風にそよぐ柳のようにしなやかで。背丈は同じのはずなのに、その物腰の柔らかさでいくらか大人びて見えた。実際、大人にならざるを得なかったのだろうと、笑顔の裏側を知った今なら言える。
だがその時は、未だそのことを知る由もなかった。知っていれば何か変わったのだろうか。いずれであろうと、きっと自身にできることなど高が知れている。だからあの日、彼と出会えたことに後悔はない。
「父さん、ちょっといい?」
息子にしては珍しい声音だった。取り繕わずとも腕白な息子は、もう少し大きく明々とした声で話すものだと思っていたが。何かを慮るような、伺うような態度に慣れず、思わず眼鏡のつるを直した。
「どうした。唯央がここに来るのも珍しいな」
白の壁に囲まれた空間を、息子はあまり好まない。ツンとした薬品の匂いも、子どもの敏感な嗅覚には毒なのだろう。本能を感じ取る力の強い息子には、よほど堪えそうなものだ。
わたしの初恋の人は、血のつながらないお兄ちゃん。いつも優しく笑っていて、少し冷えて骨張った手で頭を柔らかくなでてくれる、この世で一番大好きなお兄ちゃん。周りの人からは、仲の良い兄妹ねってよく言われるけど、わたしはそんな関係に終わらせる気なんてない。
わたしは本気でお兄ちゃんに恋してる。お兄ちゃんと結婚するんだから。
そのために、立派なレディになる訓練は欠かさない。朝起きたら誰よりも先にお兄ちゃんにおはようを言うし、身支度だって素早くする。女の支度には時間がかかるなんて言うけど、そんなことでお兄ちゃんを待たせたらレディの名折れだから。
それから、ご飯もたくさん食べるの。お兄ちゃんの作ってくれるご飯はいつも温かくて、美味しくて。それに、たくさん食べるとお兄ちゃんは笑ってくれる。美味しいって笑顔を向けると、お兄ちゃんも嬉しそうに微笑むの。あの笑顔が最高のスパイスだと思う。
他にもたくさん、素敵なレディになるためには色々なことを心がけないといけない。
保育園のみんなはまだまだ子どもで、一緒にはできないけどそれは仕方ないし。お母さんは、あんまり帰ってこない。お仕事で忙しいんだよって、お兄ちゃんは言ってた。
働いてる女性もすてきだって思う。自分の力でも生きていける力強さを感じるから。
それに、お母さんは帰ってくるとぎゅって抱きしめてくれる。お花のいい香りに包まれて、すごく気持ちがいいの。わたしと双子の弟の和を一緒に包み込むとき、お母さんの懐はぐっと大きくなるみたい。お兄ちゃんはもう大きいからか入ってはこないけど、いつもちょっと遠くから見つめてる。その姿が大人だなって思うけど、でもやっぱりお母さんからの温もりは捨てられなかった。もうちょっと、子どもでいてもいいかなって、そのときだけは思っちゃう。わたしもまだまだってことね。
はやく、早く大人になりたい。いつも見守ってくれるお兄ちゃんの隣に並ぶために。
⸺子どものわたしが知らない"みどりくん"を見つけるために。
⸺ねえ明日さ。
青と黒の革鞄が小石とともに目線の下を駆け抜けていく。カツン、と小気味よい音は、やがて水音を連れてくる。水没した小石が拾われることはなく、専ら興味の対象は言葉の方であった。
「明日、世界が終わるとしたらさ、どうする?」
とりとめのない会話だ。小さな歩幅で進むには多少の時間を要し、されど新しい発見などそうありはしない毎日の通学路。そんな中での唯一の楽しみとも言える友との語らいには、深い意味は求められていない。要するに暇つぶしのその話題は、それでも頭を巡らせる価値はあったらしい。どこかから拾ってきたのだろう木の枝を、魔法でも編み出すかのようにくるりと回して少年は答えた。
「とりあえず、宿題は捨てる」
思っていたより現実的な答えであった。
確かに、明日の朝日を拝むことがないなら、課題を宿らせることもないだろう。なるほど、とひとしきり感心したところに、やはりというべきか横槍は入った。
「違うだろうよ! なんかもっとこう…楽しいこととかさ、これはやっとかないと、ってそういうさぁ…」
大仰な身振りを見せたプレゼンターは、しかし回答者の顔を見て頬を膨らませた。
笑いを奥歯で堪えながら、それでも口の端から漏れ出すものに気付いたのだろう。今度はじとりとした目を、突き出した唇にのせて言う。
「…んだよ」
「別に? 仕方ないから、世界滅亡まで寂しがり屋のお前と遊んでやるよ」
相手の片肩をペしりと木の枝で叩く様子は、なるほど様になっている。片目を眇めて話す様もどこか大人びていて、背に負われている革鞄も形無しだ。
「頼んでねえっつうの! ていうか、俺が、お前と遊んでやるんだよ」
体が素早くぐるりと回った。1回転した重心は前へ、広げられた腕は肩に。がしりと組み合った腕は、革鞄の中に詰め込まれた教材などより、よほど重いものだ。重くて、暖かいそれが絆足り得るのだろう。笑い声が重なって離れていく。
意図せずに同伴した道は目的地までの道中。離れていく暖かさを横目に感じながら、可愛らしい動物があしらわれた門扉をくぐる。
「こんにちは。縁と和、迎えに来ました」
身分証明書を掲げながら名前を出せば、確認する間もなく奥から軽い足音が響いてくる。
「みどりくん!」
「みどにい」
それぞれの呼称に歩幅に声音。双子とはいえど一人の人間として自我を持っている以上、細かい差異が生まれる。我先にと靴箱を目指す双子は、慣れた手つきで静止される。
⸺連絡帳と、家に帰って渡すプリントと、あとは…。教諭の言葉とともに、二対の肩掛けカバンが膨れていく。よし、の掛け声があがると、一目散に双子が突進を始める。左側を縁が取れば、少しむくれた様子で和が右の手を取る。
「せんせい、さようなら」
声を揃えれば出発の合図。門扉を逆にくぐり、道を進む。美翠の通う高校から家までの一本道に、双子の通う幼稚園があるため利便性が高い。たまには道を外して店にでも寄ってみるかと考えたとき、ふと思い浮かぶ、先程の光景。
「ねえ、縁、和」
思い思いに今日の出来事を話していた対の瞳が二つ、こちらを覗き込んだ。
明日、と発音しようとして、やめた。
「あそぼうか、家に帰ってから。お店に寄って、お菓子も買っていこう」
瞳が輝いた。光が眩しい。なんで、どうして、と寄せては返す質問に、美翠は空を見上げる。
「俺、欲張りだから。最後の一日じゃ足りないよ」
要領を得ない兄の発言になおも言及しようとする双子だったが、その言葉は空に消えた。骨ばって少し冷えた手が、ふわりと頭を撫ぜたから。本気で慈しむ心がなければ、この心地よさは出せないと、本能的にわかる。うっとりとした撫で心地に最小の疑心は晴れ、導かれるまま手をつなぎ、帰路を急く。
何でもない三人の影が、ほんの少し長く伸びた。