「美翠、起きてる?」
心地良いバスの声音が空気を揺らした。柔らかい空気をまとう背中が、いたわるように丸められる。
机に伏せたまま動かない薄い肩をそっと揺らせば、むず痒そうな吐息とともに意識が浮上した。
「ん…、いお…?」
寝起き特有の掠れた声。変声期を迎えても、耳障りの良いテノールは違和感なく馴染んでいる。肩の落ちたカーディガンをそっと戻すと、細い指先が引き継ぐように伸びてきて、触れた。ひんやりと感じるその温度は、寝起きにしては少々心もとない。
活発な筋運動による高い体温が、少しでもこの手に、心に移ればよいのにと。触れ合う指先を絡めるように引き寄せれば、まるで抵抗もなくそれは受け入れられる。
ふ、と甘く揺られた吐息が首元に触れる。緩く細められた目元は、案外人に体を預けるのを許さない彼には珍しい。この蕩けたような表情を向けられるのは、恐らく身内以外には幼馴染の唯央だけであろう。
その身内といえども、美翠には今は幼い双子の姉弟がいるのみだ。別離した父親も、夜の街に溶ける母親も、きっと美翠のこの表情を見ることはないのだろう。その一定範囲を保つことが、美翠が自身で作り上げた壁。言うなれば、世間の波から自身らを守るための防波堤なのだ。
と、唯央は仮定しているわけだが、実際のところ美翠にそこまでの意識があると断言できるだけの要素はない。長年の憂き目に晒された美翠にとっては、脅威を拒絶することが特別なこととはなり得ない。そうすることが、生きるための最低条件だったのなら、美翠はただ順応しただけ。それだけに過ぎないのだ。
だからこそ、この笑顔を見ることができたのなら、それを裏切ることはあってはならない。唯央自身、そう望んでいるのだ。
美翠に出会って、その生を知り、心に触れた。
それがお互いにとって容易では無かったことが、しかしお互いにとって必要なことだったのだと、全てを知る周りの人間はそう判断するだろう。
守ると誓った。傷つきながら、誰かの傷を癒そうとするその手を。世の不条理に歪むその顔を、もう鏡に映すことが無いように。
「……起きろよ、ねぼすけ」
──お前に出会ってから、俺はそう誓ったんだ。