とおく、とおく、鐘の音が聞こえる。
この村にずっと伝わる不思議な鐘。
誰の手に依るでもなく、ひとつ自然と鳴り響く鐘。
それは祝いの鐘かもしれない。
それは呪いの鐘かもしれない。
どうしてこの村にあるのかも、どうしてひとりでに鳴るのかも、なにひとつだってわからない鐘。王都から偉い魔道士様が調べに来たこともあるけれど、なんにもわからなくて帰っていった。すごく偉そうに威張っていたから、ちょっぴりだけ、ざまぁみろ、って思った。
──本当は。私はひとつだけ知っていた。
あれは、終末を告げる鐘なのだ。
時を刻むように。日々を区切るように。私達の住む世界の終わりを数えている。
ひとつ鳴るたびに海が割れる。
ふたつ鳴るたびに空が落ちる。
そうしていつか、あれが鳴り終わったとき、私達の世界が終わるのだ。
ごぉん。ごぉん。
──ああ、また、鐘の音が聞こえる。
君と結婚したい。
言葉にすれば、たったそれだけの話。
人と人とが愛し合って、最期まで添い遂げようとする、どこにでもあるようなありふれた話。──それだけのとても簡単な話が、どうしてか月に行くよりも難しいのだ。
楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つまらないことも、なにもかもを君と共有したかった。
病めるときも健やかなるときも側に居たい。ずっと共にあることを誓いたい。他人に認めてもらえなくても、法に認めてもらえなくても、神に認めてもらえなくても──君と私さえあればいいって、そう信じていたかったんだ。
──でも駄目だ。信じるだけで人は救われない。落とし穴はいくらだってあるのに、蜘蛛の糸の一本ですら見えてこない。
これまでの人生で、善行ばかり積んだとは言わない。いちども悪行をしなかったとは言わない。──けれど、でも、だって。
"普通"の人間なら当たり前に手に入っていたはずの権利が、私たちには、こんなにも遠い。
なにがいけないのだろう。私たちはなにを間違えているのだろう。──私たちは、どこで普通じゃなくなったのだろう。
誰に聞いたところで明確な答えの返らない問いを抱えたまま、私は今日も君と間違いだらけの恋をするのだ。
──これは夢だ。直感的にわかった。世の中には明晰夢、と呼ばれるたぐいの夢があって、たぶんそれなのだと思う。
だって、そう。絶対におかしい。──キミが私の隣にいるなんて。
楽しそうに微笑んでいるなんて。
やさしく話しかけてくれるなんて。
嬉しそうに、この手を取ってくれるなんて。
「……ちょっと、黙ってないでよ。返事、教えてよ。……足りないなら、もっかい言うけど。──ねえ。私と、付き合って」
「──」
だから。これが都合のいい夢だってことは、ほんとにほんとに、わかっていて。目が覚めたときに余計に傷ついてしまうことも、よくよく理解している、のだけど。
人間の心って、そう簡単にはできていないのだ。──幻のようなこのひとときが、ひどく甘美に思えてしまうから。
「うん……うん……!」
「! ほんと!? ……って、泣いてるの? まさかイヤイヤうなずいて──」
「違う……違うんだ……うれしくて。……あんまりに、嬉しいんだ。あり得ないってわかってるんだ。それでも──それでも、私はキミが好きなんだ。諦められないんだ。──好きだったんだ。どうしようもなく」
「……なに言ってるかはよくわかんないけど……付き合って、くれるの?」
「うん。うん、そうだよ。そんなのこっちのセリフだけど、そう……付き合おう。私達」
「──嬉しい。まるで夢みたい……!」
そんなことを言って、キミが私に抱きついてくる。あは、と声が漏れた。夢みたい? そのとおりだよ。これは夢だ。夢なんだ。幻影《ユメ》でさえキミは残酷なんだね。でもいいんだ。いつか覚めてしまうとしても、起きてから喪ったものの大きさに絶望してしまうとしても、それでも、私。
このひとときの為ならば、命だって捧げられると思うんだ。
明日もし晴れたら、海に行こうよ。
病院のベッドから大雨の外を眺めながら、彼女はそんなことを言った。空より透き通った肌と、海より青白い顔と、砂浜よりざらついた声で、そんなことを。
「せっかくの夏なんだし。一度くらい見てみたいな」
「……そんなに良いものじゃないよ」
「そう? でも写真は綺麗だったよ?」
「あれはプロが撮ってるし、補正かけてるから。本物はもっと汚いし、うるさいし、熱いし、ベタつくし……」
「あは。それって見たことある人の感想だ」
──ぐ、と押し黙る。唇を噛んだ私になにを思ったか、彼女はへらへら笑って告げた。
「まあいいや。明日晴れるかもわかんないし、そもそも私が生きてる保証もないし。無駄な軽口だった」
「……」
「ねー、それよりアイス食べたい。パピコ独り占め」
「お腹壊すよ」
「いまさら胃を壊した程度じゃどうもならないよ」
「……そ。じゃあ持ってくるから」
そうして私は、彼女の──人造人間《ホムンクルス》の部屋から抜ける。外にいた研究者の一人が「なにかあったか」と問いかけてきた。
「ううん。パピコが食べたいらしくて」
「そうか。その程度なら問題ない。記憶障害は出ていないな? 認知機能に問題は」
「いまのところ、見つからない」
「了解。まあお前に限って平気だとは思うが、アレに暗示を気づかれるなよ。あくまでアレは難病人で、俺達は医者で、ここは病院なんだから」
「わかってるよ」
──ばぁか。彼女はとっくに知ってるぞ。自分が被造物であることも。人間と思い込まされていたことも。長くないことも。──いずれ、私が彼女を殺すことも。
彼女用の小さな冷凍庫からひと袋のパピコを取り出しながら、それでも彼女は、私とこれを分けてしまうのだろうな、と思った。
知っていた。識っていた。理解っていた。私が本当は、彼らと相容れる存在ではないことを。
私と彼らと、いったいなにが違ったのだろう。髪だろうか。瞳だろうか。声だろうか。身長だろうか。それとも、なにか、私の知らないなにかが──彼らと私との間に、埋められない溝を生み出したのだろうか。私だって、薄皮一枚向けば血が出て、肉があって、更にその奥に内臓があることに変わりないはずなのに。心の臓器に動かされている肉の塊に過ぎないのに。
どれだけ訴えようと/願おうと/望もうと/祈ろうと、彼らは私を受け入れるつもりがないようだった。それどころか、異物として排斥することさえあった。許せなかった。彼らを憎んだ。傷つけられた分だけ傷つけ返した。終わりのない復讐劇だった。
だから私はひとりになった。それ以外に方法はなかった。──それだけが、わたしという生き物が、この世界で生きていく術だったのだから。