深い深い森の中にある、穏やかな湖畔のいっとう澄んだところを切り取ったような瞳で、そのひとはいつだってやわらかに笑っていた。この世のすべてを許すような/この世のすべてを諦めたような不思議な瞳だった。
──消えてしまいそうなひとだ。率直に、そう思う。
桜に紛れながら、水飛沫をあげながら、紅葉に隠れながら、雪と混じりながら。私の手の届くまもなく、ソラに還ってしまうひと。白磁の背中に翼のなごりを残すひと。
ただのいっときでもこのひとが私のものであればなんて、そんな不相応なことを願う。私の意識がよそにあるのを感じ取ったのか、不服そうな顔で頬をつままれた。
「またなんか変なこと考えてる」
「……そんなこと、ないですよ」
「嘘。あなたがそういう目をしてるときはいつもひとりで悩んで苦しんでるでしょう。……私のことで」
「……」
「……私は、どこにも行きません。……ううん。行きたくない。あなたのそばにだけ居たいの。ねえ。信じて?」
そうして、その瞳が、懇願するように/祈るように/囚えるように/逃さないように私のことを見つめるから。
「──……うん」
私はいつだって肯くことしかできなくて、それを見た彼女は、いつだってとても満足そうに笑うのだった。
ヨーソロー! さあ錨をあげろ、舵を取れ! 風は最速波立ち最高! つまり最低の航海だ!
ヨーソロー! 我ら浪漫を目指すもの! 北に向かえば宝を探し、南に向かえば最果てに着く!
我らの旅に終わりなし。たとえ嵐が来ようとも。
この蒼き広大な海を前にして、船を進めずにはいられまい!
大馬鹿者と罵るが良い。阿呆だらけと笑うが良い。
それでも我らは目指すだろう。
いつかこの世の果ての果て、我らが浪漫の、オケアノスを!
喧騒。囃子。提灯。
至る所に人間がいて、そのだれもが笑顔で、幸せそうで、きっと心から祭りを楽しんでいる。──ああ。
うれしいなあ。よろこばしいなあ。きみたちが、とってもかわいくて。きれいで。素敵に着飾って。この祭りを祝ってくれて。
きみたちにとっては、ひと夏の思い出に過ぎないのでしょう。惰性で続く風習なのでしょう。本来の祈りを覚えてる人間は、きっともう、いないのでしょう。
それで良い。それで良いのです。きみたちの営みを、繁栄を、幸福を垣間見ることができたなら。私はそれだけで報われるのです。
笑顔。歓声。喜色。
ああどうか、きみたちの、またこれからの一年に──幸の多からんことを。
それだけを、この社の奥底から、ずっとずっと願っているのです。
「あなたは24時間後に死にます」
「──は?」
日付の変わった0:01。突然私の部屋に現れた、なんだか神々しい─真白な─天使の羽を纏った女のひとは、憐れむようにそう告げた。
「えっ、な、……なに?」
「あなたは24時間後に死にます」
「いや……え? まず誰? てかなに? 24時間後、って……明日?」
「はい」
「はいじゃなくて……え……天使の幻覚見るとか疲れてんのかな……」
「天使ではありません。神です」
「神様って自称なんだ……」
なんだかもう混乱してしまって、意味のわからない感想さえ漏れる。死ぬ……死ぬってなに? 誰が? ──私が?
「いや……いやいやいやいや。私、まだ19だよ? 明日誕生日だよ? ようやく20歳になるんだよ? まだ酒もタバコも知らないし好きな人とも出会ってないし遊びに行きたいとこたくさんあるし大学卒業してないし……そもそも病気でもなくピンピンしてるし……いや……てかほら、なんだっけ。日本人は無宗教なのに神様出てくるのおかしくない? こんなの夢だって絶対。覚めろ〜私。起きろよ私。……起きなって………!」
「そう──そうして自らの心を守るのもまた、矮小な人間の知恵なのでしょうね。務めは果たしました。これからの24時間をどのように過ごすか、それは自由です。それでは。汝に救いがあらんことを」
無責任なことだけ告げた自称神様は、そうしてサッと消えてしまった。言いたいことも聞きたいことも投げつけたいものもたくさんあったのに、本当に最初から、なんにもなかったみたいに。
「──は」
笑う。声が漏れる。つ、と頬を涙が伝う。
「は、は、──はは、」
ああ、神様。もしもあなたが本当に居るというのなら──死神の間違いだろ、ばーか。
時計は0:08分。残されたのはあと23時間52分。頭の片隅でそれを意識して、心の大半がバカバカしいと嗤うなかで──私は、ただただ泣いていた。自分が死ぬことが怖くて泣いていた。
時計の針だけが、無情に時を進ませ続けている。
「いいんだ、それで」
君はひどく軽い笑顔を浮かべた。それはきっと、真夏の青空に似ている。清々しくて、雲ひとつなくて、まっさらで、──その明るさに焼かれてしまう人間たちのことなんて、微塵も考えていない。
「俺の行動が誰かのためになるならさ。それだけで、報われた気持ちになる。実利がなぁんにもなくったって」
「──なるほど。……なるほど、ね。君は、そういうやつだったか」
「うん」
「我らが生徒会長様は、反吐が出るような愚か者ってわけだ」
心底軽蔑した瞳でそう告げてやっても、君は優しい笑みを崩さなかった。それが気に食わなかった。──誰かのために、なんて、まったく。
まったくもって、バカバカしい。
「愚か者でも世界は変えられるよ」
「改善になるかはわからないけど」
「そうだね。そうしたら、まあ……また出てくるでしょ。俺みたいのが」
そう告げて、本当に、君は最後まで憎らしくて/愛おしくて/どうして君が/いかないで、
「ばいばい」
──肉塊の潰れる音は、静かな世界でやけに響いた。
きっとそれが、彼らの革命の狼煙なのだった。