望月

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1/18/2024, 9:37:41 AM

《木枯らし》

 季節から少し外れた、冷たい風。
 バサリと音を立てて着地したそれは、僕の後ろでゆらりと立ち上がった。
 黒い翼を軽く畳むようにして閉じ、その手を僕に伸ばす。
「いや、普通に現れてくれる!?」
「充分普通だろう?」
 空から現れることが普通なのは、どこぞのヒーローだけだ。
 少なくとも人間からすれば普通とは言えない行動だが、それを簡単に取ってしまえるのは彼だからこそなのだろう。
「で、何しに来たんだよ。魂ならやんないぞ」
「ほら、契約に則り何でも願いを言え、叶えてやる」
「代わりに死後の魂をお前に奪われるんだろ、やなこった!」
 悪魔、と呼ばれる存在の彼は普通の人の目には映らない。
 だが、時として『視える存在』というのがいるらしい。それは人に限らず虫や動物にもいるというが、僕もまた、その『視える存在』だった。
「今日も木枯らしを背に、迎えに来てやったというのに……」
「カッコつけんな。単純に高いとこ飛んでてそっから急降下したら空気ごと来ちゃったんだろ」
 無駄にギラギラとした笑顔でポーズを決めているが、本当に無駄だ。
 このカッコつけたがりめ。
「ほら、契約書にはしっかりと血印が……」
「それ初めて会ったときあんたが顔面に突っ込んで来た所為で鼻血出ちゃって、それがちろっと付いただけじゃんかよ」
「それでも契約者の血だからな、血印扱いで問題ないぞ、うん」
「うっかり付いた鼻血でも!? 最低だ!」
「そう褒めてくれるなよ……照れるだろ」
「褒めてるわけないだろー! ああでも悪魔だから罵倒しても逆効果か……?」
 こうして頭を悩ませるのも、よくある話だった。僕らのいつも通りの会話だ。
「ほんと、うざい。——消えてほしい」
 罵倒が意味をなさないことを理解しながら、僕はそう続けた。
 すると、悪魔は黙り込んだ。
 いつもならまた『またまたぁ、照れちゃって』みたいな、そんな反応をするのに。
「……そうか。わかった」
 そう言うと悪魔は僕に背を向け、飛び去った。なんなんだ一体。
 それからというもの、幾ら悪態を吐いても、幾ら契約に同意するからと叫んでも、悪魔が姿を現すことはなかった。

 ——そうして僕に木枯らしが吹かなくなって、三年経った。
「少しだけですからね、いいですか?」
 看護師さんの窘める声を背中で受けて、僕は窓を開けた。
 春の心地よい風に目を閉じると、ふと、春の陽の光で柔らかくなった、少しの冷たさを感じた。
 馬鹿な、そんなことがある筈がない。有り得ない。
 頭では否定していても、これは、木枯らしだった。それも、酷く懐かしい。
「……久しぶりだな」
 答えはないが、そこにいるのはわかっている。
「……たった三年だけど、僕は随分変わっちゃったよ。だから君に、願いがあるんだ」
 そう。ずっと心の中にあった願い。
「——僕の友達になってくれないか」
「その代償に、死後の魂を捧げるのか」
 ああ、懐かしい。聞きたかった声がする。
「そうだよ、だって君は悪魔だ。代償なくして願いを叶えられないんだろ? 憐れだね」
「本当に憐れなのはお前だ。見えなくなって、その目を見えるようにしてほしいとも望まない、悪魔なんぞに友情を求めるお前だ」
 悪魔の言うことはもっともだと思う。
「でも、それが僕の契約書に書く内容さ。呆れた?」
「ああ、お前ほどの阿呆はいないな」
 そうか、僕くらいなのか。
 なら、君の中に、僕との記憶が残れば嬉しいな。

 木枯らしは、目に映らずとも悪魔を感じさせてくれる。だから僕は、木枯らしが好きで、悪魔も——。

1/16/2024, 2:50:16 PM

《美しい》

「——なあ、人はどうして醜いんだろうな」
「急になに言い出すんだ」
 頭でも打ったか、とシエルはキャンバスへと向けていた手を止めた。代わりに怪訝な視線を横にずらす。
 言い出した本人は、キャンバスから視線すら外さず描き続けている。
「お前もそうは思わないか? シエル」
「急にどうしたんだってオレは聞いたんだけどな、ブライトさんよォ」
 そう言い、シエルはまた手を動かした。
 話している時間も惜しいのだ。
「ほら、窓の外。月が見えるだろ? あれが本当に美しいなと思って……」
「それに対して人は醜いなってか? 比べるもんが可笑しいだろ、そりゃ」
「というと?」
 今の言葉のどこに惹かれたのか、ブライトはなにやら楽しそうだ。
 先程まで数時間、無言だったからか。
 ブライトを楽しませるのは本意ではないが、口が暇なのはシエルもまた同様だ。
 渋々と口を開く。
「お前の言う、月が美しいってのは、視覚的な話だ。月という物を見て、美しいと感じてるんだろ。けど、人の心の美醜はそうじゃねェ、内面的な話だ。比べるなら、月の美しさと人の容姿の美醜でも比べてろ」
「まぁ、それもそうなんだよなぁ……」
「人に分かり切ったこと言わせといて、薄い反応見せてんじゃねェよ」
「はいはい、悪い悪い。……でも、そうだとしても、人は醜いだろ?」
「おい、さっきからなにが言いてェんだ」
 一拍、キャンバスを滑る筆の音が場を支配する。
「……俺は、最期くらいは、綺麗に終わりたいなって思ってさ」
 ブライトがややあってそう言うと、シエルは間髪入れずに溜息を吐いた。
「あのなぁ、十分世間様から見れば綺麗に生きてるだろお前……!」
「シエル、そういうことじゃなくてだな」
「そういうことだっての! だってな、他所からすりゃお前みたいな順風満帆な人生送ってる奴は、大層お綺麗に見えるだろ」
 元は平民の生まれであるブライトは、幼少の頃から絵を描くことが好きだった。道端で拾った石と水で街中に落書きしたところ、怒られるどころかその才を見込まれ地方貴族の養子となった。
 そして数年経ち、ブライトは『天才画家』と呼ばれるようになった。
 若くして売れた画家の人生が、順風満帆でなければなんなのだろう。
 こうしてシエルが、ブライトの為のアトリエで共に絵を描いて居られるのも彼のお陰である。
 意地でも、絶対に言わないが。
「……ま、オレはお前のこと、結構醜い生き方してんなって思うぜ」
「へぇ……?」
 意外だったのか、今度はブライトが手を止めてシエルを見つめる。
「天才だなんだって言われてるけど、実際はただの努力の成果でしかない。どっちかっつーと才能だけならオレの方がある」
「なんだ、自慢か?」
「茶化すな。……だからお前は秀才だよ、紛れもなくな。それこそ、人には話せねェくらいの泥水啜って生きてる時だってあった。手の付けようがねェくらい暴れてた時もあった。ただ、そんなお前を知ってるのがオレくらいなんだよ。だから他人様から見りゃお前は綺麗でも、オレから見りゃお前は醜いのさ」
「そうか……そう、だな……」
 ぼんやりと返事をしたかと思うと、ブライトは筆を動かし始めた。
 シエルはまだ吹っ切れていない様子のブライトに呆れるが、話を続ける。
「だから、死ぬ時も孤独に死んでけ。誰とも結ばれないまま寂しく独りで死んで、五日経って、腐乱した死体でもオレが見に行ってやるさ」
「見に来てはくれるのか」
 苦笑しつつもブライトは、心が軽くなったように感じた。
「腐れ縁が繋がってれば、な。そん時にゃあ切れてるかもしんねェけどな」
「……なあ、シエル。お前に頼みたいことがあるんだがいいか?」
「内容による。……なんて冗談だ。なんだよ」
 腐れ縁であるブライトに妙に改まってお願いされると、シエルは居心地が悪く感じた。
「俺と一生友達で居てくれないか」
「なんだ、そんなことでいいのかよ」
 拍子抜けした表情で筆を進めるシエルに、
「あ、もちろん友達なんだから、最期は看取ってくれるよな?」
「おう……あ、でもオレは独身貫く気ねェからな! 勝手に独りで逝ってろ、オレは絶対に誰かと幸せになってやる」
 全くもって、潔い宣言である。
「……わかった、それでいいよ」
「い、いいのか」
「いいけどその代わり、これだけは譲らない」
 なんだ、と言いかけたシエルの頬に手を添えてブライトは微笑む。
「お前のこの、綺麗な目だけは俺にくれ。一生、俺だけを見ろ」
「…………こ、告白みたいなこと言うなよなぁっ!」
「ある意味間違ってないな」
「……っ!?」
 動揺するシエルを置いて、ブライトは筆を取った。そのまま絵を描き始める。
「お前は——シエルだけは俺を色眼鏡で見たりしないだろ? だから、くれって言ったんだ」
「……っ、あぁ、そういう……変な言い方すんなよ、馬鹿」
「なにと誤解したんだか……くくく」
「笑ってんじゃねェ! るせェ!!」
「夜中にうるさいのはそっちだろ?」
「ぐぅっ……!」
 ブライトの言ったことは正論で、シエルは無言になって止まっていた手を動かす。
「……あー、くそ、まあいいけどな? 腐れ縁が切れてなきゃな!」
「切れてないことを祈るさ、切にね」
 なんだかんだ言って承諾したシエルに、ブライトは笑みを隠し切れなかった。
 ブライトにとってシエルだけは、『天才』と言って自分を遠ざけたりしない唯一の存在なのだから。
 
 やがて彼らはは歴史に名を残す。
 『天才画家』と呼ばれた画家、ブライトと。
 そのブライトと交流のあった画家、シエルとして。

 ブライトは生涯独身を貫き、シエルに看取られて病で命を落とした。
 70年来の腐れ縁であるシエルもまた、生涯独身を貫き、ブライトの後を追うように二年後老衰で亡くなった。

 シエルが弟に託したという日記が、彼の実家で過ごす子孫から博物館に寄贈された。
 その内容は、ブライトがどれほど努力を重ねて来たのかを、シエルの感情を交えて書いたものが多く、生涯書き続けたのか百冊以上のノートが日記であった。

 かくして、この日記を元に歴史は正された。

 かつて『天才画家』と呼ばれた秀才、ブライトと。
 彼と共に在り続けた親友の画家、シエルと。

 彼らの一生を描いた作品は、世界中で劇として広められた。
 
 有名な、最後の一節がある。

「美しさを求めた彼らの作品は、決して完成することはなかった」

 完成を、生きている内に感じればそれで画家として終わりだ。
 だからこそ、彼らは求め続けた。

 彼らの人生は、世界で最も美しい友情の物語として、今も語り継がれている。

1/16/2024, 8:33:53 AM

《この世界は》

 女が一人、上も下もわからぬ場所で唄っていた。
 つと、こちらに視線向けたかと思うと、和装に身を包んだ女は気が付けば眼前にいた。

 のう、お主【迷い子】であろう? 何をしておったのじゃ、ここに来るなんぞ。
 何も覚えておらんのか? まあ、そうであろうな。皆同じことを言う。
 わらわもむかーしのことなんぞ覚えとらんからのう、仕方のないことじゃな。
 して、帰らせてやろう。
 感覚でわかるじゃろう、お主どこから来たのじゃ?

 女は自身の周囲を巡っていた、石の欠片の一つを掴んで見せる。

 これかの? ……そうかそうか、ここから来たのか、お主。災難じゃったなぁ。
 なに、帰り道を作ることなど造作もないことじゃ、気にするでない。
 ……じゃが、わらわと共にここに残るというのもどうじゃ? すぐに帰ってしまっては、ちぃとわらわがつまらんからのう。
 わらわが誰か? 久々に会話をして、名乗りを忘れておったようじゃの。すまぬ。
 わらわは、時として【運命】や【宿命】と呼ばれるモノ。中には【未来】などと呼ぶのもおったかの。とにかくまぁ、そんな存在じゃ。
 わからんというのもまた、運命よ。
 ここ? ここは……そうじゃの。万物の祖であり終焉を描く【時空】じゃ。全ての世界はここから生まれ、この遥か下方にある混沌に堕ちて征く。それが理と呼ばれておるのう。

 ひとしきり説明すると、女は再度石の欠片を差し出す。

 この世界は、既に灰色に染まっておる。本当にここに帰るのか?
 わらわはどちらでも良い。【迷い子】の選ぶ道だけは、お主が直人であろうと定まらん。
 じゃからお主の好きにせい、【迷い子】よ。
 ……己が道を決め、わらわの手を取るが良い。さすれば、お主の道に相応しき場に、お主は立っているであろうよ。

 躊躇いは感じられなかった。

 これ、待たぬか!
 決断が早いのは良いことじゃが、まだお主にはやらぬとならんことがある。
 お主、どちらじゃ?
 何者か、わかっておるのか?
 お主の決断次第で、世界は白にも黒にも染まり切るぞ。
 ……わかったわかった、幾度も問うたわらわが悪かった!
 決まったのじゃな?
 よい、ではわらわの手を取れ。
 
 何も、起こらなかった。
 確かにその手は、女に触れたというのに。

 ……まさかとは思うがお主、ここを選んだのか。
 はぁー、そうか。そうなるのかのぉ……。
 決まってしまったものを覆す力はわらわにない。
 責任は取ってやる、わらわの眷属となれ。
 眷属も知らんのかお主……まあ、わらわと共に暇を潰す役よな、つまり。
 
 女は改まって、向き直る。

 【希望】と【絶望】の間に生まれ堕ちし者よ。汝に眷属としての名をやろう。
 汝は——【奇跡】じゃ。
 この世界で唯一、わらわの知る運命から外れることのできる存在。
 それが、わらわの眷属たるお主の真名であることを努努忘れるな。
 わらわはお主を……そうじゃな、「お主」としか呼ばんからな。じゃが、忘るなよ。
 この世界は、二柱の間に生まれ堕ちたお主を否定せん。
 この世界を形作るわらわも、お主を【希望】と【絶望】の子とは思わん。
 わらわの眷属であり、【奇跡】を司る者として扱う。

 彼の世界のようには……どちらにも染まりきれぬ異物としては、扱わんよ……決して、わらわは。

 女はそう独り言ちると、その手を引いて歩み出す。

 【時空】を統べる孤高の存在たる女は——時空神たる彼女は、孤独を嫌っている。

1/15/2024, 9:45:20 AM

《どうして》

 身分の差を、理解していた筈なのに。
 この叫びは止まらなかった。
 待ってくれ、と考えた時には既に放ってはならない音が口を衝いていた。体が動いていた。
 愛だの恋だのとかいう感情ではない。だが、その女は俺の幼馴染なのだ。
 だから、その想いを踏みにじって漸く成される未来など、存在してはならない。
 俺が、絶対に赦さない。
「——その薄汚い手で触らないで貰えますか、シュレイト男爵」
 強引に横から掴んだその腕は、奴隷商人として裏で栄えたばかりか男爵の位まで授かった男の腕だ。
 富は莫大で、一代でここまで商業を発展させた者はなかったという。
 だから、そんな男と幼馴染の婚約が金で成立した——してしまったのだ。
「アーノルド、やめなさい。この方は私の婚約者として正式に認められた。彼に無礼を働くということは、あなたの主たる私に無礼を働くことと同義よ」
「この男との婚約、エレオノーレ様が望んだことであれば心よりお祝い申し上げます。ですが、そうではない。その御心が踏みにじられない為ならば、私は幾らでも無礼を働きます」
 いつもの通り、会話は平行線だ。
 彼女の表情は焦っている。なにせ、昨晩寝る間も惜しんで俺にこの婚約を納得させようとしたのだから。
 俺も一時は納得した。
 だが、今朝方彼女の父親の話を聞いて、腸が煮えくり返った。
 父親は、娘との婚約を条件に、莫大な資金と奴隷を手にしたのだ。それだけでなく、今後シュレイトに商いの売上の一割を永続的に貰うのだとか。
 つまるところ、彼女は父親に売られたのだ。それも自身の知らぬ間に。
 生憎と、それを知ってもなお、黙っていられる程のかわいい性格はしていない。
 これは、仕方のないことだ。
 そう割り切れたら良かった。
「おい、誰か! この不届き者を連れて行け!!」
「待って! 待って下さい、彼は悪くないの」
「大丈夫、躾られてないコイツが悪いんだ」
「彼は私の幼馴染よ!? お願いっ……」
 恐らく、連れて行け、とは額縁通りの意味じゃない。率直に、殺せ、か。
 薄く笑って、俺は彼女に傅く。
「貴女様の御心をお聞かせ下さい」
「アーニー……?」
「俺と二人で逃げないか、エレナ」
 愛称で呼び合っている時点で主従関係としては問題だろう。隣で守銭奴が怒っているがどうでもいい。
「……アーニー」
「お前の答えが、俺は知りたいんだ」
 手を取って真っ直ぐ目を見ると、
「私は——貴方の隣が、一番好きよ。昔から」
 聞きたかった言葉が彼女の口から零れた。
 それでいい、十分だ。
 返事も何もなく、俺は彼女の手を引き屋敷を飛び出て、裏門へと走る。
「……これ、もしかして計画の内なのっ?」
「どうだろうな。エレナ、馬乗れるか?」
「乗れる! ……みんなも知ってたの」
 追っ手が来ないのは当然、この屋敷の主以外全員が彼女の味方だからだ。
 それぞれ馬に乗り、開かれた門を駆け、森に出る。
「ねえっ……どうしてここまでしてくれるの?」
「言わせんなよ、恥ずかしい」
「どうせ貴方のことだから、あたしが好きとかそういうことじゃないんでしょ」
「なんでわかんだよ」
「幼馴染、何年やってると思ってるのよ」
 懐かしい会話だ。久しぶりの「あたし」だな。
「なんとなく、だな」
「なんとなくでお父様に逆らわないで……勢いで飛び出したのなら兎も角、計画がありそうじゃない」
「……幼馴染だからな」
 それが最初の質問に対する答えなの、と呆れるエレナは、次の瞬間破顔した。
「照れてるし!」
「照れてないっつーの! ほらほら早く行くぞ、待たせてんだから」
「やっぱり計画あるのね。ずっと考えてくれてたんだ……! アーニー」
「ん?」
「本当に、ありがとう」
「幼馴染のよしみだよ、気にするな。エレナ」

1/14/2024, 9:28:01 AM

《夢を見てたい》

 辺り一面を曼珠沙華が埋め尽くしていた。
 金魚は、僅かな水滴を纏い宙を泳ぎ去る。
 手を伸ばせば、全てが蒼き光の粒子となって空に溶けて消えていった。

 此れは夢だ。

 考えるまでもなく、頭が其れを告げた。
 物理法則がまるで存在していない世界でただ一人、不自然に花の咲いていない空気を踏み歩いて行く。
 頭上にも花が咲き誇っている所為で、此処が正しく地面なのかすら分からない。
 曼珠沙華——彼岸花。
 とどのつまり、此処は、幽世と現世の境のようなものなのだろうか。
 だが、三途の川らしき水源はなく、紅で彩られた世界にそれ以外のものは殆どない。

 なら、異世界のようなものか。

 現実世界ではないのだ、不思議な世界観の夢を見たとて不自然はない。
 何故此処に己が存在しているのか、全く心当たりがない。
 其れに、夢だと解れば目が覚めてもいい筈が、その様子がないのである。

 不可思議なものだ。

 違和感は覚えるものの、所詮は夢の中だ、特に気にする程の事でもないだろう。
 幾ら歩けど見える世界に変化はなく、飽きを感じた頃だった。

 誰か、いる。

 遠くに立つ人影を見つけた。
 それが人と解ったのは、此方に向けて声を放っていたからだ。
 上手く聞き取れないが、名前を呼ばれているのだ、と思った。
 懐かしい声だった、とても。

 泣いている。

 それが解った。
 そして、その涙を止める為の術も。
 だからこそ。

 嫌だ。でも、仕方ない。

 最初から夢だと知っていたのだから、諦めはつく。
 この泡沫の夢から逃れることも、容易い。


 目を覚ますと、傍らで泣いていた。
 手を伸ばし、その頬を撫ぜる。
 
 ごめん。辛いんだ、もう。

 その辛い現実に、君はいる。
 だから、生きなければならないのだろう。

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