《愛 - 恋 = ?》
 小説や物語の世界にある、恋愛というのは奥深いものだと思う。
 そして、咲楽にとっては好みのジャンルだ。
「……愛だの恋だのくだらない、考えるだけ時間の無駄だ」
「なんてこと言うのさ」
 それをばっさりと切り捨てた友人——幸人を睨む。
「いや、テスト勉強しに来てて『愛と恋の差とは、なんでしょうか』……ってなんだよ」
「それはそうだけどさぁ……ほら、幸人って国語だけ不得意でしょ? 特に古典の恋の歌」
「それを教えてやるって? ……自分が納得した答えなら、受け売りでもいいか」
「うん。もう答え考えたの?」
「前に言ってた本で……愛は一方向のもので恋は双方向のもの、ってあったろ」
「あったね。ってか、勧めたやつ読んだんだ? 意外!」
「……いや、誰かに勧められて読まないのは悪いだろ。……で、どうなんだ?」
 咲楽の顔を見るに、幸人の答えは間違いでもなさそうだ。
「……一応、私の考えと大差ないから……正解ってことにしてあげるね?」
「いや、頑張るなよそこは……」
「じゃあ、もう一問!」
「先に問題。数式使って解くだけだろそれ」
「……それを忘れたんだからしょうがないよね」
 視線を逸らす咲楽に、幸人が数式の使い方と問題の内容を解説する。
 ひと段落したところで、
「……さて。もう一問、ってなんだ?」
「あ、忘れてた!」
「ならもういいか」
「良くない! ……じゃあ改めて、もう一問ね」
「……はいはい」
「愛から恋を引くと、何になるでしょうか」
「……は? なんて?」
「だから、愛引く恋はなに、って」
「そんな数式みたいな……ほんとに答え、あるんだろうな?」
「あるよ。ある。……だから幸人、答えは、テスト最終日に聞かせてね?」
「……それ、俺の集中を少しでも割きたいだけだろ」
「そんなことないよ! 本当!」
 つと、さー続きでもしようかな、と言い出した咲楽を前に呆れる幸人だが、
「そういうことにしといてやるから、いい点とれよ?」
「……負けないし」
 そう言って問題集を開く咲楽に、ふと、笑ってしまった。
《梨》
 神話がどうとかで、林檎は禁断の果実らしい。原初の人類が食べた、善悪の木の実だとか。
 なら、それに似た見た目の梨は、禁忌の果実だとなるのだろうか。だったら面白い。
「……それで? 君はそれを食べたから何なのさ。禁断の果実は、人間の無垢を喪わせたというけれど、今の君が、それで何を喪うと?」
「……そうだね。きっと、私は今、純粋さを喪ったのだろうね」
「それが、原初の彼らが直面した無垢の喪失と似ているものか」
「似ているじゃあないか。そも言葉は似ているね。始まりが全く清純だったわけではないが、私にも純粋なんてものはあったからね」
「……なら、禁断の果実を食らったのは蛇が唆したとかって言うだろう」
「それの代わり? 私にこれを食うてみよ、と言ったのは誰だったかな」
「……最初から、巻き込まれていたわけか」
「この話のきっかけも私からでない、これが答えだろうよ」
「……あぁそうかよ」
 不貞腐れたように視線を逸らすから、
「なら食べてご覧よ、ほら」
 一口齧った梨を差し出すと、
「…………別に、普通の梨の味だ」
 逡巡して、一口齧ってそう言った。
「そうだろうね、まぁ。でも、なるほど、君は蛇の代わりではなかったね」
「なんだ、共に果実を喰らったから立場が変わったと?」
「いいや、違うよ。……耳まで真っ赤になった君は、梨より林檎が相応しいね」
 そう言って笑うと、
「そう言う君の、美しい若葉色の髪は、梨みたいだね!」
 と言い去ってしまった。
 もちろん、私の笑い声が上がったのは言うまでもない。
《愛する、それ故に》
 暗い路地に入って少し。表通りの喧騒から距離を置いたところに、一組の男女の姿があった。
 男はフードを被っていたが、女は被らず桃色の髪をふわりと揺らしていた。
「……ねぇ、エリオット様」
「はい、なんでしょう?」
 彼女の言葉を聞こうと、男——エリオットが身を少し屈める。
「……わたし、」
 その言葉の先を紡ぐ前に、彼女の腹から剣先が生えた。
 否。無論、金属が唐突に生える訳もなく、背後から刺されたのだ。
「……! 何者だ!」
 エリオットが誰何したが、黙したままの襲撃者は剣を更に深く刺し込む。
 襲撃者はフードを深く被っていて顔は見えないが、手を見るに男のようだ。
 完全に剣の間合いだ、エリオットは迂闊に動けない。
 その傍らで吐血したかと思えば血潮を撒き散らして、甘ったるい笑みを貼り付けた女の体は地に伏した。
 頬が泥に塗れてから、彼女は漸く悲鳴を上げた。
 エリオットは、襲撃者の剣の柄を見て硬直する。正しくは、そこに在ってはならないの紋章から目が離せなくなったのだ。
 襲撃者は耳降りな音を止めるべく、剣を彼女の首に落とす。
「……は……な、にを……して……」
 呆然としたまま零れた困惑は、はたして、
「見てわかるだろう? 女を一人、殺しただけだ」
 襲撃者の口を開かせるに至った。
 襲撃者は剣を振って血を払い、鞘に納める。その一連の仕草は優雅で、とても人を一人殺した後とは思えない。
「——っ、なぜ貴方がこんなことを!」
 エリオットが食って掛かった拍子にフードが捲れ、襲撃者の顔が露わになる。
 金の髪に翡翠の瞳。整った顔立ちの、美しい男。
 一度見れば忘れる筈もない、この容貌を持ち得ているのはただ一人。
「理由など、言わずともわかっている筈だ。エリオット」
 エリオットが友と思い、また、主と仰ぐ人物。
「……どうしてですか、ルイ……!」
 ルートヴィヒ。この国の王太子殿下、その人である。
 彼が自ら殺人を犯すことの意味を知らない筈がないのに、なぜ事を起こしたのかとエリオットは混乱する。しかし、市井であるからと王太子を愛称で呼んだ辺り、彼は理性を失っていないだろう。
「……俺はお前に、理由を教えるつもりはない。だが、王家の者として剣を振ったからには、それ相応の大義のうえであることは……説明するまでもないか」
「……そうまでする理由が、あったと?」
「ああ、そうなるな」
 淡々と告げるルートヴィヒを見て、エリオットは悟る。これは、ただの友人でもなく公爵子息たる己であっても立ち入れない物事なのだ、と。
 そうは言っても、彼が目の前で少女を殺めたことの免罪符にはなりはしないと、そう思った。
「……ルイ、貴方は——」
「エリオット=フォン=アンティール。次期宰相たる貴殿の勤めを果たせ。これからも、な」
「…………はい」
 だが、エリオットとて公爵家嫡男。
 家名を出してまで制されては、閉口する他なかった。
「これは私兵に片付けさせる。……くれぐれも、一人で街に遊びに来たことを忘れるなよ」
「……そのように」
 一言ことわって、エリオットは路地を出て行った。
 納得がいかないのだろう、随分と剣呑な雰囲気を漂わせていたがあれで街を歩けるだろうか。
 返り血の付いた上着を脱ぎ捨て、ルートヴィヒも場を去る。友とは反対に、路地の深くまで進む。
「…………これで満足か、性悪女」
 誰もいない路地で独り言を呟くと、
「……ありがとうございますルートヴィヒ殿下ぁあああああああ!」
 先程ルートヴィヒが刺し殺した女が、文字通り突っ込んで来た。
「……人気が少ないからと言って、俺の名前を叫ぶな! ……本当にあれが正解なのか?」
「はい、もちろん! 名演技、ありがとうございました!! 歓喜の極です!」
「何を言ってるんだ君は。おかげで俺はエリオットに口も聞いて貰えないだろうな、今後!」
「そのおかげで彼の命が助かりますよ殿下!」
 そう。これは幻覚魔法を有した少女と、悪役に任命された王太子殿下の共犯で行われた事件だ。
 エリオットの為に、と頼み込まれたのだ。
「……本当に、そのシナリオ? を回避してイベント? をなんとかできたんだろうな……」
「絶対大丈夫です! エリオット様は無事です! これでフラグが折れたので!」
「……もし失敗していたらそのときは、本番だからな……?」
「えっ、怖いこと言わないで下さい! でも、大丈夫です! 多分! 絶対!」
「どっちだよ……」
 呆れたルートヴィヒは、思わず天を仰いだ。
 転生ヒロインと、それを知ってしまった王太子。
 最推し? というエリオットの命を救うべく。
 大切な友人が死ぬフラグ? を回避すべく。
 学園で出会った二人が、シナリオを改変していくのは——これが序章である。
《既読がつかないメッセージ》
 普通、連絡というのは頻繁に取るものだと思い込んでいた。
 メッセージを送って、少しして返信が来て、また会話が続くようなイメージで。
 僕が性分的に、気がついたら直ぐに返信をするタイプだからというのもあるが、現代人の多くは三日と空かずに連絡を返すものだと思っていたのだ。
 しかし、恋人はそんな僕の考えを遥かにすり抜けてしまう。
 返信が一日以内であれば早い方で、三〜五日程度が平均。一週間、酷ければ一ヶ月近く既読すらしない。しても、返信は来ない。
 こういう感じか、と最初の頃は拍子抜けしたものの受け入れていた。
 なんというか、ここで変にもっと早く返信してくれ、と言って嫌われたくなかったのだ。
 けれど、最近はとても不安になる。
 だって、好きな人からの連絡に既読もつけず、既読をつけてもスタンプですら返信をしないことがそうあるのだろうか。
 気がつかなかった、と何度送られてきたか。
 前の質問にも答えず、僕が新たな話題を投じて、そこから更に時間が経って返信が送られてくたときの気持ちを、考えたことはないのか。
 きっと面倒臭いと思うだろう。
 理解できないと思うかもしれない。
 だから、言わない。
「返事に困ったときは、スタンプでも何でもいいから送ってくれると嬉しい」
 それだけ。
 不安になるから、なんて。
 嫌われたのかと思うから、なんて。
 君にはそんなつもりがないのはわかっているから、直接は言えない。
 でも、不安になるくらいは許してくれ。
《ひとりきり》
 ある魔女が死んだ。
 とても強大な力を持ち、誰よりも恐れられた魔女だ。
 彼女は森の奥深くにある塔に幽閉されていた。実質の牢獄である。手も口も拘束されてはいなかったが、塔の最上階から鎖の伸ばされた足枷があった。
 塔には彼女の他に、唯一の出入り口である一階の扉の前に門番が一人。また、時折出入りする使用人が一人。
 魔女は放つ言葉の全てに魔力が込もり、さした苦労もなく魔法を紡ぐ。
 魔法とは、魔女のみが所有する常軌を逸した力のことである。魔力を込めて言葉を発することで成立するのだが、魔女と会話をしているうちにどんな魔法に掛けられてしまうかはわからない。
 つまり、会話自体が命取りなのである。
 彼女とは言葉を交わすこともない使用人が三日に一度、硬いパンと水を与えに来るだけの日々が長く続いていた。
 魔女は人間ではなく、食事を取らずとも死ぬことはない。だが、飢餓感が存在していない訳ではなくその苦しみだけが身を襲うのだ。
 それでも、人間と比べれば随分と長く腹は空かなかった。
 それが魔力を原動力とする魔物と同じだ、として恐れられた。
 それゆえ王の命令で討伐隊が組まれたのだが、魔女は無限の魔力を所有しており倒し切ることは叶わなかった。
 それでも捕縛に成功したことは確かな功績とされ、前王は讃えられている。
 一方、魔女は王城の地下牢からすぐに魔法を封じる塔へと移され、かれこれ幾年かひとりきりという訳だ。
 そんな魔女の元に、また使用人が硬いパンと水を寄越す。最上階に据えられた小窓以外時間の流れを測ることもできない塔で、使用人の訪れる回数が時間の経過を教えてくれる。
 だがそれも、魔女は幾らか前から数えるのを止めてしまっていた。
 どうせ命ある限り塔からは出られないのだし、現に幾年が過ぎようと日々になんの変化もなかった。
 魔法も使えず、生きる意味も与えられず、それでも死ににくい体を抱えて生きる他なかったのだ。
「——魔女様、貴女はどうしてこちらにいらっしゃるのですか?」
 魔女の息が止まった。
 一階の扉近くに、いつものように硬いパンと水の入った瓶を置いて無言で去るかと思えば、
「魔女様?」
 ある一定の距離は取るものの、反応を待っている。よくよく見れば、昨日までの女性ではなく男性へと代わっている。
「……王がそう命じたから、でしょう」
「……意外とかわいらしい御声をされているんですね。陛下の御命令がなければ、魔女様はこの塔から出られるのですか?」
「……出ら、れないわ。本来は極刑のところを、殺せないから、とここに閉じ込められたから」
「そうですか……」
 動揺の収まらないまま会話は続く。
「でしたら魔女様、俺と結婚しませんか?」
「……私、見た目はこんなでもきっと貴方の倍は歳上よ」
「失礼ですが、お幾つでいらっしゃいますか?」
「……わからないの。ここに来る前は十九歳だったけれど、それからどれだけの時間が経ったかは……」
「ああ、それでしたら俺と貴女は二十三ほど離れていますね。俺は二十一歳なので」
「……私って、二十五年もここに居るの……?」
「? はい。ご存知ありませんでしたか?」
「……そう」
 ここまで話して、魔女は年齢の話をしている場合ではなかったことを思い出す。
「……というか、早く戻った方がいいわ。そろそろ不審に思われてしまうから」
「お気遣いありがとうごさいます。ただ、遅ければ、死んだか逃げた者として扱われるだけでしょうから問題ありませんよ」
「問題あるでしょう。既に頭に異常をきたしているわ」
「ああ、結婚しませんか、では不十分でしたね。申し訳ありません。……魔女様、どうか俺と結婚していただけませんか?」
「そっちじゃないわ! ……あぁもう、貴方、何がしたいの?」
「……魔女様がおひとりで過ごされていると聞いて、それならば俺が共に過ごせないかと思いまして」
「……どうして?」
「共に刑に処されるためには、血縁関係にある親族か家族でないと不可能なので……他人の俺がそう在るには結婚するしかあるまい、と」
 なぜ結婚という結論に至ったのかを聞いた訳ではないのだが、彼は当然のようにそう答えた。
「……わかった」
「本当に結婚して下さるのですね?」
「いいわよ、なんでも。どうせ貴方は先に死んでしまうし」
 酷い言葉を吐いたとわかってのそれだったが、青年は一切表情を曇らせることなく破顔した。
「ありがとうございます! 魔女様——いえ、ユンテ様のことは、俺が一生を懸けて幸せにしますから」
「……え、えぇ……」
 魔女は、名前を教えていないはずの彼が魔女と呼ばれる前の名を口にしたことに気付かなかった。
 そんなことを考える余裕もなかったのだ。
 ひとりきりでなくなった魔女と、結婚を願い出た挙句共に塔に幽閉されることとなった青年。
 二人の紡ぐ物語、訪れる魔女の最期は——また、別の話である。