《泣かないで》
昔から、お前には弱かったように思う。
一生のお願い、なんて言葉をお前の口からはもう十数回も聞いた筈なのに。
もちろん、頭が上がらないのはある。
弱みならきっと、誰より握られているだろうし、そのくせお前の欠点も俺は知らない。
愉しいことが好きで、好奇心が旺盛で、時に手段を選ばない、好みのはっきりとしている、イタズラ好きの、悪魔みたいな、最低かつ最悪な奴。
それが俺にとってのお前だった。
真面目な面を被って、笑顔を貼り付けて、猫撫で声で話すお前は、俺以外にとってのお前だった。
「ねぇ、一生のお願いだから……早く、立てってば」
誰よりも自分の安全を選んだ上で、俺には後始末も全部押し付ける。不条理だし、最悪だ。
気が付けば犯罪に片足どころか全身突っ込まされそうになったことだってある。災難にも程がある。
それでもお前の傍に居続けたのは、俺も、普通でない人間の、そういう部類に入っているからだろうな。
普通じゃないことを肯定して、綺麗事の様な当たり前だと人々が認識するような事象を、まるごとお前は受け付けずに切り捨てる。
だから、俺も本当の意味で見限られることはない、と確信していた。
「ねぇってば……聞いてる? おーい? こんなにかわいくおねだりしてるのに、聞こえてないの?」
偽善者の放つ、私は貴方がどんな人間でも受け入れるよ、だから私に全部思っていることを話してくれたら嬉しい、なんて言葉が塵芥に見えるくらい。
それくらいには、お前に安心感を抱いていたんだと、今更ながらに気が付いた。
絶対的に、最後は裏切らないという信頼。
そんなものを持っていた俺が悪かったんだろう。
だからこうして、腹から血を流して、口から血を吐いて、地面に頬を付けているのだろう。
歪んだ視界を埋めていた空色が、遮られる。
「……聞けよ。……立て。立てって言ってるでしょ、この馬鹿。早くしてよ」
お前と俺はいわゆる悪友だった……と思う。
それにしては俺の方が不快な思いを多く味わって、お前の方が甘い蜜を吸えたんだろうが。
それでも、相棒だったのかも知れないし、相方だったのかも知れないし、親友だったのかも、幼馴染だったのかも、友人だったのかも知れない間柄だ。
そう思っていたのは、きっと、俺だけだったんだ。
漸く俺は己の体が動くことを思い出して、腹の熱さに灼かれながら、金の光に手を伸ばす。
「アホ、マヌケ、意気地無し。早く立ってよっ……! ねぇってば! いつまで寝たフリしてるわけ? もうそういうのいいから、早くしてよ、時間ない」
それがお前の目だと気が付いて、頬に手を擦り寄せる。うん、いつもと、昔と変わらない温もりだ。
本人は無意識だろうが、俺がこれをするとお前は自分からほんの少しだけ擦り寄ってくる。
なんだかんだ言って、怪我をすれば手当をしてはくれるし、情報収集はそもそもお前の十八番だろ。
時折見せる真剣な眼差しが、いつもの人を小馬鹿にしたようなニヤケ面とは違って、はっとする。
「……ぁ……ごめん、なさい」
珍しく謝るお前の姿を見ていると、なんだか、俺が小動物を虐めたかのような気分になって来た。
元はと言えばお前が悪いんだろう、俺はお前の言葉に従って、時に外れて生きて来たのに。
その俺を軽んじたのは、断じてお前の方からだ。
だから、これはお前にとっての報いだ。
頬にあった、力の入らなくなって来た手を落とす。
「……嘘だよ、全部。ただ、立ってほしいだけなんだってば。謝る、から……謝るからっ……!」
なんで、お前がそんなこと言うんだよ。俺は確かに驚いたけどな、けど、怒った訳じゃない。
謝るなんて、らしくない。いつものように傲岸不遜かつ不謹慎に笑って過ごせばいいと言うのに。
お前の手から落ちたナイフにこびり付いた血は、とうに腹から流れた血と混ざって道にしがみつく。
「だから……さっさと目ぇ覚ませって言ってるだろ」
どうせ元から同じ血だ、混ざったとて固まる時間が前後するだけだろう。
お前はいつもそうやって、肝心なところを誤魔化して生きながら間接的に人をころした。
もう目を動かすことすら精一杯な俺は、せめてもの抵抗にと一言残していくことにしよう。
「なあって……! お願い、だから……起きて……」
こんな時になって漸く俺に抱き着いて、今更だとは思わないのか。不思議なものだ。
それでも、やはり一緒に居たいと思う。
過去の話でも、未来の話でもない。今だ。
今を生きる上で、俺はお前のことが大切だった。
「ごめんなさい……お願い……起きてよ……!」
縋り付くお前を虚ろに眺めながら、無理やりにでも手を動かそうと粘る。
それでも、もう、指の一本も動かない。
さっきまでは俺も機関銃を手にできていたのに。抵抗出来なかったわけではない。
「お願いっ……起きてよ……ねぇ……!」
お前に刺されたくらいで俺は、死ぬつもりなんざ毛頭ない。
そんなふうに懇願されても、上からの命令は絶対だ。それは覆らない。
「ごめっ……お、願っ……!!」
俺はお前が間違えたことを全部今まで背負わされてきた。履歴も犯罪未遂も、なにもかもを。
だから、今回もそれは同じだ。お前が間違えたんだと思うならば、俺を黙って受け入れる他ない。
「……お願いします、神様。どうか、」
神なんてものを信じないし嫌いだと口にしていたお前が、俺の為にそれを言うのか。
他の誰でもなく、俺の為に、厭うものを。
「許さなくて、いいから。お願いだからっ……!!」
ありがとう、なんて。相応しくない言葉だけど、俺は確かにそう思ってしまったんだ。
「……離れていかないでよ、ねぇ」
泣かないでくれ。お前の可愛い顔が見えねぇだろ。
「……うるさい、馬鹿」
(((随分ご無沙汰しておりました、私事ですが謝罪を。また再開して不定期に上げますので、貴方の時間を彩るお手伝いになれればと思います……m(_ _)m
《放課後》
一時的に保存……
《過ぎた日を想う》
文明が発展し、殊に医学の分野において異様に発達したといっていい現代社会において、傷とは。
どんな手術痕であろうと元の通りにしてしまえる技術が生まれたのは、何十年か前のこと。五年前には、どんな古傷をも跡形もなく綺麗さっぱりとしてしまう技術が生まれた。
そうして、現代社会を生きる人々にとって傷とは一瞬にして治るものとなった。
過去では諦めるより他はなかった古傷さえも、未来で治すことのできるようになったのだ。
——今、老人が一人、息を引き取ろうとしていた。
実に百四十年余りを生きた体は、既に崩壊の兆しを見せている。
医学の発展がもたらした結果が、この寿命の延びた肢体なのだ。
また、この老人の体には数多の傷が刻まれていた。
周囲のものは皆、誰彼問わず治したそれを。この老人は後生大事に抱えていたのだ。
雨の日に時折疼く裂傷、腕を動かした時にやや痛む刺傷、なにより不便でならなかったろう、左目を縦に貫く刀傷の数々を。
どうして傷を治さないのか、と近所の人が老人に聞くと、
「この傷はただの傷ではないからだ」
と返したそうだ。
ではなんの傷なのか、とまた老人に聞くと、
「朋のくれた思い出だ」
と答えたそうだ。
結局それ以上は語ろうとせず、近所の人達は老人の傷だらけな姿を忌避した。
それでも老人はその姿勢を崩すことはなく、生涯古傷を抱えたまま幕を閉じようとしている訳である。
「……優心……遥香、龍斗」
傷ごとに、老人の口は古き朋の名前を紡ぐ。それぞれに、どんなに小さくともそこに思い出を刻まれてあるのだ。
「優奈、彰人……航誠……木乃美」
まるで愛おしいものかのように、老人は傷をひとつ撫でては涙を零す。
もう殆ど動かない体だ、手の動きも既に震えに支配されかけている。
「一花……朝美、恭介……」
殆ど視界は朧げとなり、老人の手は布団の上に落ちた。
そうして、老人はただ——眠りに落ちた。
安楽死というものが病死よりも遥かに増加した現代社会において、老人の死体なぞ埋もれてしまえるありふれたものであろうが。
それでも、老人は決して他の人に埋もれる姿をして亡くなりはしなかった。
古傷を撫ぜ、過ぎた日を想う。
それだけの差が、この老人の死を異なるものへとしたのだろう。
それだけの差が、この老人の孤独な死をあたたかなものとしたのだろう。
体を傷付け欠けさせたまま、心を満たした老人は静かに息を引き取った。
その心に気付く者は、この社会において存在するのであろうか。
人々が失いつつある、不可思議で無理解なことの意味が問われるのは、いつになるであろうか。
《奇跡をもう一度》
魔法学園の入学式が執り行われる日。
新入生達は、開かれた正門の前で立ち尽くしていた。
魔法学園の入学試験は、全部で三つある。
一つが筆記、一つが身体能力と機転を測る実技、最後の一つが——
「迷路を抜け、講堂へ辿り着いた者のみに入学資格を与える」
というものだった。
魔法によってか、肥大化した植物が覆う講堂へ続く道が視界を塞ぐ中で、声は頭の中で厳かに響いた。
物理無効の魔法によってのみ破壊可能な、自己再生能力を持つ魔法植物による迷路。それを通って辿り着くには、当然魔法が必要不可欠となる。
入学前に魔法を会得している者は全体の一割にも満たない。だのに、最後にして最難関の試験において魔法が必要。
新入生らにとって、これは不可能を与えられただけに過ぎないやもしれぬ。ただ、決して魔道への道を閉ざすべく存在する試験ではないのだ。であれば、攻略法は存在する。
つと、一人の少年の前に魔法陣が生じたかと思うと、そこから膝をついた青年が現れた。
「——シュルツ王子殿下。是非、貴方の前に道を拓くことをお許し願いたい」
魔法学園の三年生の一人。学年首席を入学時から維持し続けている秀才にして、時期公爵の地位を約束された公爵子息だ。
「ああ。私からも願おう。頼めるか」
「お望みとあらば」
鷹揚に頷いた少年——シュルツに応えた彼は、道を塞ぐ魔法植物へと杖を向けた。
「【切り払われよ】」
たった一言、詠唱によって導かれた魔法陣が展開され植物の根を切断する。
そうして彼らが通った後に、すぐ、植物は元の通りに再生した。
つまるところこれは、ただの演出である。
王族という最初から入学資格を持つ者を用いた、その他の新入生らに攻略法を示すだけの。
「……わ、私の為にどなたか道を拓いて下さらない!?」
「——ええ、構いませんよ、リノア侯爵令嬢」
「気合いで行けないのか、これ!」
「——豪快ね。助けてあげるから突っ込まないの」
「俺……帰っていい……?」
「——はいそこ、諦めない。というか帰るな将来有望なんだから君ぃ」
家柄、工夫や能力……様々な観点で評価を受けた新入生達の元に魔法学園の三年生らは姿を現した。
魔法学園の三年生らが投影魔法で審査しており、彼らが気に入った新入生を指名して、それを受けた教員が転送するという仕組み。
早い者勝ちの面接のようなもの、というのがこの試験の実際だった。
一人またひとりと三年生に連れられ、迷路の中へと入っていく。
少しでも自力で進もうと模索する者もいるが、そういった手合いにはすぐに助けがくる。工夫を凝らそうという姿勢が評価されるのは、当然のことだろう。
「あ……どっ、どうしたら……」
そんな中、未だ事態を呑み込め切れていない少女が一人立ち尽くしていた。が、優れた能力者ではないと自覚していた彼女は埒が明かないとして、迷路へ足を踏み入れる。
右を見ても左を見ても見たことのない植物が目に映るばかりで、少女は訳もわからず駆けていた。気ばかりが急いてしまうのだ。
また行き止まりになって、一度少女は足を止めた。
「と、取り敢えず……どなたか聞こえませんか? 助けて下さい……!」
辺りを見回し誰もいないことを確認したかと思うと、少女は空白に向かって声を投げる。
「お願いします、どうしてもこの学園に入学したいんです! ……なんて、言っても聞こえてないか」
声を萎めて少女が肩を落とすと同時に、
「な」
景色が一変した。
植物に囲まれてていた筈が、いつの間にか正面には人がいる。魔法学園の制服を着た女性だ。その人は椅子に座っていて、その前に置かれたテーブルには、受付、とあった。
突然現れた少女に女性は驚いて声を上げた。
だが、状況についていけない少女の耳にそれは入らない。
「…………へ? ここ、なんで……私、」
「お、おめでとうございます!」
「あっ、え? ありがとう、ございます……?」
務めて冷静になろうとした女性の圧に押されて、少女は感謝を言った。だがやはりなにに対してなのかすらわかっていない。
「……正式にご入学されました。どうぞ、扉を進んで空いている席に着席して下さい。試験終了までは待機時間とします。私語は自由です」
「は、はい……」
女性に促されるまま、少女の三倍はありそうな高さの両開きの扉を開ける。見た目よりも遥かに軽いのも、魔法かなにかか。
その向こうにあったのは、半分ほどの席の埋まってある講堂だった。
迷路の先にある講堂とは、ここのことではないかと少女は気付く。遅いが、それでも咀嚼してでなければ理解できない急展開であった。
「え、ええっ? つまり……どなたかが私をあそこまで転送してくれたってこと……?」
先程かけられた言葉も反芻した結果だ。
少女の記憶にも、そして今周囲にも上級生らしき人物は見当たらないがそういうことなのだろう。魔法についてよく知らないが、だからこそ、そういうものかと納得する。
「……今ご覧になっていらっしゃるかはわからないですけど、助けて下さってありがとうございます!」
見えているか、見えていないかわからないが少女は礼を言った。
なにはともあれ、最終試験に合格できたことは感謝すべきだろう。
そうして、少女の奇跡は一度起こった。
——あれから一年経っても、少女を助けた人物はわかっていない。
それでも少女は、当時三年生だった上級生らを片端から当たって恩人を探し続けている。
願わくば、恩人に会いたいと。
「お願いします、どうか、奇跡をもう一度」
今度は少女の手で奇跡を掴もうと足掻いている。
《別れ際に》
「ひと月が終わる度に雨が降る」
それが別れの言葉のようだと、先生は言った。
それは別れが悲しくて泣いているのだと、
学生の頃の私は言ったのだったか。
もう覚えていないけれど、
先生、今、ここでは雨が降っていますよ。
あなたのいる所は、ずっと晴天でしょうね。