月光の降り注ぐ一際静かな夜。
少し肌寒いくらいのその日は、何故だか妙に心細く、物悲しくなるもので。そんな時は度々、射し込む月光だけを頼りに、ぼんやりとした輪郭を鏡に映しとるのだ。
「……………………何を、今更…………」
鏡に映った己の顔。
しかしどうだろう?
一度記憶の狭間に落ちてしまえば、そこに映るのは懐かしい面影が宿る"誰か"の顔だ。
当然だ。
当たり前だ。
似ているのなんて、至極普通の事なのだ。
忘れるつもりなんてない。忘れられるわけがない。
苦悩と贖罪と逃れられぬ罪悪感の中で。
けれどその面影の中に、何れでもない大切な物が確かに宿っているのだ。
貴女と同じ色の髪。
貴女と同じ色の瞳。
罪は消えない。
罰は終わらない。
永劫の罪過は死せるその時まで続く。
ただのその《罪と罰》も、貴女と同じ色だと言うのなら。
ほんの、少しくらい。
貴女にだけは許されたと。思っても、良いのでしょうか。
【題:好きな色】
『もしあの時、あの道を選んでいれば』
なんて"たられば"を、生きていれば誰しも一度くらいは考えた事があるだろう。
一度たりとて迷うことなく順風満帆な生涯だった。
そんな運の良い ──── あるいは単純で楽観的な思考を持つ ──── 者はほんの一握り。大抵の人間は後悔と未練を何処かに残した、良くも悪くもない平穏に満足している者が大半だろう、というのが俺の見解だ。
あながち間違いでもないはずだ。
現に、確かな今の中でも、この"たられば"が過ぎる事があるのだから。
高望みしすぎ?
いいや、いいや。これが高望みなものか。
俺は知っている。今いるこの場所こそが最善だったと。
最善ではあったが最高ではなかった。
差し伸べられた手を取る事は出来なかった。
何もかも捨てて、最も欲しいモノだけに手を伸ばすことは出来なかった。何も捨てる事が出来なかった結果は、一番大切なモノを失い、あるべきものがあるべきへ収まった予定調和の日々。
息苦しくてたまらない、物語めいた最善の話。
後悔ではない。
未練でもない。
これは、
叶うのならば選びたかった願いが、零れる音。
嗚呼。鳥が飛ぶ、鳥が飛ぶ。
遙かに高き蒼穹を見上げ、広大な自由を飛び回る鳥が眩しいと目を細め、届くことのない指を伸ばし、後悔でも未練でもない願いを独り言ちる。
あの手を取った未来を見てみたくもあったのだと。
【題:岐路】
誰にも言えない秘密がある。
いや、"秘密"と言うには少し大袈裟かもしれない。
けれどあっけらかんと話すには不謹慎すぎること。
これは、そう、『誰を優先するか』という話である。
恋人か肉親か。
親友か恩人か。
子どもか老人か。
あるいは男か女か。
心理テストのような『命の優先順位』の話。
例えばもし。いや、"もし"や"万が一"なんて事が起こらない事を前提とし、それでも何らかの理不尽な出来事のせいで大切な者が失われかけた場合、私は果たして誰を優先するのだろうか?
答えは誰も知らない。
私の胸の内にしかないから。
けれどいざその時が来たら?
苦しんで苦しんで苦しんで、それでも最後には決めていた優先順位通りに手を伸ばす。手を離した命に、永遠に懺悔することになるのだとしても。
順位は所詮順位。
覚悟とは全くの別物だ。
失う後悔も苦しみも、本当は、何一つだっていらない。
(だから。失わない、力を)
秘密を秘密のまま。
誰にも知られず、そっと胸の内に閉まっておく為に。
【題:誰にも言えない秘密】
初めはベッドと、ソファと、テーブルしか置いていない簡素な部屋だった。
住めれば良いと言うか。
最低限生活出来れば、家具のデザインは気にならないし、悪趣味な置物があろうが動線が悪かろうが、正直寝るだけの部屋に求める物はとても少なかった。
それが、何時からだったか。
『おい。なんだ、これは』
『茶葉だな』
『何種類あるんだ。必要ないだろ』
『味は当然、同じ種類でも状態によって香りは全く異なってくる。お前には同じに見えても、私の気分に合わせて用意してあるんだ。下手に構うものならシバくぞ』
『花瓶?』
『お前から貰った黒薔薇を飾る場所がなくてだなぁ』
『何処から見つけてきた』
『暇だから片手間に作った』
『童話に幻想小説に、何の役にも立たない本ばかりか』
『想像力の欠如した阿呆の言い分だな』
『役に立たないのは事実だ』
『なら一冊読んでみれば良い。よぉく考えながら、な?』
『………………なんだ、この、ファンシーな…………』
『可愛いだろう?』
『どこの世にいい歳の男の部屋にぬいぐるみを大量に置く馬鹿がいる? 貴様か? 貴様だな!? 幼女のような趣味をしているからに!!』
『可愛くないお前には特別に鳥ぬいを譲ろう』
…………………………上げればキリがない。
おかしな女の酔狂に付き合ってやっていれば、殺風景なんて言葉すら烏滸がましかった部屋も、何時しか賑やかに所狭しと物が並べられた部屋になっていた。
大概はガラクタなのだが。
見慣れてしまえば、捨てるのも気が引ける。
何なら勝手に動かすと後が怖い。
彼の女の好き勝手を咎める者も中には居たが、当の本人は何処吹く風で気にした素振りも見せない。
当然その者達は憤慨するが、今に始まったことではない。
故に彼らの抗議を遮って一言こう口にする。
「あれの好きにさせておけ」
どうせ言った所で聞きやしないのだから。
彼らを困惑と共に置き去りにし、戻った部屋に投げておいた鳥のぬいぐるみを潰すように撫でる。何とも気の抜けた呆れきった笑みを浮かべた顔なんて、だぁれも知らないのである。
【題:狭い部屋】
終わらぬ春がまた始まる。
これは夢か、現か。微睡みか。それとも、最初から全て現実でも夢幻でもなかったのだとしたら? 私など、最初から存在していなかったのでは?
なんて。
幾度と繰り返す『永遠』の春だ。
今更、夢と現を取り違えなどしない。
「次は誰の所へ行く?」
「誰だって良いさ。その時に考える」
「相変わらず行き当たりばったりだな、君は」
「長い旅路だ。考え無しも悪くないだろ」
「道連れの僕にはいい迷惑なんだけど?」
「んふふふふ。お前には幾らでも迷惑をかけるとも。だって私の"道連れ"なのだろう? 何処までも、何時までも。私かお前が飽き果てるまで、傍に居てくれるのだろう? この『永遠』の旅路をずっと。共に」
春の空を映す、澄んだ湖面の地を歩む。
一歩踏み出せば波紋が水のように広がる。
ユラユラと揺蕩う空の水は、蒼穹と夜空を同時に描いていた。
不意に足下の波紋が増える。
「君なぁ」
「ん?」
「どうして僕には言えて、彼らには言えないんだよ」
「お前がお前だからだよ」
「理由になってない」
「むぅ? お前は執着こそすれど、私に余計な感情は抱かないだろ。そういうお前の妙に割り切った所が好きだよ。私は」
「………………だから…………はぁ」
横並びの足は離れない。
足並み揃えた一歩が、こんなにも嬉しいだなんて。
「分かった、分かった。なるべく長く傍に居てあげるよ。どうせ天国にも地獄にも、何処にも行けない身だ。何処にも行けないなら、まだ君の傍で『永遠』を歩んでいた方がマシだ」
「妥協案のように言うな」
「じゃあ何かな? 君の事がこの世で一番大切で、他の何を捨て置いても君の傍に居たい、とでも言えば良いのか?」
「気持ちが悪い」
「そういう所だぞ」
夢でも良い。
現でも良い。
昔はそんなこと、露ほども思わなかったけれど。
(どちらでも構わんな。もう、独りではないし)
目が覚めた時も、夢の中でも。
傍に誰かが居るのなら。
『永遠』の旅も。まあ、幾らか気分がマシになる。
春の夜空を星が流れていく。
何処までも、何処までも。
終わらぬ湖面の空を流れる星に永き旅路を重ね。
行く末を見据えるように、こう呟く。
Bon voyage。永遠の旅路に、幸あれと。
【題:終わりなき旅】