この世界に一つだけ、手放し難いモノがある。
それは愛とか恋ではなく。
漠然と"大切"なだけのもの。
けれど譲りたくないし、捨てたくないし、手放したくないし、何より他の誰かに奪われるのだけは耐えられない。だから手に入らないと分かっていても手を放せない。
我儘だろうか?
大切だと思えばこそ、手放すべきなのだろうか?
そんな事が出来るのなら悩みなんてしないけど。
「ああ、美しいなぁ。今日も夕日は綺麗だよ」
なんて意味もなく無邪気に貴女が笑うから。
代わりなんて何処にも無い大切な人の笑顔に笑いかけ、『そうだな』なんて当たり障りのない、けれど愛しくてたまらない。
今日も今日とてそんな返事をするのだ。
【題:世界に一つだけ】
鳥が鳴いているとか、花が咲いたとか、空が綺麗とか。
どんな小さなことでも。
どんな下らないことでも。
どうか話して。どうか聞かせて。
どんなに些細な事であっても、貴方が見た景色を、貴方が触れた世界を、貴方の言葉で聞きたいから。
拙くてもつまらなくても構わない。
貴方が過ごした日々を貴方の声で知りたい。
だから何時でも帰っておいで。
どんな話だって暖かく笑って聞くから。ね。
【題:些細なことでも】
何時からだろう。この日々に退屈を感じなくなったのは。
何時からだろう。君が居ない日々に退屈を感じたのは。
「おかえり」
「ただいま。私のお前」
凍てつく冬の女神の美貌に、雪解けの春を想う暖かな笑顔が咲く。
たったそれだけで胸の奥に火が灯る。
随分単純になったものだ、と頭の何処かで思いながら、それでもこのぬるま湯のような安寧を心地好いと思ってしまう自分がいる。
「今回は何時まで居るつもり?」
「1ヶ月ほどだろうか。次は北に行きたくてな」
「もうすぐ冬なのにか」
「だからだよ」
慈愛に満ちた、何処と無く寂しそうな微笑み。
そうだ。彼女の故郷は、春を知らない雪国だったか。
「次はお前も共に行かないか。1人は、少しつまらない」
冷たい指先が手の甲に触れる。
困ったように笑うくらいなら、いっそ故郷のことなんて忘れてしまえばいい。
それが出来ないから笑うのだと。分かって、いるけど。
「……………………安宿には泊まらないぞ」
「……! 構わないよ。1人でなければいい」
ため息混じりの億劫な返事でも嬉しそうで。
そんな彼女の姿にまた胸が暖まる。
彼女が居る世界に退屈なんてなくて、何時だって暖かい。
故に。
与えられた温もりを分ける事だって、吝かではないから。
雪の寒さも。共に行けば、少しくらいは紛れるだろう。
【題:心の灯火】
「まだ可愛げがあったのにな」
不満気な顔でベリーを突いて口に放る彼女。
ああまた面倒な事を言い始めた、と頭の片隅で思いながらも、逃げようとか離れようとか少しだって思わないのだから、我ながらどうかしている。
付き合いが長いせいか、どうにも感覚が麻痺している。
「君は今も昔も可愛げはないな」
「"は"ってなんだ。引っかかる言い回しだな」
「一般常識だと可愛い部分は少しもない」
好き勝手人を振り回して。
言うことを何一つ聞きやしない。
見た目に反して腹も性格も真っ黒。
傲慢で自信家でプライドが高く。
何処までも穢れなく気高く、その思想があまりにも眩いが故に毅くて弱さを少しも感じられず、女性特有の儚い可愛げを損なっていて。
(それが良い、とか。悪食にも程があるだろ)
食らいついて離さなかった結果が今なのだが。
時を重ねれば重ねるほど、これの何が良かったのか心底分からなくなる。
「そんな女と未だに一緒にいるくせに」
「しょうがないだろ。焼き付いているんだ」
訝しむ彼女の瞳を捉える。
翠の星は今なお色褪せない。
「子どもっていうのは、大人にとって何処が良いのかてんで分からないモノを好きになるものだろ? 蓼食う虫も好き好き、とはよく言ったものだよ。……………………いや違うか。この場合は趣味が最悪なだけか………………。全く不思議な事もある。何でよりにもよって君だったんだろうな。記憶に、過去に、思い出に、焼き付いて離れそうにないんだよ」
綺麗な髪を指で掬う。
口付ける仕草だけで、ポイと手放してしまう。
「人をゲテモノみたいに言うな」
「事実ゲテモノだ。君の何が良いんだろうな?」
「お前は今、三人敵に回したぞ? 死ぬなよ?」
「本気の心配じゃないか」
何時も通りすぎる軽口に、やっぱり全然伝わらなければ受け止めもしない、と呆れたような落胆するような。中途半端が一番良くない。
が、それでこそ彼女だろう。
(幼い頃の憧憬。焦がれた星は妖星、全く趣味が悪い)
彼女の言う"可愛げ"のある憧憬も。
今や可愛くもない執着に堕ちてしまったが。
「これで釣り合いもとれてトントンだろうさ」
【題:子供の頃は】
月光の降り注ぐ一際静かな夜。
少し肌寒いくらいのその日は、何故だか妙に心細く、物悲しくなるもので。そんな時は度々、射し込む月光だけを頼りに、ぼんやりとした輪郭を鏡に映しとるのだ。
「……………………何を、今更…………」
鏡に映った己の顔。
しかしどうだろう?
一度記憶の狭間に落ちてしまえば、そこに映るのは懐かしい面影が宿る"誰か"の顔だ。
当然だ。
当たり前だ。
似ているのなんて、至極普通の事なのだ。
忘れるつもりなんてない。忘れられるわけがない。
苦悩と贖罪と逃れられぬ罪悪感の中で。
けれどその面影の中に、何れでもない大切な物が確かに宿っているのだ。
貴女と同じ色の髪。
貴女と同じ色の瞳。
罪は消えない。
罰は終わらない。
永劫の罪過は死せるその時まで続く。
ただのその《罪と罰》も、貴女と同じ色だと言うのなら。
ほんの、少しくらい。
貴女にだけは許されたと。思っても、良いのでしょうか。
【題:好きな色】