初音くろ

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7/6/2023, 9:32:03 AM

今日のテーマ
《星空》





日本列島の多くの地域では、七夕は梅雨の真っ只中にある。
それゆえに雨になってしまう年も少なくない。

この時期になると、ショッピングモールの入口付近には笹が飾られ、短冊用の紙と記入するためのテーブルが設置される。
真面目な顔で短冊に願いごとを書きながら、少女が傍らの少年に「たなばたの日、はれるかな」と話しかけた。
少年は少女よりいくつか年嵩で、小学校の中学年くらいだろうか。
優しく少女の頭を撫でて「どうかなあ」と言いながら、もう片方の手で書き終えた自分の短冊を弄んでいる。
面倒見のいいお兄ちゃんとその妹といった雰囲気だ。

わたしは笹に飾りを施しながら、思わずほっこりとした気分でその様子を横目で眺める。
隣では同僚が別の笹の飾りつけをしながら同じように相好を崩していた。

「天気予報だと雨は降らないみたいだけど」
「でもこの時期だから夕立の可能性もあるしなあ」

こっそりそんな会話を交わしつつ、折紙で作られた輪っかをつなぎ合わせたものや吹き流し、網飾りなどを手際良く括りつけていく。
他にも、一箇所にだけ偏ってしまっている短冊を別の位置に移してバランスを調整したりなどする。
これは手が空いてる職員が気がついた時に行う業務の一環で、決してサボりではない。

「そういえば、私も幼稚園くらいの頃、七夕が天気になるか毎年心配してたなあ」
「うちも妹がそうだった。雨が降ると、織姫と彦星が会えなくなるって、自分のことみたいに泣いてた」
「優しい妹さんだったんだね。それで『お兄ちゃん』はどうしたの?」
「あんまり泣くから、雲の上は晴れてるから天の川は氾濫しないし大丈夫だって言って慰めた」
「やっさしいー」

微笑ましいエピソードにますますほっこりする。
優しいお兄ちゃんを持って、妹さんは幸せだなあと、少しばかり羨ましくもある。
うちにも兄がいるけど、そんな気遣いは皆無だった。
何なら「天気予報で1日雨だって言ってたぞ」って追い打ちをかけてくるような兄だった。

「でも本来の七夕って旧暦だから、8月半ばくらいなんだよな。この時期じゃどっちにしろ天の川なんか見えないだろ」
「ていうか、この辺りだと明るすぎてどっちにしろ見えないけどね」
「たしかに」

この時期の見頃なのは何だったっけ。
胸を張って趣味だというほど熱心ではないけど、たまに星空カレンダーなどをチェックする程度には星を眺めるのが好きだ。
流星群の極大の日は夜更かししてベランダで空を眺めるし、ベランダで見えない方角の時はちょっと足を伸ばして見晴らしの良い場所まで足を運ぶくらいはする。

雑談しながらそんなことを考えていると、さっきの少年少女が短冊を持ってこちらにやってきた。
近くで見ると面差しがよく似ているからやっぱり兄と妹なんだろう。
自分で吊したがる妹を抱っこしてあげてるのが微笑ましい。
妹が吊し終わったのを確認して彼女を抱き下ろした少年は、高い位置に飾りを付けている同僚に声をかけた。

「すみません。これ、高いところに付けたいんですけど、お願いしてもいいですか?」
「はい、いいですよ」

営業スマイルでにっこり笑いながら請け合った彼は、飾り付けを中断し、渡された短冊を少年の目の前で高い位置に吊して上げた。
いいなー、ずるーい、と言いながらお兄ちゃんの手をぶんぶん揺する妹に、少年はしょうがないなって顔でその頭を雑に撫でている。
ちゃんと吊されたのを確認した少年は礼儀正しく「ありがとうございました!」と頭を下げて、まだぶーぶー文句を言っている妹と共に去って行く。
彼らの向かった先では母親らしい女性が同年代の女性と立ち話をしていた。
お母さんがママ友と話し込んでいる間に暇潰しを兼ねて書きに来たのか、あるいは子供達が書いているのを待っている間に母親が知り合いと会って話し始めたのか。

「あの子、本当に『いいお兄ちゃん』だな」

見るともなしに可愛い兄妹を眺めていたら、同僚がくすくす笑いながら小さな声でそんなことを言う。
訊ねるように視線を向けると、彼はちょいちょいと手招きをして吊したばかりの短冊を指差した。
高い位置と言っても笹は彼の身長と同じ程度。その目線の高さ辺りに吊された短冊は見上げれば余裕で読むことができる。
そこにあった願いごとに、わたしは思わず大きく頷きながら彼の言葉に同意した。

『七夕の日、晴れますように』

きっとあの女の子は、さっきだけでなく、何度も何度もお兄ちゃんに「はれるかな」と言っていたのだろう。
そしてあのお兄ちゃんは、そんな妹の願いが叶うようにと、短冊に願いを込めたに違いない。
わざわざ高い位置に吊してほしいと言ったのも、その方が神様に願いが届きやすいと思ったのかもしれない。
妹思いの優しいお兄ちゃんにますますほっこりしながら何気なく女の子が吊した短冊に視線を転じると、そこに書かれていた願いごとの可愛さに思わず悶絶しそうになってしまった。
接客業の人間として崩れた顔を晒すわけにも奇声を上げるわけにもいかないから、弛みそうになる口元を必死で引き締め、無言のまま同僚の袖を引いて短冊を指差す。
彼もまたそれを見て、口元を手で覆いながら眼差しを優しく和ませた。

『おにいちゃんのおねがいが かないますように』


その日、仕事を終えて帰ろうとしたわたしは、職員用休憩室の窓のカーテンレールにてるてる坊主が吊されてるのを発見した。
誰の仕業かは確認するまでもない。
わたしもまた自分のハンカチで即席のてるてる坊主を作ると、そっとその隣にそれを吊した。
あの可愛らしい兄妹の願いが叶うようにと願いを込めて。





7/5/2023, 9:49:17 AM

今日のテーマ
《神様だけが知っている》





『困った時の神頼み』という言葉がある。
正確に言うなら『困った時“だけ”神頼み』かもしれない。
普段は見向きもしないくせに、困った時だけ頼ろうなんて虫が良すぎるって、きっと神様も呆れるに違いない。
そう思いながらも、どうしても何か超常的なものに頼りたくなる時というのはあるもので、今のオレがまさにその状態というわけだ。

(神様、どうか、どうか、お願いします! これからはちゃんと信心深くなるし、お参りにも頻繁に来ます! お賽銭は小遣いに余裕ないから毎回とはいかないけど、境内にゴミ捨てたりしないし、ていうかゴミ見つけたらちゃんと拾ってゴミ箱に捨てるようにします! 授業も真面目に受けるようにするし、赤点取らないようテストも頑張ります! えーと、あと何すればいいかな……とにかくいろいろ頑張るのでどうかオレの願いを叶えて下さい!!)

近所の小ぢんまりした神社の拝殿で一心不乱に手を合わせる。
これで神様が願いを叶えてくれるというなら、お百度参りだって丑の刻参りだって何だってする。
いや、丑の刻参りは藁人形に五寸釘で呪うやつだっけ?

信心深いとはお世辞にも言えない現代っ子のオレにとって、神といえば大好きなアーティストだったり動画配信者だったりという「手が届かない実在の人物」とかその人の作品とかに使うことが多い言葉で、所謂『神様』については存在すらも怪しいと思ってたりするんだけど。
それでも、そんな、普段は全然信じてないオカルトじみたものにまで頼るほど気持ちが追い詰められてる。
藁にも縋る思いというのはこういう時のことを言うんだろう。


オレには好きな子がいる。
幼馴染みというのに近いかもしれない。小学校の時から他愛ないじゃれあいをする間柄だ。
それは中学を経て、高校になってからも変わらなかった。
お互いに自転車通学が可能な学校を選び、学力にも大した差はなかったこともあって、同じ高校に進んだというのもある。
クラスこそ違うけど、気心が知れてることもあって、移動教室とかで顔を合わせれば声を掛けたり掛けられたりするし、方向が一緒だからたまに一緒に帰ることもある。
おかげですっかり公認のカップルみたいな関係だった。

それで満足して油断してた昨日までの自分の脳天気さに蹴りを入れてやりたい。

異変は昨日の放課後に起こった。
オレ達が実はつきあってるわけじゃなく、単なる友達でしかないことをどこからか聞きつけた彼女の同クラのやつが、よりによって校門前なんて目立つ場所で告ったというのだ。
噂はたちまち広まって、何も知らずに登校したオレは朝から質問攻めに遭った。
話によれば、告白したやつはその場では返事をもらわずに一方的に言い逃げしたらしい。
バイトでホームルームが終わると同時にダッシュで帰ったことが悔やまれる。
ていうか、そんなことがあったなら誰か昨日の内に連絡くれてもいいだろうが。

彼女がどんな返事をするのかは分からない。
少なくとも今日帰るまでの間にはどうなったのかは聞こえてこなかった。
本音を言えばすぐにも確認しに行きたかったけど、オレが迂闊に動いたら更に騒ぎは大きくなって彼女を困らせることになる。
今日は彼女はバイトの日で、彼女の同クラの奴の話では、放課後になると同時に逃げるように帰ってしまったらしい。
そのバイト先というのはオレの家のすぐ近くで、だからオレは今日、バイト終わりの時間に合わせて直接話をしようと思ってる。

これまで噂を強く否定してなかったのは、きっと彼女もオレに気があるからだ――なんて、自惚れてた。
でも、告られてすぐに断らなかったということは、つまり彼女もまたそいつのことを悪く思ってないってことなんじゃないか?
そのことに気づいて、オレは自分がいかに余裕ぶっこいて自惚れてたかを思い知らされたというわけだ。
でも、だからといって彼女が他の奴のものになるのを指を咥えて見てるなんてできない。
いつから好きだったのかは自分でもよく分からないけど、オレだってずっと彼女のことが好きだったんだ。むしろ『いつから』とか明確に分からないくらい前から意識してたとも言える。
恋敵が現れて慌てて告るなんて格好悪いことこの上ないけど、それでも何もせずに諦めるよりはずっとマシだ。

そうしてオレは一心不乱に神頼みをしているというわけだ。
振られませんように、と祈りたいのは山々だけど、さすがにそれは男が廃る。
考えたくないけど、もしも玉砕した時に、彼女を傷つけることがありませんように。
できれば玉砕しても、これまで通り……いや、これまで通りは無理としても、せめて無視されたり距離置かれたりすることなく、友達としてはつきあっていけますように。
限りなく弱気で情けなくもあるけど、オレはそんなことを長々と神様に懇願した。

でも、できたら――やっぱり、彼女がオレを選んでくれたらいいな、と。
ほんの僅か、縋りたくなる気持ちが頭を擡げる。

駄目だ、駄目だ!
神頼みで彼女の気持ちをこっちに傾けてもらおうなんて虫が良すぎるってもんだろ!

既に『困った時“だけ”神頼み』をしてる段階で充分すぎるくらい虫がいいんだから、これ以上は欲張ったら駄目だ。
頭を振って都合のいい願いごとを振り払うと、オレはもう一度財布を出して、追加のお賽銭を賽銭箱に投げ入れる。
明日の昼飯のパンが1つ減るなと思ったけど、そこはケチっちゃ駄目だよな。
二拝二拍手一拝し、最後にもう一度だけ願いを告げて、オレはようやく神社を後にした。


オレが決死の思いでした告白が無事に成就することも。
件の告白劇が、実はなかなかくっつかないオレ達に業を煮やした周囲の連中が画策したことだというのも。
それを知ったオレと彼女が怒りながらも周囲の祝福の声に絆されてしまうことも。
今はまだ、それを知るのは神様だけ。





7/4/2023, 9:58:45 AM

今日のテーマ
《この道の先に》





「たしかこの道だったはず」

うろ覚えの記憶を掘り起こし、坂道をのぼっていく。
この辺りは住宅地で、商店など目印になるものはなかったが、街並みは昔とそう大きく変わっていない。
小学生の頃、夏休みが来ると、毎年この辺りに住む祖父母の家に泊まりがけで遊びに来ていた。
最後に来たのは小学生の夏休みで、その時は手を引かれてこの道を歩いた。
降り注ぐ日差しの暑さと蝉の声、時折通り抜けていく風の気持ちよさが昨日のことのように蘇る。

坂は途中から急な勾配になっていて、まるで山登りでもしているような気分だ。
インドア生活が祟って少し息が切れてきたので歩くペースを落とす。
坂の中盤辺りで小さな公園があったので、一旦そこで休憩することにした。
日暮れ間近のこの時間は日中に比べるとだいぶ過ごしやすいが、それでも暑いものは暑いし、汗をかいて喉も渇いている。
木陰のベンチに腰を下ろし、タオルハンカチで汗を拭った後、バッグのサイドポケットからスポーツドリンクを取り出す。
冷たさ長持ちが謳い文句のペットボトルホルダーのおかげで中身はまだキンキンに冷えていた。ひんやりとした喉ごしと、甘さと微かな塩気で生き返る心地がする。

ああ、そういえばこの公園でも遊んだことがあったっけ。
塗装の剥げかけた遊具類を見回して懐かしさに目を細めた。

ブランコでどちらが高く漕げるか競いあったことや、砂場で棒倒しをしたこと。
夏のすべり台はスライダー部分が日差しで熱されて火傷しそうなくらい熱かったこと。
木陰のベンチでアイスを食べながらカードゲームや携帯ゲームで遊んだこともあった。
それらの思い出には、どれも隣にあの子の姿があった。


「この坂をのぼりきったとこに、すごく見晴らしのいい場所があるんだ」
「海も見える?」
「見える。天気が良ければ湾の向こう岸の山も見えるよ」
「すごーい!」

そんな誘いに乗せられて、2人で高台まで行った。
残念ながらその日は靄がかかっていて湾の向こうの山までは見えなかったけど、見渡す限りに広がる海は都会っ子のわたしには息を飲むような景色で、いたく感動したものだ。
あれからもっと素晴らしい景色はいくつも見たけど、あの時の感動は今も色鮮やかにわたしの胸に息づいている。
今日ここに足を運んだのも、あの景色をもう一度見たいがためだった。

「よし、行くか!」

汗も引いたし、喉も潤った。
インドア生活でなまりきった足の疲れも、座って休憩したことでいくらか回復した。
気合いを入れ直して立ち上がり、わたしは意気揚々と公園を後にした。


僅かに息を切らしながらも何とか坂を登りきり、脇道に逸れて暫く行くと目的の高台に辿り着いた。
この道の先に、求めていたあの景色が広がっているのだと思うと、疲れも吹き飛んで歩みも早くなる。
そうして辿り着いた高台は、記憶のまま、何ひとつ変わっていなかった。
平日の昼間とあってか、幸いにして他に人の姿はない。
吹き抜ける風を胸いっぱいに吸い込んで、念願の景色を見下ろす。
だけど――

「あれ……?」

昔見た時はあんなにも輝いて見えたのに、今はなんてことない景色にしか見えなくて拍子抜けする。
景観に大きな変化があったわけではない。
色とりどりの屋根に彩られた街並みも、日差しを受けてキラキラ輝く海原も、湾内を往来する船も、あの日と何ら変わらない。
それどころか、今日はあの日と違って快晴で、湾の向こうに広がる山々まで見えている。
だというのに、何かが足りない――まるでパズルのピースが欠けているように、不完全なもののように思えてしまう。

「やっぱりここにいた!」

不意に背後から響いた声に、驚きながら振り返る。
そこには、かつてこの景色を一緒に見た人の姿があった。
半袖シャツの袖口で汗を拭いながら駆け寄ってきた彼がわたしの前で足を止め、少し困った顔でわたしを覗き込んでくる。

「散歩に行くって出かけたっきり帰って来ないって、事故にでも遭ったんじゃないかって祖父さんも祖母さんも青くなってたぞ」
「ごめん……ちゃんと行き先言ってくれば良かったね」
「俺は別に構わないけど、帰ったらちゃんと謝っとけよ」

コツンと頭を叩かれ、反省しながら頷く。
今回ここに来たのは、彼の帰省と両親への挨拶、そしてわたしの祖父母への挨拶を兼ねたものだ。
彼の実家と祖父母の家はすぐ近所で、彼は実家に、わたしは祖父母の家に滞在している。
祖父母のどちらかが帰りの遅いわたしを案じて、行き先の心当たりを尋ねるか何かして、彼が探しにきてくれたんだろう。
この辺りの地理なら当然ながら彼の方が詳しいし、わたしの行きそうな場所は彼が殆ど把握している。

「でも、よくここだって分かったね」
「まあ、思い出の場所だしな。ああ、今日は向こうの山までよく見えるな。これが見せたかったんだ」

子供の頃、この景色を見ながら交わした約束を思い出す。
「大人になってもお互い気持ちが変わらなかったら結婚しよう」という、微笑ましい約束を。

懐かしげに視線を転じて顔を綻ばせる彼につられて、わたしも再び眼下に広がる景色を見る。
そうしたら、不思議なことに、さっきまで何とことのない景色だったそれが、とてつもなく得難いものに見えてきた。
彼が隣にいるだけで、まるでモノクロの景色が極彩色に塗り替えられていくかのよう。

そうか、あの時あんなにこの景色に感動したのは、彼が隣にいたからだったんだ。
「俺の大好きな景色なんだ」って、宝物を披露するみたいに教えてくれたから、あんなにも輝いて見えたんだ。


わたし達はこの秋に結婚する。
マリッジブルーとでもいうのか、ここのところずっと胸の奥に蟠っていた小さな不安が、まるで霧が晴れたかのようにすっきりしていくのが分かった。
喧嘩することもあるかもしれない。
つらいことや不安なこと、困難な状況だってきっとあるだろう。
でも、この人と一緒なら大丈夫だと――一緒にこの景色を見て、そう思うことができた。
この先に続く人生という名の道行きを、彼とならきっと笑って過ごしていけるだろう、と。





7/3/2023, 9:44:51 AM

今日のテーマ
《日差し》





外に出た瞬間、燦々と照りつける日差しの強さに一瞬くらりとした。
熱せられた空気は暑いというより熱い。
これでまだ夏本番じゃないというのだから先が思いやられる。
しっかり日傘でガードしつつ、なるべく日陰を選んで歩く。
隣を歩く彼がちょうど良い日除けになってくれていた。

子供の頃は暑いといってもこれほどじゃなかった気がする。
両親の話によると、昔は夏でも熱帯夜じゃない日も少なくなかったのだという。わたしもそんな時代に生まれたかった。

暑いし、汗でベタベタするし、熱中症にも気をつけなきゃならないけど、それでも実を言えば夏は嫌いじゃない。
暑い中で食べるアイスやかき氷は最高だし、花火大会やお祭りなどの行事にも事欠かないし。

暑さで半ばぼんやりしながら歩いて小学校の脇に差しかかったところで、ふと独特の匂いが鼻を突いた。
プールの塩素の匂いだ。
防犯の観点から通りからは見えないようになっているようだけど、耳を澄ませば子供達の歓声や水の音が微かに聞こえる。
そうだ、夏の醍醐味といえばプールや海も上げられるだろう。

「海もプールも、もうずいぶん行ってないなあ」
「急にどうした?」
「水泳の授業やってるみたい。プールの匂い、しない?」
「ああ、ほんとだ。気にしてなかった」

わたしの指摘で初めて気づいたというように鼻をひくつかせて、納得したように相好を崩す。
その横顔を見上げながら、わたしは懐かしい思い出を振り返る。

子供の頃は朝から夕方までプールで遊んだっけ。
彼とわたしは幼馴染みでもあって、小学校の頃はしょっちゅう一緒に近所の市民プールへ遊びに行っていた。
ぬるいシャワーを浴びて合流し、準備体操を済ませて疲れるまで泳ぐ。
売店でかき氷やフランクフルトを半分こしたり、お昼は焼そばを食べるのが定番だった。
午前中だけプールに行って一緒に家でお昼を食べたこともあったし、逆に午前中は宿題を頑張って、お昼を食べてから待ち合わせて午後いっぱい遊んだこともあったなあ。

脳裏に蘇るのは、日差しを受けてキラキラしていた水飛沫。
そしてその水飛沫の真ん中で眩しい笑顔を向けてくれた彼。
それはもうすっかり遠い日となった、懐かしくも楽しい思い出の数々。

小さい頃も、今も、思い出の中ではいつも彼が隣で笑ってる。
子供の頃から背が高かった彼と、子供の頃からチビだったわたし。
見上げた彼の後ろからはいつも日差しが降り注いでキラキラして見えてた。
今思えば、きっとその頃からわたしは彼のことが好きだったんだろう。

恋を自覚してから、一番身近だった男の子が、何だか急に格好良く見えてしまうようになって困る。
こめかみを伝う汗の一滴まで輝いて見えるのだから末期症状だ。
チラリと盗み見るだけで鼓動がどんどん速くなる。

告白したら今まで通りでいられないかもしれない。
だけど、そんな不安よりも、彼の隣で友達のふりを続けることの方がつらい。
大丈夫、彼は真剣な気持ちをぶつけた相手を揶揄するような人じゃない。

「あの……あのね――」

わたしはこの日、玉砕覚悟で彼に告白した。
向日葵が太陽に向かって咲くように、わたしも彼だけに向けて咲いていけますようにという願いを胸に。
そうして今年の夏、わたし達は幼馴染みを卒業して、わたしは夏の日差しを思わせる彼の鮮やかな笑顔を独占する権利を手に入れたのだった。





7/2/2023, 9:15:23 AM

今日のテーマ
《窓越しに見えるのは》





「また見てるの?」
「別にいいでしょ」

熱心に窓の外を見ているのをからかうと、彼女は拗ねたようにぷくっと頬を膨らせる。
数ヶ月に及ぶ片想いをやっとの思いで成就させたんだから、こんな風にこそこそ盗み見てないで堂々と近くで応援すればいいのに。
そうツッコミを入れようかと思ったけど、実際にそんなことをしたら噂されたり冷やかされたりしそうだからこれはこれで正解なのかもしれない、と思い直す。
傍目にはまどろっこしく思えるけど、恋愛のペースは人それぞれ違うのだ。
彼女達がそれでいいなら外野が口出しするのは野暮というものだろう。

熱心に恋人の姿を眺める彼女につきあうように、私も前の席を拝借して窓の外をそっと窺う。
夕陽を浴びて友人の彼氏が全力で駆け抜けていく。
青春だねえ、なんてどこかのおばちゃんのような気持ちで見ていたら、その後ろから猛然と追い縋ってくる姿が目に止まった。
テレビの退会で見るような綺麗なフォームに思わず目が引きつけられる。

「ああっ、抜かれちゃった!」

残念そうな友人の声も耳を素通りしていく。
あっという間に友人の彼氏を追い抜いてゴールしたのは、どうやら彼と同じ部の上級生だったらしい。
熱心にアドバイスしているのが窓越しにも伝わってきて、そんな様子にも気が引かれる。
いつのまにか、私は友人よりも熱心に、彼らの様子に見入ってしまっていた。

「……あの先輩、去年全国大会まで行ったんだって。彼が憧れてるって言ってた」
「そうなんだ」
「私も顔しか覚えてなかったんだけど、名前、聞いといてあげようか?」
「え?」
「顔真っ赤だし、恋してますって顔してる」

さっきの意趣返しのつもりだろうか。
からかうようなその声に、ますます頬が熱を持つ。
まさか、という思いと、やっぱりそうなんだろうか、という思いがシーソーみたいに行ったり来たりする。
気のせいか、なんだか息まで苦しくなってきて、私はひんやりした窓にコツンと額を押し当てた。

「ずっと一方的につきあってもらってて悪いなって思ってたけど、今日からは一緒に見てられるね」

嬉しそうな友の声。
その間も、視線は件の先輩に釘付けで。
うずうずそわそわする胸を宥めすかして、私は黙ったままこくりと頷いたのだった。





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