初音くろ

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今日のテーマ
《この道の先に》





「たしかこの道だったはず」

うろ覚えの記憶を掘り起こし、坂道をのぼっていく。
この辺りは住宅地で、商店など目印になるものはなかったが、街並みは昔とそう大きく変わっていない。
小学生の頃、夏休みが来ると、毎年この辺りに住む祖父母の家に泊まりがけで遊びに来ていた。
最後に来たのは小学生の夏休みで、その時は手を引かれてこの道を歩いた。
降り注ぐ日差しの暑さと蝉の声、時折通り抜けていく風の気持ちよさが昨日のことのように蘇る。

坂は途中から急な勾配になっていて、まるで山登りでもしているような気分だ。
インドア生活が祟って少し息が切れてきたので歩くペースを落とす。
坂の中盤辺りで小さな公園があったので、一旦そこで休憩することにした。
日暮れ間近のこの時間は日中に比べるとだいぶ過ごしやすいが、それでも暑いものは暑いし、汗をかいて喉も渇いている。
木陰のベンチに腰を下ろし、タオルハンカチで汗を拭った後、バッグのサイドポケットからスポーツドリンクを取り出す。
冷たさ長持ちが謳い文句のペットボトルホルダーのおかげで中身はまだキンキンに冷えていた。ひんやりとした喉ごしと、甘さと微かな塩気で生き返る心地がする。

ああ、そういえばこの公園でも遊んだことがあったっけ。
塗装の剥げかけた遊具類を見回して懐かしさに目を細めた。

ブランコでどちらが高く漕げるか競いあったことや、砂場で棒倒しをしたこと。
夏のすべり台はスライダー部分が日差しで熱されて火傷しそうなくらい熱かったこと。
木陰のベンチでアイスを食べながらカードゲームや携帯ゲームで遊んだこともあった。
それらの思い出には、どれも隣にあの子の姿があった。


「この坂をのぼりきったとこに、すごく見晴らしのいい場所があるんだ」
「海も見える?」
「見える。天気が良ければ湾の向こう岸の山も見えるよ」
「すごーい!」

そんな誘いに乗せられて、2人で高台まで行った。
残念ながらその日は靄がかかっていて湾の向こうの山までは見えなかったけど、見渡す限りに広がる海は都会っ子のわたしには息を飲むような景色で、いたく感動したものだ。
あれからもっと素晴らしい景色はいくつも見たけど、あの時の感動は今も色鮮やかにわたしの胸に息づいている。
今日ここに足を運んだのも、あの景色をもう一度見たいがためだった。

「よし、行くか!」

汗も引いたし、喉も潤った。
インドア生活でなまりきった足の疲れも、座って休憩したことでいくらか回復した。
気合いを入れ直して立ち上がり、わたしは意気揚々と公園を後にした。


僅かに息を切らしながらも何とか坂を登りきり、脇道に逸れて暫く行くと目的の高台に辿り着いた。
この道の先に、求めていたあの景色が広がっているのだと思うと、疲れも吹き飛んで歩みも早くなる。
そうして辿り着いた高台は、記憶のまま、何ひとつ変わっていなかった。
平日の昼間とあってか、幸いにして他に人の姿はない。
吹き抜ける風を胸いっぱいに吸い込んで、念願の景色を見下ろす。
だけど――

「あれ……?」

昔見た時はあんなにも輝いて見えたのに、今はなんてことない景色にしか見えなくて拍子抜けする。
景観に大きな変化があったわけではない。
色とりどりの屋根に彩られた街並みも、日差しを受けてキラキラ輝く海原も、湾内を往来する船も、あの日と何ら変わらない。
それどころか、今日はあの日と違って快晴で、湾の向こうに広がる山々まで見えている。
だというのに、何かが足りない――まるでパズルのピースが欠けているように、不完全なもののように思えてしまう。

「やっぱりここにいた!」

不意に背後から響いた声に、驚きながら振り返る。
そこには、かつてこの景色を一緒に見た人の姿があった。
半袖シャツの袖口で汗を拭いながら駆け寄ってきた彼がわたしの前で足を止め、少し困った顔でわたしを覗き込んでくる。

「散歩に行くって出かけたっきり帰って来ないって、事故にでも遭ったんじゃないかって祖父さんも祖母さんも青くなってたぞ」
「ごめん……ちゃんと行き先言ってくれば良かったね」
「俺は別に構わないけど、帰ったらちゃんと謝っとけよ」

コツンと頭を叩かれ、反省しながら頷く。
今回ここに来たのは、彼の帰省と両親への挨拶、そしてわたしの祖父母への挨拶を兼ねたものだ。
彼の実家と祖父母の家はすぐ近所で、彼は実家に、わたしは祖父母の家に滞在している。
祖父母のどちらかが帰りの遅いわたしを案じて、行き先の心当たりを尋ねるか何かして、彼が探しにきてくれたんだろう。
この辺りの地理なら当然ながら彼の方が詳しいし、わたしの行きそうな場所は彼が殆ど把握している。

「でも、よくここだって分かったね」
「まあ、思い出の場所だしな。ああ、今日は向こうの山までよく見えるな。これが見せたかったんだ」

子供の頃、この景色を見ながら交わした約束を思い出す。
「大人になってもお互い気持ちが変わらなかったら結婚しよう」という、微笑ましい約束を。

懐かしげに視線を転じて顔を綻ばせる彼につられて、わたしも再び眼下に広がる景色を見る。
そうしたら、不思議なことに、さっきまで何とことのない景色だったそれが、とてつもなく得難いものに見えてきた。
彼が隣にいるだけで、まるでモノクロの景色が極彩色に塗り替えられていくかのよう。

そうか、あの時あんなにこの景色に感動したのは、彼が隣にいたからだったんだ。
「俺の大好きな景色なんだ」って、宝物を披露するみたいに教えてくれたから、あんなにも輝いて見えたんだ。


わたし達はこの秋に結婚する。
マリッジブルーとでもいうのか、ここのところずっと胸の奥に蟠っていた小さな不安が、まるで霧が晴れたかのようにすっきりしていくのが分かった。
喧嘩することもあるかもしれない。
つらいことや不安なこと、困難な状況だってきっとあるだろう。
でも、この人と一緒なら大丈夫だと――一緒にこの景色を見て、そう思うことができた。
この先に続く人生という名の道行きを、彼とならきっと笑って過ごしていけるだろう、と。





7/4/2023, 9:58:45 AM