初音くろ

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8/1/2023, 9:59:07 AM

今日のテーマ
《だから、一人でいたい。》





人間誰しも、1年365日ご機嫌で過ごせるわけではない。
体調が悪い日もあれば、気分が鬱ぎ込んでしまう日もある。
私にとっては今日がそういう日だった。

低気圧の影響を受けて重く痛む頭。
雨のせいでクセ毛はいつも以上に収まりが悪く、みっともなくない程度に纏めるのに時間を要し。
トーストは焼き時間の設定を誤って黒焦げ。
おまけに昨日の夜に送った彼氏へのLINEには未だに既読が付いていない。

体調もメンタルも朝から最低最悪だけど、だからといってこの程度のことで欠勤するわけにはいかない。
仕方なく、私は頭痛薬を飲んで重い足取りで出勤した。

昼休みになっても気分は重たいままだった。
相変わらずLINEに返信はないし既読もつかないまま。
こういう時に限って仕事もうまく回らない。
自分だけじゃなく、周囲も小さなミスが頻発していて、それが積み重なって益々ストレスが増すばかりだった。

「先輩、お疲れ様です。今日はお昼どうします?」
「悪いけど、今日はあまり食欲がないから他の人と食べに行って」
「大丈夫ですか? 朝から顔色もあまり良くないですけど」
「いつもの頭痛だから心配しないで」

頭痛は朝に飲んだ薬のおかげでだいぶ軽くなってはきてるけど、嘘も方便。
心配させちゃうのは心苦しいけど、こんな風にカリカリしている時は一人で過ごす方が気が楽だ。
普段なら受け流せるようなことでも苛立ってしまいかねないし、うっかり余計なことを言って波風を立ててしまう可能性もある。

お大事にといって昼食に出かけていく後輩を見送り、私は冷蔵庫に常備してあったゼリー飲料を取り出して席に戻った。
10秒チャージという謳い文句のそれをゆっくり飲み下し、人心地ついたところでもう一度スマホを見る。
何度見ても、やっぱり彼からの連絡はない。

本当は、今日は半月ぶりにデートする予定だった。
だけど、待ち合わせ場所や時間をどうするのか聞いたメッセージは当日の昼を過ぎても未読スルー。
最近「仕事が忙しい」と約束を反故にされることも多かった。
そろそろ潮時なのかもしれない。

つきあおうと言ってきたのは彼からだった。
大学時代に友達の友達という形で知り合い、共通の友人と共に遊んだり飲みに行ったりする仲だった。
卒業して暫く疎遠になってたけど、1年ほど前にばったり再会して、そこからまた友人として会うようになって。
大学の頃から好きだったんだと言われた私が、内心どれほど嬉しかったか、彼は知っているだろうか。

大学時代にも恋人はいたけど、どの人とも長続きはしなかった。
彼とはこれまでで一番長く続いてたけど、もしかしたらこれで終わってしまうのだろうか。
喧嘩をしたとか、怒らせたとか、そういう心当たりはなかったけど、それは私がそうしたサインを見落としていただけなのかもしれない。

さっきお昼に誘ってくれた後輩ちゃんは、来月に結婚式を控えてる。
いつもは笑って聞いてあげられるノロケだけど、今日の私はきっと平静で聞くことはできないだろう。
それどころか、幸せそうな彼女を見て、嫉妬でやつあたりしてしまうかもしれない。
だから、今日のお昼は一人で過ごすことを選んだ。

昼休みが終わるまでには気持ちを切り替えなきゃ。
自分にそう言い聞かせながら、私はため息と共にスマホをバッグにしまう。
代わりに頭痛薬を出して、デスクの上のミネラルウォーターで飲み下す。
頭痛と一緒に、このどんより重たい気持ちも晴れたらいいのにと願いながら。


体調が芳しくない時というのは気持ちもネガティブに傾きがちになるし、集中力が欠ければミスも増える。
昼休みに飲んだ薬が少しずつ効いてきたのが良かったのだろう、午後の仕事は午前よりも順調に捌くことができた。
おかげで気持ちにも少しずつゆとりができてきた。
もしも彼から別れを切り出されても動じないようにしようと思えるほどに。

彼とはとても良い関係が築けていた。
喧嘩をしたこともあったけど、振り返れば全体的にはいい思い出の方が多い。
別れを思えばどうしたって気持ちは塞ぐし、挽回できるならそれに越したことはない。
でも、もし彼の決意が固いようならその意志は尊重してあげたい。
彼がいつも私の気持ちを尊重してくれたみたいに。

きっとすぐには割り切れない。
私は暫く彼を引き摺るだろうし、今から新しい恋愛を望むのは難しいだろうとも思う。
だけど、無理に誰かとつきあってまた傷つくくらいなら、彼との思い出を胸にこのままお一人様生活を送るのも悪くない。

そんな風に妙な方向に吹っ切れた私が駅に向かうと、改札で彼が待ち構えていた。
LINEの既読がつかなかったのは、昨日スマホを壊してしまったからだという。
彼の仕事が忙しかったのは期間限定で副業をしていたためで、それは私との結婚資金を手っ取り早く貯めるためだったと知るのはもう少し先の話。






7/31/2023, 8:57:56 AM

今日のテーマ
《澄んだ瞳》





彼女の瞳はとても澄んでいて、その瞳で見つめられると、僕は何だか落ち着かない気分になってしまう。
胸の奥にくすぶる下心をすべて見透かされてしまいそうで、うしろめたく感じてしまうからかもしれない。
見透かされるだけならまだしも、軽蔑されたり、ましてや嫌われたりしたら――そう思うだけで身が竦む。

恋愛は惚れた方が負けだというけど、それは本当にその通りだと思う。

そうして僕は今日もまた、彼女の澄んだ瞳に見据えられ、内心で冷や汗をかきながら表情を取り繕う。
内なる欲望を看破されることがないように。

「なにか、隠し事してない?」
「してないよ」
「じゃあ、どうして最近全然目を合わせてくれないの?」

上目遣いでじぃっと見つめられ、つい反射的に目を逸らしてしまう。
心の奥底まで見通されてしまうのではないかと思うくらい、その眼差しには力がある。
拗ねたように微かに寄せられた眉が、何かを我慢するように噛み締められた唇が、そして何より、どんな些細なことも見逃すまいと言わんばかりにまっすぐこちらを見つめるその瞳が、まるで僕を責めているのかようだ。

いや、事実、責めているのだろう。
何を隠しているのだと。
明かせないような後ろ暗いことがあるのかと。
言葉こそないものの、彼女の表情が雄弁にそれを物語っている。

だけど、だからといって「君のことが好きすぎて不埒な妄想が止まらないんだ」なんて素直に白状するのも憚られる。
つきあい始めてまだ半月も経っていないのだ。
がっついてると呆れられたくないし、もっと言うならそういう欲望が目当てでつきあい始めたのかなんて絶対に思われたくない。
せめてもう少し僕達の関係を深めてから、段階を追って明らかにしていきたいのに。

どう言い訳したものかと必死で言葉を探す僕を見て、彼女の表情がだんだん曇っていく。
拗ねたり責めたりという変化ではない、まるで花が萎れていくかのように、眉は下がり、視線は足元を彷徨い、唇からは小さなため息が零れ落ちる。

「……もしかして、飽きちゃった?」
「へ?」
「わたし、見た目も地味だし、話も面白くないし、男女交際とか初めてだから男の子が何考えてるのか察してあげられないし」
「え、いや、ちょっと待って」
「怒らせるようなことしちゃってても気づけないし、他の女の子に目移りされても引き止められるような魅力もないし」
「待って、ちょっと待って!」

突然ネガティブモード全開でつらつらと上げ連ねていく彼女の目にはいつのまにか大粒の涙が盛り上がっていた。
体の脇で握りしめられた拳が小さく震えてるのに気がついて、僕は慌ててその言葉を遮ると、居ても立ってもいられずにその身をぎゅっと抱き締めた。
カッターシャツの胸元が彼女の涙を吸い取って湿り気を帯びてくるけど、そんなこと気にしてなんかいられない。
宥めるように背中を撫でながら、何度も「ごめん」と謝った。

「ごめん、ごめんね。不安にさせたかったわけじゃないんだ」
「じゃあ、どうして……」
「その……つい、えっちなこと考えちゃってて、それを気づかれたくなくて。軽蔑されるかなって、怖くて」

破れかぶれで白状する。
だって、彼女を泣かせてまで隠しておくようなことじゃない。
軽蔑されるかもしれないって不安はあるけど、たぶんいつかは通る道なんだし、いつまでも隠しておけることでもない。
できることならもっとタイミングを見て、いい雰囲気の時に明かして、あわよくばそのまま――なんて展望も抱いてたけど、そもそも時間が経ったとしてもきっと僕にそんな器用な真似ができるはずもなかっただろう。

彼女は僕の胸元に顔を埋めたまま微かに身じろぎしたけど、脱兎の如く逃げられたりすることはなかった。
見下ろす耳たぶがほんのり赤くなってるから、意味が伝わらなかったということもないだろう。
ちゃんと理解した上で、逃げもせず、僕に抱き締められたままでいてくれることから、恐れてたようにドン引かれたりはしなかったらしい。
ただ、少しばかり肩に力が入ってることから、怖がらせてしまってるかもしれないなとは思う。

「我ながらがっついててみっともないとは思うけど、ちょっとそういうこと考えちゃ売ってだけで別に今すぐ無理にどうこうしようとかいうわけじゃないから……」

そう、何も今すぐどうこうしようというわけじゃないんだ。
したくないわけじゃないけど。
でもどうせならムードのある演出はしたいじゃないか。お互い初めてなわけだし。

「……」

意識が斜めにずれたことで、僕は気づいちゃいけないことに気づいてしまう。
抱き締めた体が思ってた以上に柔らかいとか、お互い薄着だから密着するとこんなにも体のラインが分かっちゃうんだよなとか、そういうのは今は考えちゃ駄目なやつだ。

ますます彼女と目を合わせられなくなりそうだと思いながら、僕は必死に「煩悩退散」と自分に言い聞かせ、ここからどうやって軌道修正するか頭を悩ませるのだった。





7/30/2023, 9:53:39 AM

今日のテーマ
《嵐が来ようとも》





台風の進路の予想円は、どうあっても直撃コースを辿りそうだと示している。
今回の台風は勢力が強めだということで、テレビでは気象予報士がしきりに警戒を呼び掛けていた。

「やっぱり明日行くの?」
「当たり前だろ」
「電車止まるかもってよ」
「そしたらネカフェかファミレスで時間潰すし」

心配してくれる家族には悪いと思うけど、どうしても明日発売の推しグッズを入手したいのだから仕方ない。
日をずらしたらきっと転売ヤーに狩り尽くされて、フリマアプリやオークションサイトで10倍くらいの値がつけられるに違いない。
原作の会社や販売元にそのお金が入るなら仕方ないと思えるが、何が悲しくてハイエナみたいな転売ヤーなんぞに金を落としてやらなきゃならんというのか。
それくらいなら、たとえ嵐が来ようとも、それによって帰宅難民になろうとも、絶対に直接買ってやると拳を握る。

そんな俺の性質をよくよく理解してくれている家族は、仕方がないなというように苦笑しながら肩を竦めた。
止めているのはあくまで俺の身を案じてくれているからというだけで、俺のその選択を馬鹿にしたり呆れたりはしない。
止めるだけ無駄だろうと分かってはいるけど、駄目元で一応止めたというところだろう。

「始発で出るんだよね? じゃあ、今日は遅くまでゲームしてないで早く寝ないとだね。もう寝ちゃう?」
「うん、そうする。もし起きる時にガサガサしちゃって起こしたらごめん」
「別にいいよ。その時間だとたぶん熟睡してて起きないだろうし。でも、くれぐれも気をつけてね」
「了解。じゃあ、おやすみ」

まだリビングから移動する気配のない妻に挨拶をして寝室に向かう。
たぶん彼女は彼女で、これから1人で心置きなく自身の推しの舞台の配信でも見るのだろう。
方向性は違うけど、お互いにオタク気質なところがあり、暗黙の了解でその領分を侵さず、また否定もせずにいるからこそ、大きな喧嘩もすることなくうまくいっているんだろう。
理解のある夫婦関係だと、互いの友人にはそれぞれ羨ましがられている。

翌朝、妻を起こさないようこっそり起き出して出かける支度をしていたら、リビングのテーブルに朝食とモバイルバッテリーが用意されていた。
他にもタオルや手軽につまめる菓子類がいくつか。

 帰宅難民対策です
 必要そうなのだけ持ってってね
 いってらっしゃい
 気をつけてね

添えられたそんなメモを見て、思わず顔が綻んだ。
朝食はおにぎりで、家で食べていっても、持っていって現地で並びながら食べてもいいようにという配慮が感じられる。
俺はそれらを手早くバッグにしまうと、メモに『ありがとう』と添えて家を出た。

もし、目当ての推しグッズを買って、帰りに電車が停まってたりしなかったら、帰りにデパ地下に寄って、彼女の大好きなお菓子を買って帰ることにしよう。
嵐が来ても止められないくらい熱心に推し活をしている俺だけど、それとは違うベクトルで、妻のことも大好きなのだ。
推しグッズを愛でつつ妻の喜ぶ顔も見られるなんて最高だろ。
そんな未来予想図にほくほくしながら、荒天の中、意気揚々と駅に向かう俺なのだった。





7/29/2023, 9:27:55 AM

今日のテーマ
《お祭り》





電車を降りると、微かに祭囃子の音が聞こえてきた。
そういえば駅の近くに車両の通行止めやバス停の迂回を示す立て看板が出ていたな、と思い出す。
毎年この時期になると駅前で開催されている地元の祭りだ。

駅のロータリーには屋台が並び、中央ではやぐらが建ってその周辺をぐるりと囲んで盆踊りをしたりする。
屋台は定番のもの以外にも、地元の商店が店先で自店の料理などを売っていたりもする。
駅から少し進んだ先の公園では簡易の舞台が設置されて喉自慢大会もやっていたはずだ。

今日は親が留守だから夕飯はコンビニ弁当か何かにしようと思っていたけど、屋台で何か買って食べてもいいかもしれない。
コンビニ弁当よりは高くつくかもしれないが、久しぶりに地元の祭りを楽しむのもいいだろう。
どうせ駅前のコンビニは、祭り仕様で弁当なんてあるかどうか分からないことだし。

そんなことを思いつつ、並んでいる屋台を端から物色していく。
例えば同じお好み焼きの屋台でも、店によって混み具合は大きく異なる。
味はそう変わるものでもないと思うから、立地や価格、それに具材の良し悪しなどで判断しているのだろう。

人気が高いのはやはり食べ物を扱う店だろう。
定番の粉モノや、肉系の串、やきそばなどはどこも盛況だ。
俺もまずは腹ごしらえとばかりに、焼きそばとお好み焼きを買った。

ガードレールに寄りかかりながら、まだ熱々のそれをハフハフいいながら食べる。
そう、これこれ。
冷静に味だけで判定するなら明らかに家で作ったものの方が美味しいはずなのに、祭りという非日常の場で食べると不思議と美味く感じてしまう。

とりあえず軽く腹が満たされたところで次は何を食おうかと視線を走らせていると、背後からポンッと肩を叩かれた。
振り返ると、そこには中学の頃の同級生の姿があった。
紺地に大きな白い花が描かれた浴衣が涼しげだ。

「久しぶりだね」
「おう、そっちも元気そうじゃん」
「うん、元気だよ」

にこにこと屈託なく笑うその顔は覚えているそのままなのに、なぜか妙に色気を感じてしまうのは浴衣のせいだろうか。
それとも、いつもは無造作に後ろに1つで縛られていた髪が、今日は可愛らしく纏められていて、白いうなじが露わになっているせいだろうか。
はたまた、中学で毎日顔を合わせていた時とは違い、薄く化粧が施されているからだろうか。

どちらかといえば大人しめで、あまり目立たないタイプの女子だった。
賑やかな友人のそばで、いつもにこにこ笑っていた印象が強い。
なのに、今、俺の目の前にいる彼女は、あの頃よりずっと大人びて見える。
最後に会ったのは卒業式だからほぼ4ヶ月ぶりだけど、たった4ヶ月で女子ってやつはこんなにも変わってしまうのかと密かに驚いてしまう。

「誰かと一緒に来たの?」
「いや、1人。来たっていうか、駅下りたら祭りやってたから、せっかくだから見てくかってノリ。そっちはいつもの連中と?」
「ううん、今日は妹と来てたの。でも、さっき妹が友達とばったり会って、そのまま一緒に回るって言うから……」

ちらりと彼女が視線を向けた先につられて目をやると、よく似た面差しの少女が同年代――俺らより2つ3つ年下っぽい――女の子達とスマホの画面を覗き込みながら笑っていた。
その様子が、何だか中学の頃の彼女を彷彿とさせて、思わず懐かしさに顔が綻んでしまう。

実を言うと、中学の頃、俺は彼女のことが好きだった。
告る勇気はなかったから、単なる同級生のまま卒業してしまったが、そのこと自体に悔いはない。
だけど、こんな風にばったり会って、隣に彼氏の姿がなかったことに安堵するくらいにはまだ未練があったらしいと思い知る。

「じゃあ……独り者同士、一緒に回る? あ、いや、もちろん無理にとは言わないけど!」

咄嗟にそんな言葉が口を突いて出てしまったのも、きっとその未練の為せる業なんだろう。
もっと気の利いた誘い文句が言えればいいんだろうけど、経験値も何もかも足りてない俺にはこれが精いっぱいで。
暑さのせいばかりでなく、一気に顔が火照ってくる。

だけど彼女はそんな風にキョドる俺に引いたりすることもなく、満面の笑みで頷いてくれた。
ほんのり頬が染まってるように見えるのは――いやいや、さすがにそれは自惚れすぎだろ。
気温はまだまだ30℃以上あるし、屋台や人の熱気で暑いだけだよな。

そうして俺達はそのまま連れ立って一緒に祭りを楽しんだ。
まるでデートしてるみたいだ、なんて浮かれてた俺が、彼女から「実は中学の時から好きだったんだ」と告白されるのは、それからもう数十分後のこと。





7/28/2023, 9:06:59 AM

今日のテーマ
《神様が舞い降りてきて、こう言った。》





「神様、どうか願いを叶えて下さい」

奇跡なんて起こらない。
どんなに願ってもそんなのきっと叶わない。
神様なんてどこを探したって見つからない。

頭の片隅で、そんな風に諦めを促す声がする。
それでは僕は諦めきれなくて、その場に額ずいて祈り続ける。


僕の住む街と隣の街を繋ぐ街道には途中に大きな森がある。
森の奥には湖があって、その畔には人の姿を象った不思議な像があるという。
その像は地元の住人の間では『神を宿しき像』と呼ばれている。

曰く、村一番の人気者の男を想う娘が恋が叶うように祈ったら、数日後にその男から求婚されたとか。
曰く、日照り続きの時にその像に祈ったら翌日に雨が降ったとか。
曰く、幼い我が子が病に倒れ、藁に縋る思いで母親が祈ったら、それから程なく快癒したとか。
曰く、戦のために徴兵されることが決まった家族が無事の帰還を祈ったら、戦地に赴く直前に戦が終わったとか。

眉唾物の話も多いけど、大きなものから小さなものまでそうした逸話に事欠かない。
おかげでこの辺りの住民はみな信心深く、何かあるとその像の元を訪れて祈りを捧げる。
願う人の数が増えれば、当然ながら叶わなかった願いも数多くなる。
願いが叶わず当てが外れたり、そうした話を聞いて「あんなのただの迷信だ」と一蹴する者も少なくない。

僕は、どちらかと言えば信じていない方だった。
といっても、僕の場合は別に自分が何かを祈って叶わなかったわけではない。
叶ったと言われている願いはきっと偶然の産物で、たまたま運良くそのタイミングが合致しただけなのだろう、と思っていただけだ。

もしも本当に神様なんてものがいて、祈るだけで願いを叶えてもらえるというのなら、きっと世の中はもっと平和に、そしてもっと豊かになっているはずだ。
しかし、現実にはそうはなっていない。
隣国とは常に緊張状態が続いているというし、貧しい人や飢える人もいなくなることはない。
それこそが、みなが信じているような全知全能の神なんて存在しないという証ではないだろうか。

でも、僕は信じていなかったけど、だからといって信じている人を否定するつもりはない。
ましてや信じている人の前で「僕は信じてない」なんて言って水を差すつもりもない。
信じたい人は信じればいいし、信じない人は信じなくてもいいだろう。

僕が神様の存在に対して懐疑的なのは、元々の出身があまり信心深くない土地柄だったというのもある。
しかし同時にその地では、他人の信仰を否定したりすることもなかった。
だからこそ、僕もまた「そういう人もいる」という考えが根付いているのだろうと思う。
僕は信じてないけど、あなたがそれを信じることは否定しませんよ、と。


そんな僕が、今は、必死の形相で件の『神の宿る像』に額ずいて祈りを捧げているのには理由がある。
僕がこの辺りに住むようになったのはほんの1年ほど前のこと。
行商に赴いたこの地で、一生に一度と思える恋に落ち、故郷を捨ててもここで彼女と添い遂げたいと願ったからだ。
恋が叶うまでは紆余曲折あったし、口説き落とすまでには何年もかかった。
やっと想いが成就して結婚してからも、些細なことで喧嘩をしてしまうこともあった。
それでも彼女に対する愛情は日々いや増すばかりで、僕がその選択を後悔することはなかった。

幸せに日々はこのままずっと続くと思っていた。
少し前には子供も身籠もり、幸せの絶頂だと思われた。
いや、真実、それが幸せの絶頂だったのだろう。
しかしそんな日々は、2ヶ月ほど前に彼女が謎の症状に見舞われ、倒れてしまったことで終わりを告げた。

医者には原因不明だと匙を投げられた。
妊娠が起因して何らかの持病が顕在化したのではないかという見立てをしたが、その持病が何なのかが分からないというのだ。
王都の偉いお医者様にも問い合わせをしてくれたが、彼女と同様の症例はこれまで確認されていないらしい。

原因が判らなければ施せる治療などあるはずもない。
体力が落ちないよう、栄養価のあるものを食べさせてやる程度のことが関の山。
それでも彼女は日に日に弱っていくばかりで、ついに先日、医者から「母子共に助かる見込みは少ない」と言われた。
正確には「子供の方はもしかしたら助かるかもしれないが、母親の方は覚悟をした方がいい」と。

彼女との子供が欲しくないはずがない。
だけど、どちらが大事かと言われたら、僕が選ぶのは間違いなく彼女だ。
なのに、その彼女が助からないと言われて、どうして絶望せずにいられるだろう。
こうなると分かっていたら子供なんて望まなかったのに。

だからこそ、僕は今、信じていなかった神に祈りを捧げているのだ。
こうして祈っている間も神の存在には懐疑的で、もしも本当に神様がいたとしても、そんな僕の願いが聞き届けられるはずがないと僕の中の冷静な部分が断じている。
それでも、僕にはもう、こうする以外の手段が思いつかなかった。
些細な希望であったとしても、それに縋らなければ気が狂ってしまいそうだった。

どれくらいそうしていただろうか。
月の光が湖面に反射してキラキラと輝いている。
その傍らで一心不乱に祈り続けていると、不意に風が吹いたと思ったら、僕の目の前にふわりと誰かが降り立った。

目の前にあったはずの神像の姿はない。
まさかと思いながら顔を上げると、そこには目も眩まんばかりに美しい人が立っていた。

(神様だ……)

僕は茫然としながら、しかしはっきりとそう確信した。
そうでなければこの不可思議な現象の説明はできないし、何よりも目の前に立つ人物は筆舌に尽くしがたいほどに神々しい。
僕の目の前に舞い降りてきた神様は、心の奥底まで見通すような眼差しを向けてこう言った。

「そなたは妻を助けたいと望むか」
「はい」
「その望みを叶えるために、そなたが犠牲を払わなければならないと言ってもその気持ちは変わらぬか」
「変わりません。彼女が助かるなら、僕の命を彼女にあげてもいい。僕に払える犠牲なら、何だってします」
「内容も聞かずにそのような早計なことを」
「僕に払える犠牲なら、と言いました。でも、僕は彼女を助けるためなら何だってしたい。たとえ神様じゃなく悪魔に魂を売ったとしても」
「それで彼女が悲しむとは思わぬのか」
「それは……」

犠牲を払えと言いながら、神様と思しき人はそんな風に苦言を呈してくる。
だったら僕にどうしろって言うんだ。
たしかに彼女のことは悲しませたくない。
でも、僕が身代わりになることで彼女を助けられるなら、僕は迷わずそれを選択するだろう。
一番いいのは彼女が助かって、彼女と共にこの後の人生を全うすることだけど、願いに犠牲が必要だというならそれを払うことに否やはない。

そんな僕の心を読んだかのように、神様はやれやれと肩を竦めた。
その仕草はやけに人間くさく、しかしどことなく、親しみを感じられた。
それはきっと、僕が馬鹿なことを言った時などに見せる彼女の仕草を少しだけ彷彿とさせられたからかもしれない。

「そなたの妻は、人によく似た姿をしているが、生憎と人ではない」
「は?」
「人ではない者が人との子を胎に宿したために、拒絶反応が出てしまったのだ」

思いもよらない言葉に頭の中が真っ白になる。
いや、たしかに彼女は飛び抜けて美人だし、たまに世間知らずなところもあるけど。
恐らく僕は相当疑惑に満ちた目をしてしまっているのだろう。
神様がそっと目を逸らして小さく咳払いする。

「あれは人の世に遣わした我が眷族。もしもそなたもまた、ここで我が眷属になるというのであれば、胎の子は今ならまだ同族の子として変化できよう。さすればそなたの妻は回復し、胎の子も無事に生まれてくることができよう」
「なら、僕をあなた様の眷属にして下さい」
「我が眷属になれば、もう人には戻れぬぞ」
「彼女を失わなくて済む上に、彼女と同族になれるってことですよね? だったら願ってもないことです」

一瞬の迷いもなく頷いた僕に、神様は呆れた目を向けたが、やがて苦笑混じりの笑みを浮かべて何かを納得するように頷いた。
それから僕の額に、綺麗に整えられ彩られた爪の先を押し当てる。
触れた爪の先から、何か不思議な、熱いものが流れ込んでくる。

「ならば、願いを叶えよう。今後は我が眷属として、彼女と共に末永く我に仕えよ」

ああ、これで彼女が助かる。
僕が思ったのはそれだけだった。
これから先の僕の身の上がどうなるのかや、僕の体が何か違うものに造り替えられていく感覚などは二の次だ。
僕にとって一番大事なのは、自身のことでも神様のことでもなく、彼女のことだったのだから。


こうして僕は、彼女同様、神様の眷属となった。
翌日には神様が言った通り、彼女はすっかり回復して医者を驚かせ、それから数ヶ月後に元気な子供を産んだ。

彼女は最初、僕の選択にとても怒っていたけど、最終的には納得してくれた。
本当の意味で、これで最期まで添い遂げられることになったから、と。

神様の眷属である彼女は、実はあのままでも死にはしなかったらしい。
数年か、はたまた数十年か、眠りにつくだけで、いずれ復活を遂げられたのだという。
だけど、僕や子供が生きている間にそれが叶うかは分からなかったのだそうだ。
そして、もし奇跡的に助かったとしても、寿命も違うため、僕を看取った後はそれを思い出に独りきりでずっと生き永らえることになっただろう、と。

僕達の仕事は、例の神像に捧げられた願いをピックアップして神様に届けること。
願いの選別は恣意的には行えない。
できるのは、災いをもたらすような願いが届くことのないよう選別することだけ。
そして、あの神像が苔むしてしまったりしないよう、日々綺麗に保つこと。

以前は彼女がこっそりやっていたらしいそれを、これからは夫婦でせっせと行うことになる。
もっとも彼女はまだ産後で休養が必要だから、今は僕が1人でやっているけれど。
あともう数年もすれば、きっと成長した子供も手伝ってくれるようになるだろう。
我が子もまた、生まれながらにして神様の眷属となったのだから。


神様はいて、奇跡は起きた。
そして僕は、今日もせっせと神像を磨く。
彼女を助け、僕をずっと彼女の傍にいられるようにしてくれた、心温かい神様に感謝しながら。






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