今日のテーマ
《神様が舞い降りてきて、こう言った。》
「神様、どうか願いを叶えて下さい」
奇跡なんて起こらない。
どんなに願ってもそんなのきっと叶わない。
神様なんてどこを探したって見つからない。
頭の片隅で、そんな風に諦めを促す声がする。
それでは僕は諦めきれなくて、その場に額ずいて祈り続ける。
僕の住む街と隣の街を繋ぐ街道には途中に大きな森がある。
森の奥には湖があって、その畔には人の姿を象った不思議な像があるという。
その像は地元の住人の間では『神を宿しき像』と呼ばれている。
曰く、村一番の人気者の男を想う娘が恋が叶うように祈ったら、数日後にその男から求婚されたとか。
曰く、日照り続きの時にその像に祈ったら翌日に雨が降ったとか。
曰く、幼い我が子が病に倒れ、藁に縋る思いで母親が祈ったら、それから程なく快癒したとか。
曰く、戦のために徴兵されることが決まった家族が無事の帰還を祈ったら、戦地に赴く直前に戦が終わったとか。
眉唾物の話も多いけど、大きなものから小さなものまでそうした逸話に事欠かない。
おかげでこの辺りの住民はみな信心深く、何かあるとその像の元を訪れて祈りを捧げる。
願う人の数が増えれば、当然ながら叶わなかった願いも数多くなる。
願いが叶わず当てが外れたり、そうした話を聞いて「あんなのただの迷信だ」と一蹴する者も少なくない。
僕は、どちらかと言えば信じていない方だった。
といっても、僕の場合は別に自分が何かを祈って叶わなかったわけではない。
叶ったと言われている願いはきっと偶然の産物で、たまたま運良くそのタイミングが合致しただけなのだろう、と思っていただけだ。
もしも本当に神様なんてものがいて、祈るだけで願いを叶えてもらえるというのなら、きっと世の中はもっと平和に、そしてもっと豊かになっているはずだ。
しかし、現実にはそうはなっていない。
隣国とは常に緊張状態が続いているというし、貧しい人や飢える人もいなくなることはない。
それこそが、みなが信じているような全知全能の神なんて存在しないという証ではないだろうか。
でも、僕は信じていなかったけど、だからといって信じている人を否定するつもりはない。
ましてや信じている人の前で「僕は信じてない」なんて言って水を差すつもりもない。
信じたい人は信じればいいし、信じない人は信じなくてもいいだろう。
僕が神様の存在に対して懐疑的なのは、元々の出身があまり信心深くない土地柄だったというのもある。
しかし同時にその地では、他人の信仰を否定したりすることもなかった。
だからこそ、僕もまた「そういう人もいる」という考えが根付いているのだろうと思う。
僕は信じてないけど、あなたがそれを信じることは否定しませんよ、と。
そんな僕が、今は、必死の形相で件の『神の宿る像』に額ずいて祈りを捧げているのには理由がある。
僕がこの辺りに住むようになったのはほんの1年ほど前のこと。
行商に赴いたこの地で、一生に一度と思える恋に落ち、故郷を捨ててもここで彼女と添い遂げたいと願ったからだ。
恋が叶うまでは紆余曲折あったし、口説き落とすまでには何年もかかった。
やっと想いが成就して結婚してからも、些細なことで喧嘩をしてしまうこともあった。
それでも彼女に対する愛情は日々いや増すばかりで、僕がその選択を後悔することはなかった。
幸せに日々はこのままずっと続くと思っていた。
少し前には子供も身籠もり、幸せの絶頂だと思われた。
いや、真実、それが幸せの絶頂だったのだろう。
しかしそんな日々は、2ヶ月ほど前に彼女が謎の症状に見舞われ、倒れてしまったことで終わりを告げた。
医者には原因不明だと匙を投げられた。
妊娠が起因して何らかの持病が顕在化したのではないかという見立てをしたが、その持病が何なのかが分からないというのだ。
王都の偉いお医者様にも問い合わせをしてくれたが、彼女と同様の症例はこれまで確認されていないらしい。
原因が判らなければ施せる治療などあるはずもない。
体力が落ちないよう、栄養価のあるものを食べさせてやる程度のことが関の山。
それでも彼女は日に日に弱っていくばかりで、ついに先日、医者から「母子共に助かる見込みは少ない」と言われた。
正確には「子供の方はもしかしたら助かるかもしれないが、母親の方は覚悟をした方がいい」と。
彼女との子供が欲しくないはずがない。
だけど、どちらが大事かと言われたら、僕が選ぶのは間違いなく彼女だ。
なのに、その彼女が助からないと言われて、どうして絶望せずにいられるだろう。
こうなると分かっていたら子供なんて望まなかったのに。
だからこそ、僕は今、信じていなかった神に祈りを捧げているのだ。
こうして祈っている間も神の存在には懐疑的で、もしも本当に神様がいたとしても、そんな僕の願いが聞き届けられるはずがないと僕の中の冷静な部分が断じている。
それでも、僕にはもう、こうする以外の手段が思いつかなかった。
些細な希望であったとしても、それに縋らなければ気が狂ってしまいそうだった。
どれくらいそうしていただろうか。
月の光が湖面に反射してキラキラと輝いている。
その傍らで一心不乱に祈り続けていると、不意に風が吹いたと思ったら、僕の目の前にふわりと誰かが降り立った。
目の前にあったはずの神像の姿はない。
まさかと思いながら顔を上げると、そこには目も眩まんばかりに美しい人が立っていた。
(神様だ……)
僕は茫然としながら、しかしはっきりとそう確信した。
そうでなければこの不可思議な現象の説明はできないし、何よりも目の前に立つ人物は筆舌に尽くしがたいほどに神々しい。
僕の目の前に舞い降りてきた神様は、心の奥底まで見通すような眼差しを向けてこう言った。
「そなたは妻を助けたいと望むか」
「はい」
「その望みを叶えるために、そなたが犠牲を払わなければならないと言ってもその気持ちは変わらぬか」
「変わりません。彼女が助かるなら、僕の命を彼女にあげてもいい。僕に払える犠牲なら、何だってします」
「内容も聞かずにそのような早計なことを」
「僕に払える犠牲なら、と言いました。でも、僕は彼女を助けるためなら何だってしたい。たとえ神様じゃなく悪魔に魂を売ったとしても」
「それで彼女が悲しむとは思わぬのか」
「それは……」
犠牲を払えと言いながら、神様と思しき人はそんな風に苦言を呈してくる。
だったら僕にどうしろって言うんだ。
たしかに彼女のことは悲しませたくない。
でも、僕が身代わりになることで彼女を助けられるなら、僕は迷わずそれを選択するだろう。
一番いいのは彼女が助かって、彼女と共にこの後の人生を全うすることだけど、願いに犠牲が必要だというならそれを払うことに否やはない。
そんな僕の心を読んだかのように、神様はやれやれと肩を竦めた。
その仕草はやけに人間くさく、しかしどことなく、親しみを感じられた。
それはきっと、僕が馬鹿なことを言った時などに見せる彼女の仕草を少しだけ彷彿とさせられたからかもしれない。
「そなたの妻は、人によく似た姿をしているが、生憎と人ではない」
「は?」
「人ではない者が人との子を胎に宿したために、拒絶反応が出てしまったのだ」
思いもよらない言葉に頭の中が真っ白になる。
いや、たしかに彼女は飛び抜けて美人だし、たまに世間知らずなところもあるけど。
恐らく僕は相当疑惑に満ちた目をしてしまっているのだろう。
神様がそっと目を逸らして小さく咳払いする。
「あれは人の世に遣わした我が眷族。もしもそなたもまた、ここで我が眷属になるというのであれば、胎の子は今ならまだ同族の子として変化できよう。さすればそなたの妻は回復し、胎の子も無事に生まれてくることができよう」
「なら、僕をあなた様の眷属にして下さい」
「我が眷属になれば、もう人には戻れぬぞ」
「彼女を失わなくて済む上に、彼女と同族になれるってことですよね? だったら願ってもないことです」
一瞬の迷いもなく頷いた僕に、神様は呆れた目を向けたが、やがて苦笑混じりの笑みを浮かべて何かを納得するように頷いた。
それから僕の額に、綺麗に整えられ彩られた爪の先を押し当てる。
触れた爪の先から、何か不思議な、熱いものが流れ込んでくる。
「ならば、願いを叶えよう。今後は我が眷属として、彼女と共に末永く我に仕えよ」
ああ、これで彼女が助かる。
僕が思ったのはそれだけだった。
これから先の僕の身の上がどうなるのかや、僕の体が何か違うものに造り替えられていく感覚などは二の次だ。
僕にとって一番大事なのは、自身のことでも神様のことでもなく、彼女のことだったのだから。
こうして僕は、彼女同様、神様の眷属となった。
翌日には神様が言った通り、彼女はすっかり回復して医者を驚かせ、それから数ヶ月後に元気な子供を産んだ。
彼女は最初、僕の選択にとても怒っていたけど、最終的には納得してくれた。
本当の意味で、これで最期まで添い遂げられることになったから、と。
神様の眷属である彼女は、実はあのままでも死にはしなかったらしい。
数年か、はたまた数十年か、眠りにつくだけで、いずれ復活を遂げられたのだという。
だけど、僕や子供が生きている間にそれが叶うかは分からなかったのだそうだ。
そして、もし奇跡的に助かったとしても、寿命も違うため、僕を看取った後はそれを思い出に独りきりでずっと生き永らえることになっただろう、と。
僕達の仕事は、例の神像に捧げられた願いをピックアップして神様に届けること。
願いの選別は恣意的には行えない。
できるのは、災いをもたらすような願いが届くことのないよう選別することだけ。
そして、あの神像が苔むしてしまったりしないよう、日々綺麗に保つこと。
以前は彼女がこっそりやっていたらしいそれを、これからは夫婦でせっせと行うことになる。
もっとも彼女はまだ産後で休養が必要だから、今は僕が1人でやっているけれど。
あともう数年もすれば、きっと成長した子供も手伝ってくれるようになるだろう。
我が子もまた、生まれながらにして神様の眷属となったのだから。
神様はいて、奇跡は起きた。
そして僕は、今日もせっせと神像を磨く。
彼女を助け、僕をずっと彼女の傍にいられるようにしてくれた、心温かい神様に感謝しながら。
7/28/2023, 9:06:59 AM