今日のテーマ
《あなたがいたから》
「間に合った!」
階段を駆け上がり、ぜーぜーと息を切らしながら電光掲示板を見上げる。
そこには予定の電車を示す表示。
それを確認したのと同時、構内に入線を知らせるアナウンスが流れる。
隣で同じように息を整えている親友と顔を見合わせ、小さく拳を合わせて喜びを示し合った。
今日は大事な試験の当日。
昨日は不安で寝つけなかったこともあって、結局起き出して明け方近くまで悪足掻きのように問題集に齧りついていた。
おかげでものの見事に寝坊した。
そしてこいつは、時間になっても待ち合わせ場所に現れない俺をアパートまで迎えに来てくれた上で叩き起こし、こうしてあわや遅刻するかという事態に巻き込まれてくれたというわけだ。
これで間に合わなかったら謝っても謝りきれないところだった。
「いやあ、それにしても、間に合って本当良かった。迎えに来てくれなかったら詰んでたよ。ほんとにありがとな」
「待ち合わせ時間、余裕持たせといて正解だったでしょ」
得意げに告げられた言葉に深く頷く。
俺の寝坊まで見越してたわけじゃないだろうけど、待ち合わせ時間にかなり余裕を持たせていたことで、こうして遅刻ギリギリラインの電車には間に合ったわけだ。
しかし俺が感謝しているのはそればかりではない。
「それもだけど、先に行ってても良かったのに、わざわざ家まで来てくれるなんて」
「だって携帯に電話しても出ないし」
だから、もしかして寝坊してたり体調を崩してるんじゃないかと家まできてくれて、アラームにも着信音にも気づかず寝こけてた俺をアパートのドアをガンガンぶっ叩いて起こしてくれたというわけだ。
それがなかったらきっと俺は今も夢の中だったに違いない。
見捨てて先に行くという選択肢もあったはずだ。
家に寄って起こしてくれたところまではともかく、その時点で俺を置いて先行していれば、こんなに息を切らしてギリギリの電車に乗る羽目にはならなかっただろう。
それなのに、お人好しのこいつは、俺が慌てて身支度している間に、勝手知ったる俺の部屋で試験に必要な受験票やら筆記用具といったあれこれを一通り鞄に詰めてくれたりと甲斐甲斐しく準備まで手伝ってくれたのだからいくら感謝してもし足りない。
そういったことを話しながら改めて礼を言うと、にこにこ笑いながら首を振った。
「だって今こうしてここにいられるのはあなたのおかげだし」
静かな眼差しといやに真剣な表情で見つめられ、何の話を指しているのか察する。
子供の頃、危うく死にかけたこいつを助けた時のことを言ってるんだろう。
親御さんにも命の恩人だって散々言われたけど、俺自身はそんな大袈裟なことをしたとは思ってない。
友達が高所から転落しそうになってたら助けようとするのはごく当たり前のことだろう。
まあ、あと少し大人が駆けつけてくれるのが遅かったら俺も諸共落下してたかもしれなかったし、親からは後先考えろってこっぴどく叱られたけど。
「今までだって散々世話焼いてくれてるんだから、もう充分すぎるくらいあの時の恩は返してもらってるだろ」
「そうかな? 全然返し切れてる気がしないんだけど」
「そんなことないって。俺は助かったけど、例えば今日の試験が間に合わなかったとして、これでおまえまで巻き添え食らわしてたら、謝っても謝りきれないし、後悔してもし足りない」
「でも、あの場でこっちが先に行ってたら『間に合わない』って諦めてたでしょ」
それは確かにその通り。
家を出た時間は全力疾走しても間に合うかどうか微妙なラインで、俺一人だったら途中で諦めてた可能性は否定できない。
巻き添えを食らわした上にこいつまで遅刻させるなんてあっちゃならないと思えばこそ、息が切れても脇腹が痛んでも、足を止めることなく駅まで走り切れた。
「恩返しどうこうってのはともかく、こっちだけ間に合っても意味ないしね」
「それはそうかもしないけど」
もともと今日の試験は俺が一緒に受けようと誘ったもの。
それなのに肝心の俺が遅刻して受けられなかったりしたら本末転倒ではある。
「おまえがいてくれてほんとに良かった。ありがとな」
ホームに滑り込んできた電車の音で聞こえなかったかもしれない。
そう思いながらちらりと横目で窺えば、嬉しそうに顔を綻ばせてる。
どうやらちゃんと伝わったらしい。
そうして俺達は遅刻寸前ではあったものの試験の時間には無事間に合い、揃って満足のいく結果を出すことができたのだった。
今日のテーマ
《相合傘》
昼休みまで晴れていたのが嘘のように、5時間目の終わり頃から曇り出した空は放課後になる頃には完全に雨模様になっていた。
傘を持ってきていない者達は、諦めて濡れて帰る覚悟を決めて駆け出したり、家族に迎えを頼む電話をしたり、最終下校の時間まで校内で時間を潰して雨が止むのを待つことにしたりと、その選択は様々だ。
天気予報をチェックしてきた僕はしっかり傘を持ってきていて、そんな級友達を少し気の毒に思いながら昇降口で靴を履き替える。
仲の良い友人達も今日はみんな傘を持ってきていたようで入れてくれと頼まれることもない。
そんな僕の目に、ふと、生徒用玄関の軒下で空を見上げる女子の姿が目に止まった。
あまり話したことのない、同じクラスの子だ。
「傘、忘れたの?」
「まあ、そんなとこ」
困り顔で肩を竦める様子を見て、ちょっと迷う。
特に親しいわけじゃないけど、彼女の家は通学路の途中にあることを僕は知ってる。
僕がここで「入れてあげようか」と声をかけたら、彼女は濡れずに帰ることができるだろう。
でも、それを誰かに見られたら、絶対にからかいの種にされる。
彼女は男子の間で密かに人気があって、対する僕はと言えばクラスでも影の薄い陰キャで。
たとえそれが事実であったとしても、いや事実だからこそ、そういう噂の矢面に立たされるのは正直言って全力で避けたい。
そう、僕もまた彼女のことをいいなと思っている内の1人だったから。
一向に止む気配のない空を見上げながら彼女がため息を吐く。
途方に暮れたようなその横顔を見たら、やっぱりこのまま知らんぷりすることはできないなと思う。
そうなると選択肢は限られる。
「傘、良ければ僕の使って」
「え? でも……」
「家までダッシュすれば10分くらいだし」
「駄目だよ! 風邪引いちゃう!」
「女の子って体冷やすの良くないっていうじゃん。こっちなら大丈夫だから」
幸い傘は無地の水色で、女子が使っても違和感はない。
だから僕は傘を押しつけてそのまま雨の中へ駆け出そうとしたんだけど、それより彼女が腕を掴んで引き止める方が僅かに早かった。
「それなら一緒に帰ろう」
「いや、でも、それは……」
「わたしが傘借りたせいで風邪引かせたら責任感じちゃうから。それくらいなら一緒に帰ろう。ていうか、一緒に入れて帰って。お願い」
両手を合わせて拝むように頼んでくる。
気になる女の子にこんな風にお願いされて、どうしてすげなく断ることができるだろう。
でも変に噂されたりするのは、僕も困るけど、彼女だって嫌なんじゃないだろうか。
ためらい、逡巡する僕に、彼女も僕が嫌がっているわけじゃないということに気づいたらしい。
「もしかして、誤解されると困る人がいるとか?」
「えーと、僕はそういう相手はいないけど、そっちは変に噂されたら困るんじゃないかなって」
「なんで?」
「だって、僕、こんなだし」
「こんなって?」
「陰キャだし、その……女子って僕みたいなのキモいって思うんじゃないかなって」
「は? 全然そんなことないよ! むしろ逆だし!」
「え、なんて?」
「ううんごめん何でもない!」
めちゃくちゃ慌てたように彼女が首を振る。
何だかよく分からないけど、キモいとまでは思われてないようでそのことにこっそりホッとする。
「うち、一応通学路の通り道だよね? 遠回りさせちゃったりとかじゃないと思うんだけど」
「あー、うん、そそれはそうなんだけど」
「何だったら寄ってってくれたらお礼にジュースくらい出すし」
「いや流石にそれは」
「じゃあ家まで入れてってくれるのはいい?」
あれ?
何だか一緒に帰る流れになってる?
どうしたものかと考えるけど、そうじゃなくても口下手な僕が、女子に口で勝てるはずもなく。
「もし誰かに何か言われたら、私が無理矢理お願いして入れてもらったってちゃんと言うから!」
「う、うん、そこまで言うなら……」
身を乗り出すようにしてそこまで必死に懇願されたこともあり、僕は仕方なく頷いた。
緊張するし、本当に大丈夫かなって心配もあるけど、だからって嫌なわけじゃない。むしろ嬉しいまである。
あまり目立つようなことはしたくないけど、誰かに何か言われたらその時はその時だって開き直ろう。
そうして僕たちは1本の傘の下、寄り添うようにして歩き始める。
彼女が少しでも濡れなくて済むように、少しだけ彼女寄りに傾けて。
触れる腕から伝わる体温とか、時々ふわっと鼻を擽るシャンプーの香りとか、蒸し暑さのせいばかりじゃなく火照る頬とか、そんなことばかり意識して、心臓が全力疾走したときみたいにドキドキしてくる。
どうかこのことが彼女に気づかれませんように。
祈るように思いながら、僕はその10分程度の道のりを、緊張と幸せを噛み締めながら歩いていく。
彼女の鞄の中に実は折り畳み傘が入っていたことや、これが彼女なりの拙いアプローチだったということ僕がを知るのは、それからだいぶ経ってからのお話。
今日のテーマ
《落下》
寝入り端、急に落下するような感覚で目が覚める。
実際には布団の中で、どこかに落ちるはずも、またどこかから落ちて布団に着地したというわけでもない。
しかし、実際に落ちたわけではなくとも、その錯覚によって体は強張り、心臓はいやにバクバク鼓動の速度を上げている。
経験則から疲れている時に起こりやすいということは分かっているので、僕は意識的に体をリラックスさせるためにゆっくり深呼吸した。
「眠れないの?」
「いや、寝てたんだけど、落ちる感覚で目が覚めた」
「ああ、たまにあるよね」
隣で寝ていた妻が気づいて声をかけてきたので正直に話すと、彼女は笑いながら半身を起こした。
目が覚めた時にビクッとしてしまったからそれで起こしてしまったのかと思って謝ると、どうやら妻は布団の中で寝る前の読書をしていたらしく、気にしないでと首を振った。
「目が覚めちゃったんじゃない? 私も喉が渇いたし、何か飲む?」
「そうだな……手間じゃなければもらおうかな」
「うん。じゃあ特製ホットミルクにしようか」
「あれか。うん、久しぶりに飲みたい」
僕も起き上がり、彼女の後を追うように寝室を出てリビングに向かう。
ダイニングテーブルに着いてカウンター越しに様子を窺うと、彼女は手際良く小鍋に牛乳を注ぎ、そこに蜂蜜を加えて火にかける。
これは眠れない夜専用の特製ホットミルク。
彼女が子供の頃、夜中に目を覚ました時に母親から作ってもらったものなのだそうだ。
結婚してから僕も何度かご相伴に預かっている。
熱すぎないほどほどの温度のホットミルクに蜂蜜の優しい甘さが効いていて、飲むとほっこりした気分になって不思議とよく眠れる。
リビングの電気はつけず、キッチンライトの頼りない明かりのもと、2人で向かい合って揃いのマグカップでホットミルクを飲む。
ここのところ仕事が忙しくて、こんな風に深夜に妻と向かい合うのも久しぶりだった。
特に会話らしい会話もないけど、何ともホッとするひとときで自然と笑みが浮かんでくる。
マグカップの中身が半分ほど減った頃、階段を下りてくる微かな音が聞こえ、妻と2人で何となくそちらに視線をやった。
「あれ、2人してこんな時間にどうしたの?」
「お父さんが目が覚めちゃったからホットミルク入れてたの」
「えー! お父さんとお母さんだけずるい! 私も飲みたい!」
「じゃあお母さんの半分飲む?」
「熱い?」
「ちょうどいい感じで冷めてるから猫舌のあんたでも大丈夫でしょ」
「やった! いただきまーす」
起きてきたのは下の娘で、僕たちを見咎めるとすかさず騒ぎ出す。
途端に賑やかになったキッチンで、僕と妻は目と目を見交わしこっそり笑い合う。
2人きりの時間はあっさり終わりを告げたが、愛する妻に可愛い娘が加わったのだから僕に不満などあるはずもない。
「こんな時間まで起きてたのか?」
「うん、試験近いから勉強してた」
「嘘ばっかり。またゲームしてたんでしょ」
「ソンナコトナイヨ」
「誤魔化したって分かるんだから。昨日から始まったイベントでしょ」
「なんでバレてるかな」
「夜更かしが駄目とは言わないけど程々にな」
「はーい」
傍目にも下手すぎる誤魔化しをあっさり看破されてぶつぶつ言う娘にそっと釘を差す。
しかし言ってもあまり効果はないだろう。自分がこのくらいの年の頃には親の小言なんて右から左だったし。
妻もそれは分かっているらしく、本気で窘めている風ではない。
その後は申し訳ないが後片付けを妻に任せて先に寝室へ引き上げさせてもらう。
妻と娘はまだダイニングで何か話しているようだ。
明日のお弁当のおかずがどうとか言ってる声を背中に階段を上がる。
ベッドに入ると、ほどなく眠気が戻ってきた。
妻の特製ホットミルクのおかげで心身ともにリラックスできている。今度はぐっすり眠れそうだ。
寝入り端にたまに起こるあの落下感はどうにも厄介なもので、妻にも余分な手間をかけさせたことを悪いと思うものの、思いがけず幸せなひとときを味わえたので、今日に限っては良かったかもしれない。
眠りに落ちる直前、そういえば明日は営業で外回りの予定があったな、と思い出す。
訪問先の会社の近くに、妻の好きな洋菓子店があったことも。
時間が合えば立ち寄って、結婚前にたまにプレゼントしていたあのクッキー缶を買ってこよう。
そして子供達には内緒で「昨日はありがとう」と渡そう。
妻の笑顔を思い描き、僕は静かに目を閉じる。
今度は妙な落下感に起こされることなく、心地良い眠りへ落ちていった。
今日のテーマ
《未来》
「もしも未来が分かったらどうする?」
読みかけの本を閉じて彼女が言う。
その手にあるのは流行りのライトノベル。
「今読んでるのは未来が分かる主人公の話なの?」
「正確には『死に戻り』かな。不遇な事態に見舞われて非業の死を遂げた主人公が、気がついたらなぜか過去に巻き戻っていて、そんな不遇な未来を回避するべくあれこれ頑張る話」
「ふうん」
それで『未来が分かったら』などと言い出したのか。
頷きながら彼女が示しているだろう前提を自分に置き換えて考えてみる。
「もしも未来に何か不遇な出来事が待ち構えているとして、それを回避できる手段があるなら、私もその主人公と同じように頑張ると思う」
「うん」
「逃げ出す手段があるなら逃げ出すのもありかな」
「それはお勧めしないな」
本を置いてにっこり笑う彼女に何だか嫌な予感を覚えて私は少しだけ身を引いた。
すぐに椅子の背もたれに邪魔されてそれ以上の距離は取れなかったけど。
まさかとは思うけど、もしかして彼女は何か私の未来に関することを知っているのだろうか。
そんな現実的じゃないことを考えてしまうくらい、彼女からは言い知れぬ圧のようなものを感じる。
私はごくりと唾を飲み込んで、そっと声を落として彼女に聞いてみることにした。
「何か、心当たりでもあるの?」
「……ないこともない、かな」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私死んじゃうの!?」
「それは分からないよ。人間なんていつか死ぬものだし、それが明日なのか1年後なのか50年後なのかなんて分からないでしょ。病気で明日をも知れぬ状態なら別だけどそうじゃないんだし」
「それはそうだけど……」
だったら何でそんな思わせぶりな態度なんだと問いたい。
何か言いたげな表情は「本当に心当たりはないの?」と言っているようで、私は恐怖を感じながらそれを紛らわせるように二の腕を擦る。
思い当たること、思い当たること――
知らず知らずの内に、彼女の雰囲気に飲まれて心当たりを考える。
「じゃあ、ヒント。こないだの試験の結果」
「あ……」
言われてスーッと血の気が引いた。
そうだった、こないだの試験はヤマが外れて散々だったんだ。
「大丈夫、大丈夫」と高を括って前日も勉強せずに遊びにいったりソシャゲのイベントに夢中になって、試験直前に適当にヤマかけしてノートを復習っただけで挑んだ結果、今まで見たこともないような点数を取ってしまった。
当然親からはこっぴどく叱られてお小遣いも減らされた。
もしも次の試験でまた同じような成績を取ったら夏休みのお小遣いは完全にカットすると脅されている。
「前回に引き続き今回もあんな成績だったら、夏休みは補習必至だよね」
「う……」
「お小遣いもカットされるって言ってなかったっけ?」
「うん……」
「夏休み、みんなが遊んだり部活に打ち込む中、わざわざ登校して補習受けて。お小遣いもないからどこにも遊びに行けず。今夢中で遊んでるそのソシャゲが原因に違いないって、スマホ没収される可能性もあるよね」
「いや、さすがにそこまでは」
「スマホは没収されないまでもゲームはアンインストールしろって言われるかもしれないよね」
にこにこ笑いながら追い打ちをかけてくる友人に対し、私にできるのは唸り声を返すことくらい。
伊達に小学校の頃から私の親友をやってない。彼女はうちの親の行動パターンをとてもよく理解している。
きっとこれは杞憂ではなく、今回も同じ轍を踏んだらたぶんきっと間違いなくそういう未来が訪れるだろう。
何が悲しくてそんな灰色の夏休みを過ごしたいと思うものか。
「私、今日はあんたの勉強を見るために来たはずなんだけど?」
「はい! すみません! ごめんなさい!」
私は慌ててゲームをセーブし、そそくさとスマホの電源を落とした。
そうだった。つい、いつも遊びに来た時と同じつもりで流しちゃってたけど、今日の目的はそれだった。
遅まきながらそのことを思い出し、大いに反省の意志を示して教科書とノートをテーブルに広げる。
成績の良い彼女は学校の先生なんかよりよっぽど教え方が上手い。
彼女に教われば、いくら頭の出来がイマイチな私でも期末試験できっと平均点以上を取ることが出来るはず。
非業の死を遂げるほどではないにしろ、どこにも遊びに行かれない補習で埋め尽くされた灰色の夏休みは高校生にとって充分すぎるほどの死活問題だ。
しかもお小遣い全面カット付きだなんて笑えないにも程がある。
私は姿勢を正して頼もしい親友に教えを請い、そんな不遇な出来事を回避するべく全力で勉強を頑張ることにしたのだった。
今日のテーマ
《1年前》
1年と少し前、わたし達の関係は今とは全く違うものだった。
単なるクラスメイトというだけで、挨拶など必要最低限の言葉を交わすのみ。
好意はもちろん嫌悪するほどの関心もない。
そんな、ごく希薄な関係。
それが形を変えたのは、今からちょうど1年前のこと。
その日、わたしはたまたま出席番号で割り当てられた片づけの当番で、彼女は教科書を忘れたことによる罰として先生から理科室の片づけを命じられた。
薬品類は生徒に触れさせるわけにはいかないから、わたし達がするのは授業で使ったビーカーとかの器具を片づけることくらい。
洗って拭くところまでは各班でやって、それを棚にしまうのがその仕事だ。
本当は男女1人ずつで担当するんだけど、この日はちょうど相方の男子が欠席で、わたしは1人でやらなきゃならなかった。
たぶんそれで先生は彼女の罰をわたしの手伝いにしたんだろう。
彼女はちょっと話しかけにくいタイプの人だった。
別に性格がキツそうとか、恐いタイプというわけじゃない。
物静かではあるけど、暗いわけでもなければ、愛想が悪いわけでもない。
だけど、どことなく他の子とは雰囲気が違っていて、壁のようなものを感じてしまう。
話しかければ落ち着いた受け答えをしてくれるし、物腰は柔らかで親切でもある。
たぶん、まるで先輩を相手にしてるみたいな、そんな気後れを感じていたのだろうというのは後になって気づいたこと。
そしてそう感じているのはわたしだけじゃなくて、クラスの子がみんな、程度の大小はあれ、そんな風に感じていたんだと思う。
「なんか、ごめんね」
「何が?」
「普段なら教科書忘れただけで罰当番なんかないでしょ。あれ、たぶん今日の当番がわたし1人だったから口実にされたんだと思う」
「だとしても、あなたが謝ることじゃないでしょ」
理科は苦手だから余分な課題を出されるよりこっちの方が良かったと彼女が笑う。
普段はしっかりしていて隙がなさそうな彼女が、笑うとこんな風に可愛らしくなるのかと、わたしはなぜだかひどくドキドキした。
わたしだけが特別な秘密を知ってしまったかのような、そんな優越感が胸を擽る。
もちろんそんなはずはない。
彼女にだって親しい友達くらいいるだろうし、その子達はきっと彼女のこんな笑顔は数えきれないくらい見てるんだろうし。
でも、少なくともうちのクラスではそういう相手はいなさそうだった。
孤立しているというほどではないけど、彼女はいつも休み時間は誰かとつるむでもなくただ1人静かに本を読んでいて、気安く話しかけにくい。
学年が変わって同じクラスになってから、誰かと笑い合ってるところすら見た覚えがなかった。
わたしが彼女を特別気にしてなかったから知らないだけという可能性もあるけど。
「こっちこそ、ごめんね」
「え? 何が?」
「私、クラスでちょっと浮いてるでしょ? さっきから気を遣わせちゃってるなって」
「そんなこと、ないけど」
「無理しなくていいよ。目が泳いでる」
くすくす笑う彼女に、わたしまで何だかつられておかしくなってきてしまった。
確かに彼女の言う通り、実はちょっと緊張してた。
でも、それは彼女と話すのが嫌だったからじゃない。
話してみたら意外と話しやすそうだったから、これをきっかけに少し仲良くなれたらなと思ったから。
正直にそう言うと、彼女は朗らかに笑って頷いてくれた。
「実はね、新学期になったばかりの時にすごく好きな本のシリーズの新刊が出てて、それを読むのに夢中になってたら輪に入り損ねちゃって。人見知りもあってそのまま何となくあぶれちゃったの。ハブにされてるわけじゃないし、面倒臭いからまあいいかなと」
「え、そんな理由だったの? いつも真面目な顔で本読んでるから、なんか『孤高の人』ってタイプなのかと思ってた。面倒臭かったんだ」
「そんなんじゃないよ、ただのコミュ障」
「そんな風には見えないけどな。物静かだけど陰キャって感じとも違うし」
「猫被ってるだけだよ。こーんな大きいのだけど」
そう言って両手を大きく広げる様は、普段のイメージと全然違ってちょっと子供っぽくすらある。
そのギャップにわたしはまた笑ってしまった。
「じゃあ、わたしがクラスで第1号の友達だね。班分けとかする時はうちのグループにおいでよ」
「いいの?」
「大歓迎。うちのグループ3人でいつも1人あぶれるから一緒に組めるしちょうど良いでしょ」
仲良しの友人2人はどっちも人見知りするタイプじゃないし、2人ともどちらかと言えば穏やかな人柄だ。きっと彼女とも気が合うだろう。
そう言って誘うと、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
無理して合わせてくれてる感じじゃなくて、そのことにこっそり安堵する。
そうしてわたし達は、他人から見たら――ううん、自分で振り返ってみても、こんなごくささやかと思えるきっかけでぐんと仲良くなった。
馬が合うというのはこういうのを言うんだろう。
それから瞬く間にわたし達は急速に仲を深め、今では無二の親友、周囲から相方呼ばわりされるくらいべったりである。
美人な彼女に好意を抱く男子は少なくなくて、わたしに取り持ってくれなんて言ってくる奴もいるくらい。
でも彼女は今のところ男子との恋愛よりわたしとの友情を育む方が大事だからとにこやかにそれらをあしらってる。
特別扱いされて嬉しい反面、彼女の恋路を邪魔しちゃってるんじゃないかと心配になる気持ちもあるんだけど、それを話したら、彼女はそれはそれは良い笑顔でのたまった。
「クラスに微妙に馴染めなかった私に仲良くなりたいって言ってくれたの、すごく嬉しかった。だからね、私の一番は男子なんかには譲れないんだ」
「そっか、じゃあ仕方ないね」
へらりと笑うわたしに、友人2人がなぜか憐れみの滲む顔で肩を竦める。
何だろうかと聞こうとしたけど、ちょうど彼女から今ハマってるソシャゲの話題を振られてそっちに気を取られている内に忘れてしまった。
彼女とは趣味も合うし、話してて楽しいし気が楽だし、わたしも暫くは彼氏とかいらないかなと思う。
1年前は彼女とここまで仲良くなるなんて思ってもみなかった。
でも今は、1年後も2年後も、ううん、10年後も20年後だって、彼女とずっと友達でいたいし、隣で笑っていられたらと思う。
そう伝えたら、彼女はそれはそれは嬉しそうに笑った。
わたしの大好きなあの笑顔で。