初音くろ

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今日のテーマ
《落下》




寝入り端、急に落下するような感覚で目が覚める。
実際には布団の中で、どこかに落ちるはずも、またどこかから落ちて布団に着地したというわけでもない。
しかし、実際に落ちたわけではなくとも、その錯覚によって体は強張り、心臓はいやにバクバク鼓動の速度を上げている。
経験則から疲れている時に起こりやすいということは分かっているので、僕は意識的に体をリラックスさせるためにゆっくり深呼吸した。

「眠れないの?」
「いや、寝てたんだけど、落ちる感覚で目が覚めた」
「ああ、たまにあるよね」

隣で寝ていた妻が気づいて声をかけてきたので正直に話すと、彼女は笑いながら半身を起こした。
目が覚めた時にビクッとしてしまったからそれで起こしてしまったのかと思って謝ると、どうやら妻は布団の中で寝る前の読書をしていたらしく、気にしないでと首を振った。

「目が覚めちゃったんじゃない? 私も喉が渇いたし、何か飲む?」
「そうだな……手間じゃなければもらおうかな」
「うん。じゃあ特製ホットミルクにしようか」
「あれか。うん、久しぶりに飲みたい」

僕も起き上がり、彼女の後を追うように寝室を出てリビングに向かう。
ダイニングテーブルに着いてカウンター越しに様子を窺うと、彼女は手際良く小鍋に牛乳を注ぎ、そこに蜂蜜を加えて火にかける。
これは眠れない夜専用の特製ホットミルク。
彼女が子供の頃、夜中に目を覚ました時に母親から作ってもらったものなのだそうだ。
結婚してから僕も何度かご相伴に預かっている。
熱すぎないほどほどの温度のホットミルクに蜂蜜の優しい甘さが効いていて、飲むとほっこりした気分になって不思議とよく眠れる。

リビングの電気はつけず、キッチンライトの頼りない明かりのもと、2人で向かい合って揃いのマグカップでホットミルクを飲む。
ここのところ仕事が忙しくて、こんな風に深夜に妻と向かい合うのも久しぶりだった。
特に会話らしい会話もないけど、何ともホッとするひとときで自然と笑みが浮かんでくる。
マグカップの中身が半分ほど減った頃、階段を下りてくる微かな音が聞こえ、妻と2人で何となくそちらに視線をやった。

「あれ、2人してこんな時間にどうしたの?」
「お父さんが目が覚めちゃったからホットミルク入れてたの」
「えー! お父さんとお母さんだけずるい! 私も飲みたい!」
「じゃあお母さんの半分飲む?」
「熱い?」
「ちょうどいい感じで冷めてるから猫舌のあんたでも大丈夫でしょ」
「やった! いただきまーす」

起きてきたのは下の娘で、僕たちを見咎めるとすかさず騒ぎ出す。
途端に賑やかになったキッチンで、僕と妻は目と目を見交わしこっそり笑い合う。
2人きりの時間はあっさり終わりを告げたが、愛する妻に可愛い娘が加わったのだから僕に不満などあるはずもない。

「こんな時間まで起きてたのか?」
「うん、試験近いから勉強してた」
「嘘ばっかり。またゲームしてたんでしょ」
「ソンナコトナイヨ」
「誤魔化したって分かるんだから。昨日から始まったイベントでしょ」
「なんでバレてるかな」
「夜更かしが駄目とは言わないけど程々にな」
「はーい」

傍目にも下手すぎる誤魔化しをあっさり看破されてぶつぶつ言う娘にそっと釘を差す。
しかし言ってもあまり効果はないだろう。自分がこのくらいの年の頃には親の小言なんて右から左だったし。
妻もそれは分かっているらしく、本気で窘めている風ではない。

その後は申し訳ないが後片付けを妻に任せて先に寝室へ引き上げさせてもらう。
妻と娘はまだダイニングで何か話しているようだ。
明日のお弁当のおかずがどうとか言ってる声を背中に階段を上がる。

ベッドに入ると、ほどなく眠気が戻ってきた。
妻の特製ホットミルクのおかげで心身ともにリラックスできている。今度はぐっすり眠れそうだ。
寝入り端にたまに起こるあの落下感はどうにも厄介なもので、妻にも余分な手間をかけさせたことを悪いと思うものの、思いがけず幸せなひとときを味わえたので、今日に限っては良かったかもしれない。

眠りに落ちる直前、そういえば明日は営業で外回りの予定があったな、と思い出す。
訪問先の会社の近くに、妻の好きな洋菓子店があったことも。
時間が合えば立ち寄って、結婚前にたまにプレゼントしていたあのクッキー缶を買ってこよう。
そして子供達には内緒で「昨日はありがとう」と渡そう。
妻の笑顔を思い描き、僕は静かに目を閉じる。
今度は妙な落下感に起こされることなく、心地良い眠りへ落ちていった。





6/19/2023, 7:59:27 AM