今日のテーマ
《好きな本》
「何読んでんの?」
「漫画」
「それは見りゃ分かるって」
教室の一番後ろの席で1人黙々と漫画を読んでるやつなんか放っとけばいいのに。
そう思いながら声をかけてきたクラスメイトに愛想なく返す。
だけど彼はそれで興味を削がれることもなく、それどころか更に興味を引かれたとでもいうように身を乗り出してわたしの手元を覗き込んできた。
「ああ、『ハチクロ』か」
「え?」
お母さんの本棚から借りてきたそれはまさに彼が言い当てたタイトル、その略称だ。
一目で言い当てられたことに面食らう。
アニメ化もドラマ化も映画化もされてるとはいえ、それにしたって結構前の作品だし、そもそも絵柄からしてガチガチの少女漫画で同年代の男子が知ってるとは思えなかったから。
驚いて顔を上げると、彼はページに目を落として「その辺りの話か」なんて言いながらうんうん頷いてる。
「読んだことあるの?」
「うん、姉ちゃんが好きで全巻家にあるし、何度か読み返してる」
「そうなんだ」
「それ、おまえの?」
「ううん、お母さんの」
「ふうん。他にはどんなの読んだ? 何が好き?」
いつのまにか前の席を陣取って話しかけてくる彼に、ちょっと気圧されながらも聞かれたことに答えていく。
そうしたら、思いのほか、好きな本の傾向が似ていることが分かった。
正確には、わたしのお母さんと彼のお姉さんの読書傾向が近いのだと思う。
話しているうちに、話題は漫画から小説や音楽なんかにまで広がっていって、それを機にわたしと彼はすっかり仲良くなったのだった。
「おまえ読んでるのいつも俺の好きなのばっかだったからちゃんと話してみたかったんだよな。でも少女漫画の話なんかしたらキモいって引かれるかなって思って」
「別に引いたりしないけど。じゃあ、どうしてあの日は話しかけてきたの?」
「実は『ハチクロ』大好きなんだ」
「それは前に聞いた」
「……おまえが読んでたの、ちょうど俺の一番好きな話の辺りで、その……好きな子が俺の好きなもの読んで笑ってるの見たら、なんか、いろいろ飛んだ」
途中で少し口籠もりながら、でも後半は聞き間違えようがないくらいはっきり告げられる。
その言葉をゆっくり咀嚼して、わたしは嬉しさのあまり口元が弛んでしまうのを止められない。
「好きな本を介して好きな子とお近づきになれるかもって思ったら、そりゃ奮起するだろ。テンパって不自然にならないように俺がどんだけ緊張しながら話しかけたか分かるか?」
「わたしも、気になってる男子から好きな本を貶されたりしたらやだなって思って、だから予防線張ってたんだって言ったら笑う?」
「え、じゃあ、最初やたら素っ気なかったのって……」
お互い顔を赤くして照れ隠しのように笑い合う。
少しだけの回り道を経たけど、こうしてわたし達の関係は『趣味の合う友達』から『趣味の合う恋人』に名前を変えた。
そして、縁結びの役割を果たしてくれたあの漫画は、わたしの中で『好きな本』から『大切な思い出の大好きな本』に昇格したのだった。
今日のテーマ
《あいまいな空》
重く垂れ込める濃い灰色の空からは今にも雨粒が落ちてきそう。
でもその隙間、雲の層が薄くなっている場所からはうっすら太陽の光が見えている。
「そろそろ降ってくるかな?」
「帰るくらいまでなら持ちそうじゃない?」
空を見上げながら言い交わす。
それぞれの手にはエコバッグいっぱいの食材があり、今日は揃って傘を持ってきていない。
それというのも、朝の天気予報は晴れ予想、雨が降るとしたら夜半過ぎになるだろうというお天気キャスターの言葉を信じたがゆえ。
とはいえあくまで『予想』であって、確率が100%じゃないのは織り込み済み。
「やっぱりこの時期は折り畳みくらいは持ち歩くべきだったか」
「晴雨兼用の日傘とか?」
「じゃなきゃせめて撥水性の上着とかな」
「コンパクトに折り畳めるやつね」
そんなことを口々に言い合うけど、歩くペースはいつもと変わらず。
苦笑い混じりの口調は軽く、あくまで雑談の域を出ない。
持ち歩いた方がいいのは分かっていても、結局面倒だったり忘れたりで持ち歩かないのだ。2人とも。
「降ってきたらコンビニかどこかでビニ傘でも買う?」
「それならどこかで雨宿りの方がいいな。冷凍品もないし、要冷蔵のは保冷バッグに入れてあるし」
「まあ雨の中をこの大荷物で帰るよりその方がいいか」
「途中のカフェで期間限定の美味しそうなメニューやってるんだよね」
「そっちが本命か」
指摘すれば、バレたかと悪戯っぽく舌を出す。
その笑顔はどこか得意げでもあり、こちらもつられて笑ってしまった。
もう一度空を見上げて雲の様子を窺う。
今にも降り出しそうでもあるし、もう暫くは持ちそうでもある。
梅雨の最中のこの時期らしいあいまいな空模様は、素人目には判断が難しい。
ちらりと横目に彼女を見れば、その目はどことなくワクワクと期待を帯びていて。
「仕方ない、寄ってくか」
「やった!」
「帰るまでに降ってきたら荷物抱えてダッシュだからな」
「そこは止むまで粘ろうよ」
「それは雨次第だな。何時間も止まなそうなら諦めて濡れて帰るぞ」
「うーん、その場合はしょうがないか」
どちらともなく早足になるのは雨を避けるためか、それともカフェのメニューに引かれてか。
予報通りとはいかないまでも、せめて家に帰るまでは、或いは降るなら店にいる間に止んでくれよ。
荷物を抱え直しながら、どんより曇るあいまいな空を見上げてそう天に祈るのだった。
今日のテーマ
《あじさい》
梅雨も本番を迎え、雨の日も多くなってきている。
通学路の途中にある寺では、今年も見事な紫陽花がこの鬱陶しい季節に鮮やかな彩りを加えている。
青や紫、ピンクなど場所によって違う色の花を咲かせているのは、ここの住職が凝り性で土壌の成分を区画ごとに変えているからだという。
そんな話をしながらも、目はしっかり紫陽花に注がれている。
どうやら彼女はこの花が相当お気に入りのようで、花を眺める眼差しはいつになく和やかだ。
「紫陽花、好きなんだ?」
「うん、大好き」
「でもたしか、毒があるんじゃなかったっけ?」
「そうなの?」
「よく知らないけど、何かでそんな話を見た覚えがある」
「ふうん。そういえばスズランにも毒があるんじゃなかったっけ。可愛い花には毒があるんだねえ」
「それを言うなら『綺麗な花には棘がある』だろ」
納得顔でうんうん頷くのに突っ込めば、彼女は照れ隠しのように笑う。
そんな風に茶化した雰囲気も可愛く思えてしまうのは惚れた欲目なのだろうか。
紫陽花の花を背景に笑顔で佇む姿はこっそり写真を撮って待ち受けにしたいくらいだ。
「でも、紫陽花、美味しそうだよねえ」
「食うなよ?」
「花そのものは食べないよ」
「葉っぱも食うなよ」
「食べないったら! そうじゃなくて、この時期になると、和菓子屋さんに紫陽花のお菓子が並んでるんだよね。上生菓子って言うんだっけ、ちょっと良いお菓子。お店によって練りきりのだったり寒天のだったりするんだけど、どれも美味しくて大好きで。毎年ここの紫陽花を見る度に食べたくなるんだ」
そんな説明をしながら紫陽花を眺める眼差しや表情は、言われてみれば花を愛でるというより美味しいものを前にした時のそれで。
いかにも甘いものに目がない彼女らしいと、思わず笑いが込み上げてしまう。
「色気より食い気かって言いたいんでしょ」
「そういうところも可愛いなと思っただけ」
「食い気だけじゃなくて、紫陽花が好きなのは本当だもん」
ぷくっと頬を膨らませて彼女が言う。
上目遣いでそんな顔をされても可愛いだけなのだが、今それを言ったら拗ねさせてしまうかもしれない。
空気を読んでそれ以上の軽口を控えた俺に満足したのか、彼女は再び紫陽花を眺めて微笑んだ。
「紫陽花の花言葉っていうと『移り気』とか『浮気』とかが有名なんだけどね、花言葉も本当は花の色によっていろいろ種類があるんだよ」
「そうなんだ?」
「うん。昔ね、お父さんがお母さんに白い紫陽花をプレゼントしたんだって。お母さんは最初悪い意味の花言葉を思い浮かべて、でもお父さんは男の人だからそういうの知らないでくれたんだろうなって思ってたんだって」
花言葉か。
薔薇の花言葉が『愛してる』だという程度の知識くらいはあるけど、確かにあまり意識したことはない。
話を聞きながら、もし自分が贈るような時にはそういうのもちゃんと注意しようとしっかり心に書き留める。
彼女の父親も似たようなものだったんだろうと、内心で共感すら覚えた。
「でもね、後になって調べたら、白い紫陽花の花言葉は『一途な愛情』で。お母さんがまさかと思ってお父さんに聞いたら、真っ赤になって知らなかったってとぼけたんだって。でもその顔で嘘ついてるのはバレバレでしょ。お母さんも照れくさくなっちゃって追及はできなかったらしいんだけど、それ以来お母さんが一番好きなのは紫陽花になったんだって」
微笑ましそうに、そしてどこか羨ましそうに彼女が話す。
きっと彼女の両親は普段からとても仲睦まじいんだろう。
娘に堂々と惚気る母親も母親なら、そのエピソードをニコニコしながら恋人に話す娘も娘だ。
まさにこの親にしてこの子あり。
でも、そんな夫婦に憧れるのも事実で。
「ほら、そろそろ行くぞ。あんまり道草食ってると課題やる時間がなくなるだろ」
「ほんとだ。図書館の自習室、まだ席空いてるかな」
話を切り上げるよう促して再び並んで歩き出す。
話題は自然に課題の内容などに移り、彼女はもうすっかり紫陽花のことも和菓子のことも頭から抜けてしまっているようだとホッとする。
たしか図書館の近くには少し大きめの和菓子屋があった。
彼女の両親の話にあやかって、途中で抜け出してこっそりダッシュでその紫陽花の和菓子とやらを買ってこよう。
白い紫陽花を贈るのはすぐには無理だけど、和菓子くらいならプレゼントできる。
口実は、苦手な科目の課題を頑張る可愛い彼女へのご褒美として。
そしてそれを受け取った時に見せてくれるであろう彼女の笑顔は俺自身へのご褒美に。
放課後のこの時間だから残っているかは定かではないが、どうか残っててくれますようにと密かに祈る俺なのだった。
今日のテーマ
《好き嫌い》
「うわ、お兄ちゃんがピーマン食べてる……」
兄のピーマン嫌いは筋金入りで、母がどんなに細かく切り刻んでも見つけ出しては避けていたほど。
私も小さい頃はあの苦味が嫌いだった。
だけど中学の頃には克服したし、高校の頃には他の食材と同様に食べられていた。
それに対して兄はと言えば、慣れるどころか頑ななまでにピーマンを避け続け、母も遂に兄の皿にはピーマンを避けてよそうようになったほど。
その兄が、細かくして見た目が分からなくなっているならまだしも、明らかにその形状を残しているピーマンの肉詰めを美味しそうに食べているのだから、私達家族の驚きといったらない。
「別に、このくらいどうってことないだろ」
「いやいや、どうってことあるでしょ。あのお兄ちゃんがピーマン食べる日が来るなんて」
「ハンバーグに混ぜ込まれた緑色の小さな粒を血眼になって避けてたあの兄貴が……」
「あんたもこの年になってやっと好き嫌い克服できたのねえ」
私はもちろん、弟も母も驚きと感慨に耽り、恐らくそれを克服させたであろう女性――兄嫁に尊敬の眼差しを向けた。
照れているのか、当の兄はふて腐れた顔で2つ目の肉詰めを口に放り込んで黙秘を決め込んでいる。
一方、義姉はそれほどまでとは思っていなかったのか、私達家族の反応に目を丸くするばかり。
「あまり好きじゃないって言ってたから、最初は苦味の少ない品種を探して試してたんですけど、それでも最初から食べてくれてたから、まさかそんなに苦手だったなんて知りませんでした」
「いや、兄貴のあれは苦手とかいうレベルじゃなかったから。憎しみすら感じるくらいの嫌いっぷりだったから」
「青椒肉絲の日は、この子の分だけ別のおかずを用意したりしてたのよ」
「お兄ちゃん、そんないじらしいところもあったんだね」
義姉と兄の馴れ初めは、兄の猛烈なアプローチによるものだったという。
彼女の容姿に一目惚れし、友達として少しずつ距離を縮めていく中でその人柄に惚れ込んで、長年口説き続けてやっと頷いてもらえたのだと、そんな話は兄の友人から聞いていた。
てっきり少し大袈裟に盛られた話だろうと思っていたのだが、あの兄がピーマンを我慢するほどということでその本気度が窺える。
「別に……嫌いって先入観で避けてただけで、食ってみたらそこまで不味いものじゃないって分かったからで」
「やめておけ、下手に誤魔化すと傷が広がるぞ」
「そうよ、お父さんの言う通り。経験者の言葉は重みが違うわね」
それまで黙っていた父が助け船を出すかのように兄に言うが、それを母が笑顔で追い打ちをかけて台無しにする。
義姉はそんな両親の言葉にくすくす笑って兄に優しい眼差しを送る。
独り者の私と弟は何となく居たたまれない気分になりながら、義姉の作ってくれたピーマンの肉詰めに箸をつけた。
ピーマン自体にも味がつけてあるらしく、確かに苦味はだいぶ軽減されている。これなら苦手な人でも食べやすいかもしれない。
「たしかに凄く美味いけど、あの兄貴だよ? ベタ惚れの彼女さんの手料理じゃなきゃ絶対食わなかったよな」
「それはそう」
こっそり耳打ちしてくる弟に、私も密かに、だが大いに頷いた。
恋に溺れると味覚も超越するんだなあ、なんて笑ってるけど、これは弟もきっと他人事じゃない。
さっきの話の様子じゃ父もそうだったみたいだし、我が家の男共はみんな揃って単純だ。
「あんたの人参嫌いも、彼女ができたら克服できるかもね」
「俺のは兄貴ほど筋金入りじゃねーし。一応食えるし」
「まあね、お兄ちゃんみたいに執念で避けたりはしないよね。噛まないで飲み込むけど」
肘でつつくと苦虫を噛み潰したような顔をする。
そういう反応はまだまだ子供っぽさが抜けないが、そんな弟にも少し前に気になる相手ができたらしい。
その相手は私の友達で、彼女は義姉に負けず劣らずの料理上手だ。
彼女も満更でもなさそうで、私は密かに2人がうまくいくよう応援している。
いつか彼女の手料理で弟が人参嫌いを克服する日がくるんだろうか。
そんな未来を思い描き、私はにんまり笑ってピーマンの肉詰めに再び手を伸ばしたのだった。
今日のテーマ
《街》
夕暮れ時。
だんだんと空が暗さを増していき、ぽつぽつと街に明かりが灯り出す。
空を見れば、たなびく雲が残照を受けて見事なグラデーションを描いている。
夕方と夜の境界のようなこの時間、観覧車から見るその景色は、見慣れたものであるはずなのに、まるで奇跡のように美しく思えた。
それはきっと隣に彼女がいるから。
初めてのデートにしては出来すぎなシチュエーションと言えるだろう。
揺れるゴンドラの中、言葉もなく、ただ手を繋いでその景色を眺める。
いや、僕は景色を見るのと同じくらい、チラチラと隣の彼女の横顔を盗み見ていた。
時々目が合うのは、彼女もまた僕のことをチラチラと窺ってきているから。
『夕陽に照らされた街を見下ろす観覧車でキスをしてみたい』
漫画か小説か、それともドラマや映画の類か。
詳しく聞いてはいないが、とにかく何らかの影響を受けてのことなのだろう。
まだお互いに恋愛感情なんて欠片もないただの友達だった頃、そんな憧れを彼女が口にしていた。
律儀に覚えていたのは、そのシチュエーションが叶いそうな場所が身近にあって想像しやすかったから。
だから、彼女とつきあうことになって、初デートの締めくくりは絶対にここにすると決めていた。
ゆっくりと上がっていく小さな密室がその頂点に達した時、僕は体の向きを変え、繋いでない方の手でそっと彼女の肩を引き寄せた。
彼女もまた期待に潤んだ目を伏せて、僕に身を委ねてくれる。
そして、僕らは生まれ育った街と夕陽を背景に、ドキドキしながら初めてのキスを交わした。
緊張しすぎて現実感さえも朧気で、とても彼女の唇の柔らかさを味わうどころではなかった。
全力疾走した時みたいな胸の鼓動と息苦しさ、繋いだ手のしっとりした感触、そしてふわりと鼻を擽った制汗剤の香りだけが鮮烈な印象を残していて。
唇を離したそばからもう一度、いや、もう何度でもキスを繰り返したくなったけど、あんまりがっついたら引かれてしまうかもしれないと、名残惜しさを全力で捩じ伏せ、せめてもと絡めた指に力を込める。
恐る恐る彼女を見ると、頬を真っ赤に染めながら恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに微笑んでいた。
「覚えててくれたの?」
「う、うん」
「ここに誘ってくれた時、もしかしてそうかなってちょっと期待してたんだ」
「うん……」
「すごく、すごく嬉しい。ありがとう。大好き」
はにかみながらそう言って彼女はぎゅっと腕に抱き着いてくる。
そんな風に可愛さを爆発させる彼女とは裏腹に、僕はただ「うん」しか言えず、落ち着かない気分で近づいてくる街並みに視線を逸らすしかできない。
何か気の利いたことを言えればいいのに、腕から伝柔らかさと柔らかさと体温ばかりに意識が向いてしまっていて、何も考えられないのだからどうしようもない。
「でも、正直言うとちょっとだけ残念なことがあってね」
「!?」
何か失敗してしまっただろうか?
キスが下手だった?
ガチガチに緊張してたのがバレバレで興醒めされた?
まさか臭かったとかそういうことはないよな!?
血の気を引かせて頭の中で思いつくまま理由をあれこれ考えていると、彼女がより密着して僕の肩に頭を預けてきた。
見下ろした顔には、恐れていた嫌悪のようなものはない。
それどころか逆にどこか不安そうな雰囲気さえしていて。
それを不思議に思いながらも勇気を振り絞って「残念なことって?」と先を促すと。
「嬉しすぎたのと緊張しすぎたのとで、せっかくキスしてもらったのに、何だかあっというまに終わっちゃった感じで……」
彼女は恥じ入るように俯きながらそう言った。
緊張して、何が何だか分からなくなっていたのは僕だけじゃなかった。
彼女もまた、同じように現実感をなくしていたのだ。
そのことに安堵して、僕はようやく強張っていた全身から力を抜いた。
小さな密室が地上に着くまであと少し。
さすがにここでもう一度チャレンジするのは係の人から見られてしまうから無理だけど。
帰り道のどこかのタイミングで、もう一度彼女にキスしようと心に決める。
初デートの記憶に残る場所は他にどこかあっただろうか。
生まれ育った街なのだから、記憶を辿ればひとつやふたつは相応しい場所くらい思いつくだろう。
目まぐるしく頭の中に地図を浮かべながら、僕は繋いでた手をほどき、ひとまず彼女の指先に恭しくキスをしてみせた。
セカンドキスではみっともなくテンパったりしないよう、予行演習を兼ねて。