初音くろ

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今日のテーマ
《街》





夕暮れ時。
だんだんと空が暗さを増していき、ぽつぽつと街に明かりが灯り出す。
空を見れば、たなびく雲が残照を受けて見事なグラデーションを描いている。
夕方と夜の境界のようなこの時間、観覧車から見るその景色は、見慣れたものであるはずなのに、まるで奇跡のように美しく思えた。
それはきっと隣に彼女がいるから。
初めてのデートにしては出来すぎなシチュエーションと言えるだろう。

揺れるゴンドラの中、言葉もなく、ただ手を繋いでその景色を眺める。
いや、僕は景色を見るのと同じくらい、チラチラと隣の彼女の横顔を盗み見ていた。
時々目が合うのは、彼女もまた僕のことをチラチラと窺ってきているから。

『夕陽に照らされた街を見下ろす観覧車でキスをしてみたい』

漫画か小説か、それともドラマや映画の類か。
詳しく聞いてはいないが、とにかく何らかの影響を受けてのことなのだろう。
まだお互いに恋愛感情なんて欠片もないただの友達だった頃、そんな憧れを彼女が口にしていた。
律儀に覚えていたのは、そのシチュエーションが叶いそうな場所が身近にあって想像しやすかったから。
だから、彼女とつきあうことになって、初デートの締めくくりは絶対にここにすると決めていた。

ゆっくりと上がっていく小さな密室がその頂点に達した時、僕は体の向きを変え、繋いでない方の手でそっと彼女の肩を引き寄せた。
彼女もまた期待に潤んだ目を伏せて、僕に身を委ねてくれる。
そして、僕らは生まれ育った街と夕陽を背景に、ドキドキしながら初めてのキスを交わした。
緊張しすぎて現実感さえも朧気で、とても彼女の唇の柔らかさを味わうどころではなかった。
全力疾走した時みたいな胸の鼓動と息苦しさ、繋いだ手のしっとりした感触、そしてふわりと鼻を擽った制汗剤の香りだけが鮮烈な印象を残していて。

唇を離したそばからもう一度、いや、もう何度でもキスを繰り返したくなったけど、あんまりがっついたら引かれてしまうかもしれないと、名残惜しさを全力で捩じ伏せ、せめてもと絡めた指に力を込める。
恐る恐る彼女を見ると、頬を真っ赤に染めながら恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに微笑んでいた。

「覚えててくれたの?」
「う、うん」
「ここに誘ってくれた時、もしかしてそうかなってちょっと期待してたんだ」
「うん……」
「すごく、すごく嬉しい。ありがとう。大好き」

はにかみながらそう言って彼女はぎゅっと腕に抱き着いてくる。
そんな風に可愛さを爆発させる彼女とは裏腹に、僕はただ「うん」しか言えず、落ち着かない気分で近づいてくる街並みに視線を逸らすしかできない。
何か気の利いたことを言えればいいのに、腕から伝柔らかさと柔らかさと体温ばかりに意識が向いてしまっていて、何も考えられないのだからどうしようもない。

「でも、正直言うとちょっとだけ残念なことがあってね」
「!?」

何か失敗してしまっただろうか?
キスが下手だった?
ガチガチに緊張してたのがバレバレで興醒めされた?
まさか臭かったとかそういうことはないよな!?

血の気を引かせて頭の中で思いつくまま理由をあれこれ考えていると、彼女がより密着して僕の肩に頭を預けてきた。
見下ろした顔には、恐れていた嫌悪のようなものはない。
それどころか逆にどこか不安そうな雰囲気さえしていて。
それを不思議に思いながらも勇気を振り絞って「残念なことって?」と先を促すと。

「嬉しすぎたのと緊張しすぎたのとで、せっかくキスしてもらったのに、何だかあっというまに終わっちゃった感じで……」

彼女は恥じ入るように俯きながらそう言った。
緊張して、何が何だか分からなくなっていたのは僕だけじゃなかった。
彼女もまた、同じように現実感をなくしていたのだ。
そのことに安堵して、僕はようやく強張っていた全身から力を抜いた。

小さな密室が地上に着くまであと少し。
さすがにここでもう一度チャレンジするのは係の人から見られてしまうから無理だけど。
帰り道のどこかのタイミングで、もう一度彼女にキスしようと心に決める。
初デートの記憶に残る場所は他にどこかあっただろうか。
生まれ育った街なのだから、記憶を辿ればひとつやふたつは相応しい場所くらい思いつくだろう。
目まぐるしく頭の中に地図を浮かべながら、僕は繋いでた手をほどき、ひとまず彼女の指先に恭しくキスをしてみせた。
セカンドキスではみっともなくテンパったりしないよう、予行演習を兼ねて。





6/11/2023, 2:15:31 PM