今日のテーマ
《天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、》
彼女が学校を休んだ。
自他共に認める健康優良児の彼女が。
家が近いからという理由で先生からプリントを預かり、学校帰りにそのまま彼女の家に寄る。
インターフォンを押して出迎えてくれたおばさんはにこにこしながらお礼を言って、顔を見ていくかと聞いてくれた。
具合が悪そうならすぐに帰ろうと思いながら階段を上がる。
ドアをノックすると中から掠れた声で応えがあった。
「あれ? 学校は?」
「もう終わった。プリント届けに来た」
「宿題いっぱい出た?」
「今日は国語の朗読と算数のプリントだけ。でも具合悪いならやって来なくてもいいって」
「やった、ラッキー」
カーテンの引かれた部屋は薄暗い。
パジャマ姿でベッドに横になってる彼女はいつもと違って元気がない。
学校を休むくらい具合が悪くて寝込んでいるんだから当たり前だ。
それなのに、いつもと同じように元気なふりをしようとする。
「あのさ」
「外、雨降ってる?」
「……5時間目までは降ってたけど今は止んでる」
「そっか、帰りに降られなくてラッキーだったね」
「それはそうなんだけど、それより、昨日――」
「天気予報だと暫く晴れないんだっけ? ジメジメして嫌だよね」
こっちを見ることなく天井を見上げたまま、掠れた声でつらつら話す。
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、そんなことじゃない。
そして、彼女は僕が何を言いたいか分かっててはぐらかしてる。
目を合わせることもなく。
具合が悪いことをひた隠して。
「ごめん」
「別に謝られるようなことじゃないじゃん」
「だって、僕が川で遊ぼうって言ったから」
「乗ったのは私だし、危ないよって言うの無視して深いとこまで行っちゃったのも私だし、あんた全然悪くないじゃん」
「でも、僕が――」
「あんたは悪くないの! 川遊びは私もしたかったからだし、私が転けてずぶ濡れになったのは私の不注意であんたのせいじゃないでしょ」
だから気にしないでよ、と苦笑いする。
熱で潤んだ目が。真っ赤な顔が。掠れた声が。
彼女の不調の全てがつらそうで、苦しそうで、見ていられない。
それなのに、そんな彼女を見てドキドキしてしまうなんて、僕はなんてひどいやつなんだろう。
「僕が、ちゃんと支えてあげられてたら……」
「そしたらあんたも一緒にずぶ濡れだったよね。ていうか、引っ張り起こしてくれる時にあんたも結構濡れてたよね。あんたは風邪引かなかった? 大丈夫?」
「そんな具合悪そうなのにこっちの心配までしないでよ。大丈夫、僕は元気だから」
「でも、なんか顔赤くない?」
「気のせい! この部屋ちょっと暑いし、走ってきたからそれで!」
「それならいいけど。でも、あんたは元気で良かった。うつらないように帰ったらちゃんと手洗いとうがいちゃんとしてね」
「分かってるよ」
指摘されて、ますます頬が熱くなったけど、僕はそれを誤魔化すようにちょっとだけぶっきらぼうに答えた。
言われるまでもない。
これで僕が風邪引いたりしたら、絶対彼女は自分がうつしたせいだと思って落ち込む。
そっと手を伸ばして、汗で額に張りついた前髪をよけてあげる。
ほんのちょっと触れただけでも、彼女の熱が高いことが分かる。
これ以上無理させない内に帰るべきだろう。
なのに。そう思って立ち上がろうとしたのに。
「あんたの指、冷たくて気持ちいい」
なんて、本当に気持ち良さそうな顔をするものだから、僕はすっかり「帰る」と言い出せなくなってしまった。
手のひらをそのまま額にぺたりと付けてやると、彼女はうっとり目を細める。
まるで喉を撫でられた猫みたいに。
「ごめんね。うつしちゃったらいけないから、もう帰ってって言わなきゃなんだけど、もうちょっとだけ、いて」
「うん」
「ほっぺもちょっとだけいい?」
珍しく甘えるみたいに言うものだから、僕は嬉しくなって、まだ冷たい反対の手で頬を冷やしてあげる。
きっと普段元気な分、具合悪いのがつらくて、部屋で寝てるのが心細いんだろうなっていうのが分かるから。
何だかとってもいけないことをしてるような気分になるけど、大好きな彼女のために僕ができることなら何だってしてあげたい。
「ごめんね、もうちょっとだけ……」
「謝らないでよ。大丈夫。そばにいるから」
僕の手の冷たさがよほど気持ちよかったのか、彼女は安心したように笑って目を閉じた。
それから暫くして静かな寝息が聞こえてくる。
いつのまにか、僕のシャツの裾をしっかり握りしめたまま。
それから僕は、おばさんが様子を見に来てくれるまで、何だかものすごく居たたまれない気分のまま、彼女の寝顔を見つめ続けることとなった。
今日のテーマ
《ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。》
見慣れた街並みは、だけどいつもと違って人の姿は全くない。
薄暗い住宅街を、どこへともなく、ただ必死に走る私。
まるで何かから逃げるように。
いや、まるでではなく逃げているのだ。何か分からない恐ろしいものから。
時折速度を緩めて振り返り、追っ手の姿がないことに安堵して、でも感じる気配からは確実に距離を詰められているのが伝わってきて、だから無我夢中でひた走る。
逃げても逃げても振り切れない。
焦燥に駆られて泣きたくなるけど、今は泣いてる場合じゃない。
懸命に走り続けていると、いつのまにか景色は駅前の通りになっていた。
この並木道を抜ければ、その先に大きな公園がある。そこまで辿り着ければ逃げ切れる。
なぜかそんな確信を得て、私は気力を振り絞り、縺れそうになる足を叱咤しながらがむしゃらに足を動かした。
もう少しで追いつかれる。気配はもう真後ろまで迫っている。
絶望に苛まれたその時、行く手に目映い光が見えた。
「って感じの夢を見るの。毎晩」
「お疲れ様」
カフェラテのカップを手の中で揺らしながらため息を吐く私に、目の前の友人は労いの言葉をかけて頭を撫でてくれた。
件の夢のせいでここのところ寝不足気味だ。
睡眠時間だけならいつもと同じくらいだけど、起きた時の疲労感がすごくて全然寝た気がしない。
「何かに追いかけられる夢はプレッシャーや不安が強い時に見るっていうけど」
「……」
「その顔だと心当たりはありそうだね」
プレッシャーじゃないけど、不安ならある。
年度が変わってから、恋人からの連絡が激減した。
新しいプロジェクトに加わることになったって言ってたから、忙しくてそれどころじゃないのだろうと思ってた。
会えないのも話せないのも寂しいし、体調崩したりしてないか、疲れてないかという心配もあったけど、邪魔をしたくなくてこっちからの連絡も控えてた。
でも、先週の休みに見てしまったのだ――彼が綺麗な女の人と楽しげに歩いてる姿を。
不安があんな夢を見せるというなら、夢の中で私を追い詰める『何か』は彼との別れを示唆しているんだろうか。
夢の中の私は、別れを告げられるのが怖くて、そこから目を背けて逃げているんだろうか。
浮かない表情から何かを察したのだろう。
友人が宥めるようにポンポンと優しく腕に触れてくれる。
ブラウスの薄い布越しに伝わる手のひらの温度が、沈んで冷えた心を少しだけ温めてくれた。
「愚痴でも何でも聞くし、ストレス発散ならつきあうよ」
「ありがとう」
「じゃ、今日は帰りに一緒にご飯食べて帰ろうか。飲みでもカラオケでもつきあうよ」
「そういえば駅前に新しいお店が――」
話してるタイミングでテーブルの上のスマホが震えた。
画面にポップアップで表示された新着メッセージには彼の名前。
ちょっとごめん、と断ってアプリのトーク画面を開く。
『今日、仕事終わってから会える?』
『大事な話があるんだ』
楽しいことに切り替えかけた気分が、まるで氷水を浴びせられたように萎んでいく。
脳裏に浮かぶのは他の女の人と楽しそうに歩いてた彼の姿。
このタイミングで『大事な話』だなんて別れ話の予感しかしない。
「大丈夫?」
「うん……」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど」
「大丈夫じゃないかもしれないけど大丈夫。ごめん、今日の帰り、用事できちゃった」
繕い切れてない表情から、何某か察したんだろう。
友人は心配そうな顔でもう一度私の頭を優しく撫でてくれた。
「何かあったら話聞くから連絡して」
「うん、その時は聞いて」
こんな風に毎日悪夢に魘されて心を擦り減らすくらいなら、きちんと向き合った方がいい。
たとえ恋が終わっても世界が終わるわけじゃない。
逃げ出したくなる気持ちを無理矢理奮い立たせて、私は彼に了承のメッセージを送った。
仕事を終えて待ち合わせ場所に着くと、先に来ていた彼はやけに神妙な顔をしていた。
やっぱり別れ話をするつもりなんだろう。
こんな風に待ち合わせるのもこれで最後かと感慨深く思いながら声をかける。
彼は僅かに緊張を滲ませながらも、いつもとあまり変わらぬ笑顔で接してきた。
とりあえず先に食事をしようと言われ、昼間友人と行こうと話していた店に連れて行かれた。
小洒落た雰囲気のダイニングバーは料理もお酒も豊富で、週末ということもあってほぼ満席。
だけど彼は事前に予約をしておいたらしく、奥まった場所の角席へ案内される。
せっかくいい感じのお店なのに、別れ話の記憶が邪魔して来られなくなるのは残念だ。
いっそのこと、来週にでも友人とまた来て嫌な記憶を上書きしてもいいかもしれない。
正直なところを言えば、彼のことはまだ好きだし、別れたいとは思ってない。
泣いて縋って取り戻せるくらいならそうしたいとも思う。
はっきりそういう話をしたわけじゃないけど、ゆくゆくは結婚できたらと、そんなことまで考えてたんだから。
でも、もし彼に他に好きな人ができたなら、私がどんなに未練を抱えていても、このままつきあい続けることはできないだろう。
せめてこの場はみっともなく取り乱したりしないようにしたい。
終わったら、友人のところに駆け込んで、ヤケ酒につきあってもらって、思いきり慰めてもらおう。
それだけを支えに、覚悟を決めてこの場に臨んでいる。
食事の間の会話は互いの近況を語る和やかなものだった。
掛かりきりだったプロジェクトは順調でようやく軌道に乗ったらしい。
私も他愛ない日常の話をぽつりぽつりと差し挟む。
悪夢のせいでここのところ眠りが浅く、疲れが顔に出てしまっていたが、退勤前にメイクでしっかり誤魔化してきたのですぐに気づかれることはないだろう。
食事を終え、その場で切り出されるのかと思いきや、彼は「少し歩こう」と言って先に立って歩き始めた。
駅前通りの遊歩道を、肩を並べてそぞろ歩く。
前にこうして歩いたのはもう2ヶ月ほど前。その頃は桜が散りかけで、雪のように降る花片が幻想的で綺麗だった。
幸せな記憶が蘇り、胸を切なく疼かせる。
程なく並木道を抜け、公園に――あの、悪夢のゴール地点とも呼ぶべき公園に辿り着いた。
夢では、ここに駆け込めれば逃げ果せた。
だけど現実は、この公園こそが私を地獄に落とす終着点であるらしい。
ジョギングコースや噴水を擁する公園には、この時間でもまだ人の姿がちらほらある。
彼は迷うことなく噴水のある方へ足を進め、やがて空いているベンチに腰を下ろした。
隣に座って横顔を盗み見ると、予想通り、どこか強張った顔をしている。
膝の上で握り締められた手は彼の緊張を窺わせ、そんな場合でもないのに「大丈夫だよ」と励ましてあげたくなってしまう。
大丈夫。
私の気持ち的には全然大丈夫じゃないけど、それでも取り乱して困らせることはしないから。
だから、そんな悲壮な覚悟を決めなくても平気だよ。
ちゃんと、できる限り、綺麗にさよならしてあげるから。
口には出せないけど、心の中でエールを送る。
たぶん彼に対する最後のエール。
仕事で行き詰まった時、取引先の人と揉めた時、落ち込んだ彼をそうやって慰めて、或いは励ましてきた。
これからはもう、それは私の役目じゃなくなるのか。
そんな風にしんみり浸っていたら、突然彼が私の手を取り名前を呼んだ。
いつになく真剣な顔に、胸が針で刺されたようにじくじく痛む。
意を決したその眼差しに私も覚悟を決めてごくりと唾を飲み込んだ。
「俺と、結婚してくれ」
「分かっ――え? 結婚?」
別れてくれと言われるとばかり思っていたのに、全く逆の言葉を食らって、私は口をパクパクさせながら息をするのも忘れてただただ彼を凝視する。
聞き違いだろうか。
それとも私の願望がそんな幻聴をもたらしたのか。
「このプロジェクトが完全に軌道に乗ったら昇進することが決まってて。今週やっと目処が立ったんだ。もうすぐおまえの誕生日だろ? それまでにプロポーズして、プレゼントと一緒に指輪を贈りたくて、それで……」
「ちょっと待って。じゃあ、先週末、一緒に歩いてた女の人は?」
「先週末? ああ、最終ミーティングで休日出勤してたな。その日に一緒に歩いてたっていうと、たぶん社の先輩。昼飯の買い出しに行った時かな? まさかそれ見て変な誤解したとか言うなよ? 言っとくけど、あの人、既婚者だからな」
情報量が多くて頭の中はプチパニックを起こしてる。
でも、これはもしかして。
「今日の大事な話って、別れ話じゃなかったの?」
「は!? 勘弁してくれ! 一世一代の覚悟でプロポーズしたのに、なんで別れ話と勘違いされてんだよ!」
頭を抱える彼を慌てて宥めて謝罪して。
ずっと張り詰めてた気持ちが不意に緩んで、私の目から涙がポロポロこぼれ落ちた。
覚悟していた悲しい涙じゃなく、これは正真正銘うれし涙。
私の濡れた頬を彼の指先が優しく拭ってくれる。
夢で見た通り、この公園は悪夢から逃げ果せるゴール地点だったらしい。
ずっと私を追い詰めてた不安はもうすっかり消え去ったのだから。
今日のテーマ
《ごめんね》
普段は温厚で滅多に怒らない人が怒ると途轍もなく怖い。
私の場合、その対象は隣に住む幼馴染みである。
私の意地っ張りも強がりも全て理解した上で、大抵のことは「しょうがないな」と苦笑いで許容してくれる。
クラスでは密かに『菩薩』なんて渾名もついているくらい。
誰にでも親切で優しいから当然ながら男女問わず大人気だ。
そんな彼と幼馴染み特権で特に仲の良くしている私は、時々やっかみの対象となる。
日直の日誌を提出して教室に戻る途中、廊下で隣のクラスの女子に数人に囲まれてる今みたいに。
「あんたさ、いっつも彼にべったりくっついてるけどウザがられてるの分かんないの?」
「優しいから突き放せないだけで内心きっと迷惑だって思ってるよ」
「ていうかさ、中学にもなって幼馴染みとか言って距離感バグってるのヤバくない?」
すごい、まるで漫画や小説の世界だ。
こんなこと現実にもあるんだね。
文句の内容までテンプレなの、逆にすごくない?
それなりに人気があるのは知ってたけど、これほどとは思わなかったな。
頭の中でそんなツッコミを入れてるのは、別に余裕があるわけじゃない。
いきなり暴力振るわれるとかはないと思うけど、だとしてもこんな風に不意打ちで複数人に囲まれたら普通に怖い。
数の利もあって彼女達は気が大きくなっていて、私が反論しないのをいいことにその勢いは段々エスカレートしてきてるし。
だけどここであからさまに怯んで見せたら相手の思うつぼ。
私にできるのは、先生が偶然通りかかってくれないかなと祈ることくらいだ。
言わせてもらえば私から彼にべたべたくっついてるわけじゃない。
物心ついたころから世話焼きしてる延長線か、はたまたお母さんから宜しく頼まれてるからという使命感か、とにかく向こうは私を庇護対象か何かだと思ってるようで、頼むまでもなく寄ってくるのだ。
その甲斐甲斐しい様子を毎日眺めてるクラスメイト達からは、彼は私の「おかん」として認識されているほど。
だから、たぶん彼女達が考えてるのと現実とでは関係性が微妙に違うんだけどな。
彼にしてみれば、私は同い年ではあるけど妹みたいなものなんだろう。
分かっていて、それでも自分から距離を取らないで構われるのに任せているのだから、彼女達の言い分ももっともかもしれない。
彼に特別な相手ができるまでは――そう思いながら、いじましく幼馴染みとして一番近い場所をキープしてるわけだし。
そう考えれば、やっぱり私は彼女達からのやっかみを気の済むまで甘んじて受けるべきなのだろうかとも思えてくる。
私のせいで彼の出会いを妨げてしまってる可能性だってあるんだから。
聞いてるふりをしながら適当に聞き流している内に、彼女達の文句は暴言に近いものになってきている。
私の反応があまりに薄いせいで苛立ちが余計に増してしまっているのだろう。
だからといって下手に口答えなんかしたら手が出る可能性もある。いや、放っておいてもそろそろ出そう。
「カノジョ面してウロチョロしてんのマジでウザいんだけど」
「黙ってないで何とか言えよ!」
「痛っ」
「何してるの?」
彼女達の内の1人が怒りに任せて私の肩を強く掴んだその時、まるで見計らったかのようなタイミングで声がかかる。
それは聞き違えようのない、彼のもので。
声のした方に目を向ければ、いつもの笑顔を引っ込めてこちらに駆け寄ってくる彼の姿があった。
彼女達は慌てた様子で私から距離を取り、気まずそうにどう誤魔化そうかというようにお互い目配せをしている。
「イジメの現行犯かな」
「イジメだなんてそんな……違うよ、ちょっとした口喧嘩っていうか」
「そうそう、ちょっと話してただけで……」
「カノジョ面してどうのこうの言ってたよね」
「えっと、それは……」
「俺からすると、友達に因縁つけられる方がマジでウザいし迷惑なんだけど」
ああ、これは怒ってる。途轍もなく怒ってる。
『普段怒らない人ほど怒ると怖い』の典型で、彼の静かな怒りは人の肝を冷やさせる。
私が怒られてるわけでもないのに、こっちまでその怒りに中てられて怖くなってきてしまう。
ぶっちゃけ彼女達に囲まれてた時より数段恐怖を感じてる。
そしてその怒りを正面から向けられた彼女達は完全に顔色を失ってしまっている。
「大勢で取り囲んで、俺が声かけなかったらそのまま暴力振るってたよね? ていうか、肩掴んでたから警察に届ければ傷害罪くらいなら――」
「もういいから」
「でも」
「大丈夫だから。ね?」
宥めるように彼の腕を引くと、渋々といった様子で口を閉じる。
さすがにこんな子供の喧嘩レベルで警察沙汰にするつもりはない。
彼だって本気で言ってるわけじゃないだろう。
でも具体的な罪状を上げられたことで彼女達は自分達がしたことを改めて自覚したらしい。
青ざめた顔と震える姿はさっきまでとは大違いで、立場は完全に逆転していた。
「本人がそう言ってるから今回は大事にはしないけど、さっきのは写真撮ったから、次があったら公にするから」
「は、はい」
「ごめんなさい!」
口々に謝って、脱兎のように逃げていく。
その様子は滑稽でもあったし、また少し可哀相でもあった。
好きな相手にあんなとこ見られて、逆鱗に触れて、脅されまでしたんだからそのダメージは相当なものだろう。
「あいつら、俺に謝ってどうすんだよ」
「まあまあ。これでもう絡まれることはないだろうし。ありがとね」
「おまえは甘すぎ。でも、ごめん。俺のせいで、なんか面倒なことに巻き込んで」
「いやあ、すごいね、漫画みたいだった。あんなの現実にあるんだねえ」
さっきまでの怖さはすっかり消え去り、しょぼんと項垂れて彼が謝る。
大丈夫だからと安心させるようにポンポン腕を叩いて、私もやっと安心して肩の力を抜いた。
「怖かったよな? 俺、学校では距離置いた方がいい?」
「いいよ、今更だし。お互い誰か好きな人ができたらその時に考えたらいいじゃん」
「好きな人」
「そう。それまでは今まで通りでいいでしょ」
意識しながら軽い調子でそう告げると、彼はどこか複雑そうな顔をしながらも頷いてくれた。
私を心配してだとしても、距離を置かれずに済んだことにホッと胸を撫で下ろす。
ごめんね。どんなに外野からヤジを飛ばされても、彼に好きな人ができるまではこの位置は譲れそうにない。
喩えそれが、彼の出会いや恋のチャンスを奪うものだとしても、彼から離れていかない限り、私からはこの手を離すのは無理。
そんな日がずっと来なければいいのにと願いながら、私はもう一度彼に対して心の中で「ごめんね」と呟いた。
彼の過保護の理由が恋心による独占欲だと私が知るのは、もう暫く先の話。
今日のテーマ
《半袖》
「寒くないの?」
「平気だし」
半袖ブラウスの袖口からのぞく腕にはうっすら鳥肌が立っている。
強がってるのは見え見えなのに、絶対に「寒い」と言おうとしない意地っ張りに呆れてしまう。
6月になって夏服に衣替えした途端、この時期とは思えないくらい低い気温になってしまった。
他の生徒は長袖のワイシャツやブラウスを着たり、カーディガンやセーターを着たりで温度調節しているというのに、隣を歩く幼馴染みは拳を握り歯を食い縛って寒さを我慢しながら半袖のまま登校している。
理由はたぶんいつもの兄妹喧嘩だろう。兄に煽られて引くに引けなくなった様子が手に取るように思い浮かぶ。
鞄にこっそりカーディガンかセーターでも入れてきて、学校についてから着てしまえばバレないだろうに、素直で真面目な彼女はそんなこときっと思いもしないんだろうな。
いや、そんなズルをするのは負けたみたいで悔しいのかもしれない。彼女はとても負けず嫌いだから。
そして俺は、そんな彼女の意地っ張りなところを誰よりも分かっている理解者でもある。
彼女を呼び止めて道の端に寄り、すかさず鞄からカーディガンを出してそれを羽織らせた。
「何これ」
「見てる方が寒いから今日はそれ着てて」
「別に私は寒くなんか……」
「うん、でも見てるだけで寒そうでこっちが風邪引きそうだから。俺のために、着てて。ね?」
強がる言葉を遮り、あくまでお願いの姿勢で頼むと、昔から俺にはお姉ちゃんぶりたがる彼女は満更でもなさそうに、でもあくまで渋々というポーズで頷く。
はっきり言ってチョロい。だがこのチョロさがたまらなく可愛い。
「でも、なんでセーター着てるのにカーディガン持ってるの?」
「急に寒くなる日とかあるじゃん。だから教室のロッカーに予備で入れとこうと思って」
「そのわりに、サイズ合ってなくない?」
「あ、間違えて去年のやつ持ってきたかも」
「ああ、あんたこの1年で背が伸びたもんね」
わざと今のより1サイズ小さい去年のを持ってきたことは当然言わないでおく。
去年の秋くらいにも同じようなことがあったからと念のために持ってきてた俺グッジョブと思ってるのも勿論ナイショである。
今の自分サイズのを持ってきても良かったけど、だぶだぶの男物のカーディガンなんか着せたら他の男子共からヨコシマな目で見られそうだし。
「あったかい……」
若干大きめなカーディガンから指先だけ出して、寒さで青白くなってた頬を仄かに色づかせながら小さな声でぽつりと呟くその姿は眼福もので、俺はニヤけてしまいそうになる口元を必死で引き締めた。
こんな地道であからさまなアピールを重ねてる俺の気持ちに、1日も早く彼女が気づいてくれますように。
そんな俺の祈りが成就するかどうかは神様だけが知っている。
今日のテーマ
《天国と地獄》
五月晴れの日曜日。
近所の小学校からは賑やかな音楽とマイクでの放送、時折そこに歓声が加わる。
風に乗って聞こえてくるそれに様々な思い出が蘇り、懐かしさに顔が綻ぶ。
『続いては、5年生による、障害物競走です』
アナウンスから暫くして、聞き慣れた軽快な音楽が流れ出した。
運動会の競技中に使われる定番曲だ。
たしか『天国と地獄』といっただろうか。
「やっぱり障害物競走はこの曲だよね」
「今の障害物競走ってどんな感じなのかな」
「感染症予防の観点からパン食い競争とか飴探しは絶対ないだろ」
「だよね。じゃあ、今はどんな感じなんだろうね」
我が家と小学校は、近所とはいっても少し距離があって、競技内容の説明は途切れ途切れではっきりとは聞こえない。
互いにスマホをいじっていた手を止めて、思いつく競技を上げていく。
「網をくぐったりしなかった?」
「あったかも。あと、ズタ袋みたいなのに足突っ込んでピョンピョン跳ねながら進むやつとか」
「あったあった! あと跳び箱とかハードルとか」
「ハードルはあったけど、うちは跳び箱はなかったな。高校の時はスプーン運びがあったような気がする」
「スプーン運び?」
「知らない? スプーンにボール乗せて運ぶやつ」
「ああ、テレビか漫画でみたことあるかも。うちの学校ではなかったけど。あとは、たしか後ろ向きに走るのがあった」
「あるある! よろけて隣のレーンの奴とぶつかったり」
「コストかけずに笑いが取れるネタだよね」
こうして少し話すだけでも学校によって特色があるのが面白い。
そのまま話題は運動会や体育祭自体の競技内容に移り、話は尽きることなく盛り上がる。
そうして話をしながら、時折、彼女のお腹を撫でる。そこには二人の愛の結晶ともいうべき大切な命が育まれている。
「おまえが小学校に上がる頃には、どんな競技をやってるんだろうな」
「いくら何でも気が早すぎるでしょ」
「そんなことないだろ。きっとあっという間だよ」
つきあい始めてから結婚までの期間。
そして結婚してから今日までの年月。
楽しい日々はあっという間に過ぎ去ると相場が決まっている。
可愛い我が子の成長の日々もまた、きっとあっという間に過ぎ去っていくことだろう。
いつか、この子が小学校に通うようになって、今日のこの会話を懐かしく思い出したりするのだろうか。
それともこんな会話を交わしたことすら、数々の思い出に上書きされて忘れてしまうのだろうか。
天国のようだと感じる日も、地獄のように思える日も、きっと沢山経験することになるのだろう。
それを待ち遠しく思いながら、僕はあのお馴染みの『天国と地獄』を口ずさんだ。