初音くろ

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今日のテーマ
《ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。》





見慣れた街並みは、だけどいつもと違って人の姿は全くない。
薄暗い住宅街を、どこへともなく、ただ必死に走る私。
まるで何かから逃げるように。
いや、まるでではなく逃げているのだ。何か分からない恐ろしいものから。
時折速度を緩めて振り返り、追っ手の姿がないことに安堵して、でも感じる気配からは確実に距離を詰められているのが伝わってきて、だから無我夢中でひた走る。
逃げても逃げても振り切れない。
焦燥に駆られて泣きたくなるけど、今は泣いてる場合じゃない。
懸命に走り続けていると、いつのまにか景色は駅前の通りになっていた。
この並木道を抜ければ、その先に大きな公園がある。そこまで辿り着ければ逃げ切れる。
なぜかそんな確信を得て、私は気力を振り絞り、縺れそうになる足を叱咤しながらがむしゃらに足を動かした。
もう少しで追いつかれる。気配はもう真後ろまで迫っている。
絶望に苛まれたその時、行く手に目映い光が見えた。


「って感じの夢を見るの。毎晩」
「お疲れ様」

カフェラテのカップを手の中で揺らしながらため息を吐く私に、目の前の友人は労いの言葉をかけて頭を撫でてくれた。
件の夢のせいでここのところ寝不足気味だ。
睡眠時間だけならいつもと同じくらいだけど、起きた時の疲労感がすごくて全然寝た気がしない。

「何かに追いかけられる夢はプレッシャーや不安が強い時に見るっていうけど」
「……」
「その顔だと心当たりはありそうだね」

プレッシャーじゃないけど、不安ならある。
年度が変わってから、恋人からの連絡が激減した。
新しいプロジェクトに加わることになったって言ってたから、忙しくてそれどころじゃないのだろうと思ってた。
会えないのも話せないのも寂しいし、体調崩したりしてないか、疲れてないかという心配もあったけど、邪魔をしたくなくてこっちからの連絡も控えてた。
でも、先週の休みに見てしまったのだ――彼が綺麗な女の人と楽しげに歩いてる姿を。

不安があんな夢を見せるというなら、夢の中で私を追い詰める『何か』は彼との別れを示唆しているんだろうか。
夢の中の私は、別れを告げられるのが怖くて、そこから目を背けて逃げているんだろうか。

浮かない表情から何かを察したのだろう。
友人が宥めるようにポンポンと優しく腕に触れてくれる。
ブラウスの薄い布越しに伝わる手のひらの温度が、沈んで冷えた心を少しだけ温めてくれた。

「愚痴でも何でも聞くし、ストレス発散ならつきあうよ」
「ありがとう」
「じゃ、今日は帰りに一緒にご飯食べて帰ろうか。飲みでもカラオケでもつきあうよ」
「そういえば駅前に新しいお店が――」

話してるタイミングでテーブルの上のスマホが震えた。
画面にポップアップで表示された新着メッセージには彼の名前。
ちょっとごめん、と断ってアプリのトーク画面を開く。

『今日、仕事終わってから会える?』
『大事な話があるんだ』

楽しいことに切り替えかけた気分が、まるで氷水を浴びせられたように萎んでいく。
脳裏に浮かぶのは他の女の人と楽しそうに歩いてた彼の姿。
このタイミングで『大事な話』だなんて別れ話の予感しかしない。

「大丈夫?」
「うん……」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど」
「大丈夫じゃないかもしれないけど大丈夫。ごめん、今日の帰り、用事できちゃった」

繕い切れてない表情から、何某か察したんだろう。
友人は心配そうな顔でもう一度私の頭を優しく撫でてくれた。

「何かあったら話聞くから連絡して」
「うん、その時は聞いて」

こんな風に毎日悪夢に魘されて心を擦り減らすくらいなら、きちんと向き合った方がいい。
たとえ恋が終わっても世界が終わるわけじゃない。
逃げ出したくなる気持ちを無理矢理奮い立たせて、私は彼に了承のメッセージを送った。


仕事を終えて待ち合わせ場所に着くと、先に来ていた彼はやけに神妙な顔をしていた。
やっぱり別れ話をするつもりなんだろう。
こんな風に待ち合わせるのもこれで最後かと感慨深く思いながら声をかける。
彼は僅かに緊張を滲ませながらも、いつもとあまり変わらぬ笑顔で接してきた。

とりあえず先に食事をしようと言われ、昼間友人と行こうと話していた店に連れて行かれた。
小洒落た雰囲気のダイニングバーは料理もお酒も豊富で、週末ということもあってほぼ満席。
だけど彼は事前に予約をしておいたらしく、奥まった場所の角席へ案内される。
せっかくいい感じのお店なのに、別れ話の記憶が邪魔して来られなくなるのは残念だ。
いっそのこと、来週にでも友人とまた来て嫌な記憶を上書きしてもいいかもしれない。

正直なところを言えば、彼のことはまだ好きだし、別れたいとは思ってない。
泣いて縋って取り戻せるくらいならそうしたいとも思う。
はっきりそういう話をしたわけじゃないけど、ゆくゆくは結婚できたらと、そんなことまで考えてたんだから。
でも、もし彼に他に好きな人ができたなら、私がどんなに未練を抱えていても、このままつきあい続けることはできないだろう。
せめてこの場はみっともなく取り乱したりしないようにしたい。
終わったら、友人のところに駆け込んで、ヤケ酒につきあってもらって、思いきり慰めてもらおう。
それだけを支えに、覚悟を決めてこの場に臨んでいる。

食事の間の会話は互いの近況を語る和やかなものだった。
掛かりきりだったプロジェクトは順調でようやく軌道に乗ったらしい。
私も他愛ない日常の話をぽつりぽつりと差し挟む。
悪夢のせいでここのところ眠りが浅く、疲れが顔に出てしまっていたが、退勤前にメイクでしっかり誤魔化してきたのですぐに気づかれることはないだろう。

食事を終え、その場で切り出されるのかと思いきや、彼は「少し歩こう」と言って先に立って歩き始めた。
駅前通りの遊歩道を、肩を並べてそぞろ歩く。
前にこうして歩いたのはもう2ヶ月ほど前。その頃は桜が散りかけで、雪のように降る花片が幻想的で綺麗だった。
幸せな記憶が蘇り、胸を切なく疼かせる。
程なく並木道を抜け、公園に――あの、悪夢のゴール地点とも呼ぶべき公園に辿り着いた。

夢では、ここに駆け込めれば逃げ果せた。
だけど現実は、この公園こそが私を地獄に落とす終着点であるらしい。

ジョギングコースや噴水を擁する公園には、この時間でもまだ人の姿がちらほらある。
彼は迷うことなく噴水のある方へ足を進め、やがて空いているベンチに腰を下ろした。
隣に座って横顔を盗み見ると、予想通り、どこか強張った顔をしている。
膝の上で握り締められた手は彼の緊張を窺わせ、そんな場合でもないのに「大丈夫だよ」と励ましてあげたくなってしまう。

大丈夫。
私の気持ち的には全然大丈夫じゃないけど、それでも取り乱して困らせることはしないから。
だから、そんな悲壮な覚悟を決めなくても平気だよ。
ちゃんと、できる限り、綺麗にさよならしてあげるから。

口には出せないけど、心の中でエールを送る。
たぶん彼に対する最後のエール。
仕事で行き詰まった時、取引先の人と揉めた時、落ち込んだ彼をそうやって慰めて、或いは励ましてきた。
これからはもう、それは私の役目じゃなくなるのか。

そんな風にしんみり浸っていたら、突然彼が私の手を取り名前を呼んだ。
いつになく真剣な顔に、胸が針で刺されたようにじくじく痛む。
意を決したその眼差しに私も覚悟を決めてごくりと唾を飲み込んだ。

「俺と、結婚してくれ」
「分かっ――え? 結婚?」

別れてくれと言われるとばかり思っていたのに、全く逆の言葉を食らって、私は口をパクパクさせながら息をするのも忘れてただただ彼を凝視する。
聞き違いだろうか。
それとも私の願望がそんな幻聴をもたらしたのか。

「このプロジェクトが完全に軌道に乗ったら昇進することが決まってて。今週やっと目処が立ったんだ。もうすぐおまえの誕生日だろ? それまでにプロポーズして、プレゼントと一緒に指輪を贈りたくて、それで……」
「ちょっと待って。じゃあ、先週末、一緒に歩いてた女の人は?」
「先週末? ああ、最終ミーティングで休日出勤してたな。その日に一緒に歩いてたっていうと、たぶん社の先輩。昼飯の買い出しに行った時かな? まさかそれ見て変な誤解したとか言うなよ? 言っとくけど、あの人、既婚者だからな」

情報量が多くて頭の中はプチパニックを起こしてる。
でも、これはもしかして。

「今日の大事な話って、別れ話じゃなかったの?」
「は!? 勘弁してくれ! 一世一代の覚悟でプロポーズしたのに、なんで別れ話と勘違いされてんだよ!」

頭を抱える彼を慌てて宥めて謝罪して。
ずっと張り詰めてた気持ちが不意に緩んで、私の目から涙がポロポロこぼれ落ちた。
覚悟していた悲しい涙じゃなく、これは正真正銘うれし涙。
私の濡れた頬を彼の指先が優しく拭ってくれる。


夢で見た通り、この公園は悪夢から逃げ果せるゴール地点だったらしい。
ずっと私を追い詰めてた不安はもうすっかり消え去ったのだから。





5/31/2023, 6:54:29 AM