今日のテーマ
《モンシロチョウ》
「あ、モンシロチョウだ」
公園の花壇にヒラヒラ舞う白い蝶を見つけ、ぼくは思わず声を上げる。
田舎暮らしだった子供の頃はあちこちで見かけたものだけど、都会に住むようになった今はあまり見かけることもない。
昔は虫取り網を手に追いかけ回したものだと懐かしく思い出す。
「白い色の蝶は神様の遣いだって、小さい頃にお祖母ちゃんから聞いたことがあります」
「へえ、そうなんだ」
「迷ってたら正しい道を照らしてくれるとか、災いから護ってくれるとか」
懐かしそうに話す彼女の口調からは、それを信じているのか否かは分からない。
蝶を追って細められた眼差しには、ほんの少しの寂しさが入り混じっている。
小さい頃はお祖母ちゃん子だったのだと、以前そんな話を聞いたことをあった。
身内に不幸があったとかで数日休んでいたのは先月の頭――それから彼女はどことなく元気がない。
自分と彼女はただ同じサークルに属してるというだけの先輩と後輩だ。
どんなに心配でも、個人的な事情に踏み込めるような関係ではない。
話を聞くくらいならできるのに、彼女がその気になってくれなければ、そんなことさえ叶わない。
いつしか足を止めて見つめていたぼく達の元へ、件のモンシロチョウが飛んできた。
そして、白い羽をひらめかせながら、彼女の回りをヒラヒラと飛び回る。
まるで「元気を出して」とでも言うように。
「そういえば、ぼくの田舎では、蝶は死者の化身だなんて話があったな」
「死者の……」
「命日や法事になると故人が蝶となって還ってくるんだって」
蝶を目で追う彼女の横顔が今にも泣き出しそうに歪む。
馬鹿なことを言ってしまったと猛省するが、一度口に出してしまった言葉は戻らない。
自分のデリカシーのなさに歯噛みしていると、彼女は泣き笑いのような顔でぼくを見上げてきた。
「今日、お祖母ちゃんの四十九日だったんです」
「……」
「いつまでもめそめそしてるなって、お祖母ちゃん、心配して来てくれたのかな」
ぽろりと涙の粒が零れたのと同時、白い蝶が彼女の肩にふわりと止まる。
ぼくは何も言えないまま、黙ってハンカチを差し出した。
ただの先輩後輩じゃ、肩を抱いて慰めることも、抱き締めてぼくの胸で思う存分泣かせてやるここともできない。
無力な自分を口惜しく思っていると、モンシロチョウは今度はぼくを鼓舞するかのように目の前をヒラヒラ飛び回り始めた。
これじゃあ、まるで本当に彼女のお祖母ちゃんが蝶になって現れて、発破をかけているかのようだ。
我ながら都合のいい解釈をしてると苦笑いが浮かぶけど、何となく勇気をもらえたのは事実で。
ぼくはハンカチに顔を埋めて静かに泣く彼女の背中を、慰めるように優しく撫でる。
彼女は一瞬小さく息を飲み、しかしぼくの手を拒否することはなく、そのまま一歩近づくとぼくの肩に額を預けて再び泣き続けた。
あのモンシロチョウが、彼女のお祖母さんの化身だったのか、はたまた神様の遣いだったのか、それを知る術はない。
けれど、その日以降、ぼく達の距離はうんと縮まって、ただの先輩後輩の関係は終わりを告げたのだった。
今日のテーマ
《忘れられない、いつまでも》
「おおきくなったら、およめさんにしてくれる?」
「いいよ。忘れてなかったらね」
「ぜったい、ぜったい、わすれないよ!」
「あはは、いつまで覚えててくれるかな。いや、他に好きな男の子ができる方が先かな?」
「ほかのおとこのこなんか、すきになんないもん! ぜったい、ぜーったい、おにいちゃんのおよめさんになるの!」
「はいはい。楽しみにしてるよ」
6つ下の従妹はまだ幼稚園児だ。
今日は親戚の結婚式で、花束贈呈の大役をこなしたばかり。
間近にウエディングドレスの花嫁さんを見て、すっかりその気になったらしい。
幼稚園児とはいえ、そこは女の子。
おませな憧れは、一番身近な男――つまりオレに向けられた。
そういえば、幼稚園の時にも、同級生の女の子から大人になったら結婚してって言われたことあったな。
その女子は、今は上級生のナントカ君に夢中だけど。
何ならこないだ「同学年の男子ってガキくさくて絶対ナシ寄りのナシだよね」とか大きな声で喋ってるのも聞いたけど。
自分から告白してきてべったり離れなかったあの頃のことなんてもう覚えてないんだろうな。
妹みたいに可愛いけど、実の妹よりずっと可愛い天使のような従妹。
この子もきっとあと何年かしたらクラスの女子みたいに今日のことなんか忘れてしまうんだろう。
オレだって、いつまでも覚えてるかはわからない。
大人になって彼女とかできたら忘れちゃうかもしれない。
それでも、この微笑ましくも可愛い告白を、できる限り忘れたくないと思う。
もしも覚えていられたら、この子の結婚式で、この子の結婚相手に、ドヤ顔で自慢してやろう。
それから20年の時を経て。
「絶対忘れないって言ったでしょ」
世界一綺麗な花嫁が、オレの隣で誇らしげに笑う。
ドヤ顔で自慢するのは鏡の向こうの自分相手になるわけだが、それはそれで悪くない。
あの幼くも可愛らしいプロポーズを、きっとオレはこれから先も、ずっとずっといつまでも、忘れることはないだろう。
今日のテーマ
《一年後》
「一年後には大学生かあ」
「ちゃんと受かればな」
「縁起でもないこと言わないでよ」
帰り道、並んで歩きながら軽口を叩き合う。
同じ学校の制服を着て、こうして歩けるのもあと一年。
夕暮れ時の物寂しさも相俟って、何となくしんみりしてしまう。
「来年の今頃も一緒にいられるかな」
「何だよ、模試の結果イマイチだったのか?」
「そうじゃないけど」
狙ってる大学は同じだけど、志望の学部は違う。
環境も変わるし、お互いに新しい交友関係も増えるだろう。
そうなった時、私達の関係も変わってしまうんじゃないかと、そんな不安が胸をよぎる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり――
平家物語の一節が頭の中に浮かんでは消える。
変わらないものなんてない。
変わらない関係なんてない。
変わらない気持ちも、きっとない。
「ほんとにどうしたんだよ? 何かあったのか?」
「ううん、別に何も」
「何もってことないだろ、そんな泣きそうな顔して」
足を止めた彼が、心配そうに身を屈めて私の顔を覗き込んでくる。
至近距離に迫る顔、さっき飲んでたコーヒーの香りが吐息に混じって鼻腔をくすぐる。
まるでキスする時みたいだと思ったら、そんな場合じゃないのに頬に熱が上ってくる。
「顔赤いな。もしかして熱でもあるのか?」
「違うし! ていうか、顔、近すぎ!」
「あっ、……ごめん」
どうして私が赤面してるのか察して、彼は慌てて距離を取る。
その素早さが、互いの疚しさを誤魔化しているようで、何だかものすごく恥ずかしくなってくる。
「……俺は」
「うん?」
「俺は、来年も、再来年も、ずっとおまえとこうして一緒にいるつもりだから」
「え?」
「先のことなんか分かんねえけど、分かんないからこそ、不安に思うより前向きに考えた方が良くね?」
ああ、彼は――この人は、私の不安をちゃんと分かってくれてたんだ。
分かってて、でも無責任に「絶対大丈夫」なんて気安めは言わないで、それでも安心させようと言葉を選んでくれてる。
鞄を持ってない方の手を取って、ぎゅっと握ってくれる。
手のひらから伝わる温もりに、胸の奥でモヤモヤしてた不安がすーっと小さくなっていく。
心が軽くなって、私はやっと微笑みを浮かべることができた。
「それにしても、なんて急に不安になってんの? 誰かに何か言われた?」
「お姉ちゃんが、彼氏と別れたって言ってて」
「あー、たしか遠恋してるって言ってたっけ」
「うん。高校の時からずっとラブラブだったのに」
4つ年上のお姉ちゃんは大学4年生。
彼氏はその1つ上で今年就職したばかり。
このままもう何年かつきあってから結婚するんだろうと思ってたのに、離れて1ヶ月かそこらで他に好きな人ができたらしい。
直接詳しい話を聞いたわけではなかったけど、隣の部屋から聞こえてきた会話から、そんな話が伝わってきた。
お姉ちゃんは通話を切った後もずっと泣いてて、正直勉強どころじゃなくなってしまった。
「そりゃ、そういう話聞いたら不安になるよな」
「うん……」
「俺も、絶対そんなことしないって言い切れはしないけどさ、でも余所見しないように努力するし」
「うん……私も、勝手に重ねて不安になったりしてごめん」
彼とあの人は違う。
少なくとも、こうして私の不安に気づいてくれるし、不誠実な真似するようなことはないって信じられる。
変わらないものはないけど。
変わらないよう努力することはできる。
変わるにしても、より良い関係になるようにすることも。
一年後も、二年後も、その先もずっと。
叶うことなら、こうしてあなたの隣にいたい。
想い叶って生涯ずっと隣で笑い合うことになることを、今はまだ誰も知らない。
今日のテーマ
《初恋の日》
公園のブランコには誰も乗っていなかった。
風が強かったからかもしれないし、今にも雨が降りそうな曇り空だったからかもしれない。
「寄り道しないで帰るんだぞ!」
帰り際の先生の注意が頭に浮かぶ。
まわりをキョロキョロ見回して、誰もいないのを確認して、ぼくは猫みたいに素早く公園に入った。
ちょっとだけ、ほんの5分くらいだけだから。
そのくらいなら大丈夫だよね。
コンビニで買い食いしたりするわけじゃないし。
心の中で言い訳しながらランドセルを放り出してブランコに飛び乗る。
そして、座面を踏みしめ、立ったままで力いっぱい漕ぎ出す。
小さい子がいたら真似したら危ないし、上級生がいたら生意気だって睨まれる。
でも、今この公園には誰もいない。
こんなチャンスは滅多にない。
だから誰かが来る前にちょっとだけ、思いきり、念願の立ち漕ぎをしてみたかった。
座って漕ぐよりずっと勢いがつく。
漕ぐたびに、高く、スピードも出てきて、段々こわくなってきた。
そろそろ止めようと思うのに、ブランコの勢いはなかなか止まらない。
座って漕いでる時なら、地面に足を着ければブレーキがかかってくれる。
でも立ち漕ぎの今は、当然のことながら、足ブレーキは使えない。
どうすれば止まる?
早く止めなきゃ。
このまま止まらなかったらどうしよう。
降りられなかったらどうしよう。
不安と恐怖で握り締めていた手が緩み、ぼくはそのままブランコから落っこちた。
幾らか勢いは減ってたから遠くに投げ出されることはなかったけど、むき出しの膝を思いきりすりむいて血が出てくる。
「……っ、うわーーーーーん」
痛さと、恐怖と――降りられた安堵と。
いろんな感情がグチャグチャに込み上げて、ぼくは幼稚園児みたいにわんわん泣いた。
そんな時だ。
「大丈夫!?」
誰もいないと思っていたのに、突然女の人の声がした。
たまたま公園の側を通ったのだろう。
セーラー服のお姉さんが慌てたように駆けてくる。
「うわ、痛そう……ブランコから落ちちゃったの? 怪我は? 膝すりむいただけ? 頭とかぶつけてない?」
服についた砂埃を軽く払いながら、お姉さんはぼくの怪我を確認していく。
ぼくは恥ずかしさと居たたまれなさでろくに返事もできないまま、ヒックヒックとしゃくり上げつつ頷いたり首を振ったりしてお姉さんの質問に答える。
怪我らしい怪我は血の滲む膝だけだとわかり、お姉さんはほっとしたようにため息をついた。
「立てる? 歩ける?」
「うん……」
「じゃあ、ちょっとベンチまで行こうか。はい、ここに座って」
お姉さんに手を引かれ、すぐ近くのベンチまで連れて行かれる。
歩くと痛くてたまらなかったけど、それを言ったら抱っこされそうな雰囲気があった。
お姉さんの身長の方がぼくより少し高かったけど、だからって女の子に抱っこして運ばれるなんて小っちゃい子みたいに泣いてるのを見られるよりもっと恥ずかしい。
それくらいなら痛いのを我慢した方がよっぽどましだ。
お姉さんは「ちょっと待っててね」と言うと、そのまま水道の方に走って行ってしまった。
少ししてまた走って戻って来たお姉さんの手にはびしょびしょに濡れたハンカチがある。
「本当は直接洗った方がいいんだと思うけど……ちょっと沁みるかもだけど我慢してね」
「……っ」
濡れたハンカチで傷口を拭われ、痛さのあまり引っ込んでいた涙がまた出てきたけど、今度は歯を食い縛ってみっともなくわんわん泣くのは我慢した。
えらいね、頑張ったね、と言いながら、お姉さんは傷口に絆創膏を貼ってくれた。
「とりあえずの応急処置だから、お家に帰ったらちゃんと手当てしてね」
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして。でも、今度からは寄り道しないでまっすぐ帰らなきゃだめだよ」
「はい……ごめんなさい……」
しゅんとしながら謝るぼくの頭をお姉さんがくすくす笑いながら撫でてくれる。
その手の感触は、お母さんのものとも、クラスの女子のものとも違ってて。
ふわんと何だかいい匂いもして。
盗み見るようにちらりと目を上げた先、その柔らかな笑顔にぼくの心臓は全力疾走した後みたいにうるさくがなり始めた。
今にも雨が降り出しそうな放課後の公園で、その日、ぼくは生まれて初めての恋をした。
今日のテーマ
《明日世界がなくなるとしたら、何を願おう。》
もしも明日世界がなくなるとしたら、人は一体何を願うのだろう?
現実には、世界は明日も明後日もなくならないだろう。
けれど、事故や災害などの予期せぬ事態に巻き込まれて呆気なくボクの生が終わってしまうことはあるかもしれない。
そうなったとしても、せめて死んでも死にきれないというような悔いは残さずに逝きたい。
「で、あんたの悔いになりそうなのがこれなわけ?」
ジト目で問う幼なじみに、ボクは苦笑してみせた。
目の前には皿にたっぷり盛られた色とりどりのケーキの山。
ケーキバイキングとしては珍しくもない光景だろう。
近くの席にも同じようにケーキを山盛りにしている人は少なくない。
「食べたいものを食べたいだけ食べれるなんて最高の贅沢だと思うけど」
「それは否定しないけど、それにしたって盛りすぎじゃない?」
「そうかな? このくらい余裕でしょ、お互いに」
「……それは否定しないけど」
贅沢なのはケーキだけじゃない。
大好きな人と一緒に味わうからこそ美味しさが増すというもので。
これなら、世界が明日なくなっても、あるいはボクの人生が終わってしまったとしても、きっと悔いは少ないに違いない。
胸に秘めた長い片恋が叶ったわけじゃないから、一切の悔いがないとは言い切れないけど。
もしも明日世界がなくなって、ボクも君もすべての人が死んでしまうとするなら。
ボクが願うのは、最後のひとときまで大事な人と過ごす時間。
想いが成就しなくてもいい。
最後の瞬間に目にするのは、大好きな君の顔がいい。
それが叶わないのなら、せめて君の笑顔を胸に旅立ちたい。
たとえば、そう――好物のケーキを頬張って、幸せそうに笑う今の君の笑顔とか。