『小さな命』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
小さな命
雨がポツポツ降るなかで小さな鳴き声が響いた。
鳴き声のする方に駆け寄ると小さな子猫がいた。
見たところ親猫はいなそうだ。
私はその子に何故だがわからないけど、幸せになってほ
しい。と
私は今日。小さな命を拾いました_。
偶然拾った小さな命。尻尾の先だけが三毛になっている君。誰が捨てたんだか警戒心もなくにゃあにゃあ擦り寄ってくる人懐っこさ。
ぐんぐんあっという間に大きくなって、猫撫で声でごはんをねだって、膝に乗っては構ってアピール、家族はみんな君にメロメロ。
そうしていつしかおばあちゃんになって、お気に入りの出窓のあたたかな陽だまりで丸くなって寝てる時間が増えて。
社会人になって家を出ていた家族も帰省していた、みんなが揃った日に旅立っていったね。
うちに来てくれて本当にありがとう。
大好き。またね。
『小さな命』
命に小さいも大きいもあるわけないじゃん。
何言ってんの、そんな当たり前なこと。
あたしの命だってアンタの命だって平等なの。
生きてりゃ何とでもなる。
泣きたくなったら思いっきり泣けばいい。
あたしが隣にいてやるからさ。
______やまとゆう
小さな命。人間の顔にはダニがいるらしいね。そういう話じゃないわな。ちいかわの話ですよね。
ちいかわはほんと面白い。読み切りの話ならほんわかして続きものの話だったらこれどうなるんだって次の話が楽しみになる。
話題になってたしまじろうというか島編も結構前の話か。あの終わりかたは美しかった。いいよね罪と罰。
あれよりちょっと前からだっけか。ラッコ師匠がよく出てくるようになったの。
元々準レギュラーって感じだったけど今は結構レギュラーキャラって言っていい感じのキャラになったな。
いいキャラだよなラッコ師匠。かわいくて強くてかわいい。甘いもの好きなのが愛らしさを増している。単純なキャラ付けだけどああいうのは効くね。
今の悪夢編はどう解決して終わるんだろうな。ちいかわはほんと独特のセンスで展開が読めない。
愛らしいキャラに面白いストーリー。そりゃ人気出るよな。いつまでも続いてほしい作品だ。
どこにでもある、小さな命。
いまここにある、小さな命。
精一杯、だいじにしてる。
知らないうちに誰かが、
潰してしまうのは
当たり前のこと?
小さな命
「どうしたの?浮かない顔して。」
手のひらの上で君は呑気に鼻歌を歌って見せる。
去年の春、君の身長が5センチ縮んだ。
それからも君は止まることなく小さくなった。
君は、運命だって言う。私が消えてなくなっても、そうならなくても、あなたは何もできないよって。
生命線の上で寝そべる君はこんなにも暖かいのに、その心臓が動いているのかを確かめることもできない。
『小さな命』
小さな花にも命がある。
自分にも
大好きな人にも
嫌いな人にも
みんな命がある
小さな花と同じ命が。
命は大切だからさ、
嫌いな人の命も大切にしないといけないな。
嫌いを好きに変える魔法があればいいのに。
もっと広い心が欲しい。。。
小さな花の命のように
周りを笑顔にする そんな命になりたい。
あの嫌いな人も
満面の笑顔になってくれるように。
命
みんな大切だよ。
黒猫はな
日々前向きに
これを始めたのも 私の中に育つ新しい小さな命
忙しさの中で どこまで育つかな
たくさんたくさん 日々色んな種をまいてるから
全部は立派に育たないけど
1度種をまいてみたら
小さな芽の草原が私を豊かにしてくれるかな
15さいの中学三年生の時。受験で忙しい時。
まさかの母のお腹に小さな命が宿りました。
歳的にも妊娠するなんてって感じで、高齢出産になると障害を持った子が産まれてきたり、
母は悩みました。けどあたしに1番に教えてくれて父とかおばあちゃんよりあたしに。
あたしの一言で産む決意をしたそうです。
妹弟もいるけど、15さいというときにゼロ歳の子がうまれてくる、しかも自分の弟。
色々感じるものもあり虐待とか子供が関わってるニュースに敏感になったり。
オムツの替え方やミルクの仕方や赤ちゃんとの遊び方とか
大人になって自分に子供が出来て知るようなことを15さいで知れました。
小さな命。生まれてきてくれてありがとう。
今日のテーマを見た途端、不覚にも
ゴルゴ松本氏の「命」を幼い子達が頑張って真似てるのを
想像してしまった。
(小さな命)
一寸の虫にも五分の魂というが、家の中に出る虫だと、小さな羽虫や蚊は見つけ次第つぶせるが、なぜか蜘蛛はできない。あの造形と柔らかそうな体のせいだろうか。
Gは別格なので触れないでおく。
蜘蛛は家の中の害虫(益虫、害虫という区分も人間の都合だが)を食べてくれるらしい。それでも視界にいると気になってしまう。
たまに小さな蜘蛛が壁やカーテンに張り付いているが、直接触れないようティッシュをかぶせて捕まえる。意外とすばしっこい。捕まえられたらそっと外に逃がす。
家の外に巨大な蜘蛛の巣が張っていて、そこに鎮座する主を見たときはどうしようかと思った。
払っても払っても、いつのまにか巨大な巣ができている。
心の中で謝りつつスプレーを噴射した。
巣の主は一寸=3.03センチより大きかった。虫が大きいほど逡巡も大きくなる。大きさで魂に差があるとは思えないのだが人間は勝手である。
『小さな命』
幼い子供が、赤ん坊が、病にかかっても負けじとそれに打ち勝とうと奮闘する姿を目の当たりにする度に、私はその小さな命に宿る生命力の強さに感銘を受ける。
いつかはそんな小さな命であった私たちだが、大人になるにつれて、辛い現実を突きつけられるほど、生命力がすり減っていく気がする。
けれど、こうして私たちがここまで生きてこれたのも、あのか弱い小さな命が生きることを望み、諦めなかったからだから、私たちはその命を、どんなことがあろうとも、守り抜かなければいけない。
小さな命
身体の大小でないのなら、それは魂
健康や活力が弱っている時にも用いられるだろう
儚い命
小さな命
あなたが生まれた時
あなたの肌は信じられないぐらい
きれいな桜色で
その色にちなんだ名前をつけた
標準よりも ずいぶん小さく産んでしまったことで
ものすごく 自分自身を責めてしまったけれど
小さな命のかたまりだった あなたと一緒にいると
誰もが素敵な やさしい桜色につつまれたような
おだやかな気持ちになれた
大人になったあなたは
誰かに守られなくてはいけないような
小さな命では ないけれど
周りの人を 安心させる あたたかく
やさしい雰囲気はかわらない
ありがとう
生まれてくれて ありがとう
小さな命
命に大きさはあるのかな?
どんなに小さな動植物にも命はちゃんとあって一緒に生きられるはずなのに
どうして争いばかりなんだろう…
《小さな命》
みんなね命は小さいんだよ
どんなに大きな体でもどんなに小さな体でも
体よりは小さいんだよ
みんな一緒なんだよ
昨日は仕事で大失敗をした。気を紛らわすために飲みにいったが、飲みの席でも失態。最悪の一日だった。
そして、今朝起きてりんごを切っている時にナイフで左人差し指をザクり。やってしまった。最悪。ドバドバと血が出る。朝食どころではなく、止血を始めた。すぐにティッシュが真っ赤になる。
ティッシュで押さえていると左手指先が脈打つのがわかる。ドクドクと。そこだけが別の生き物のようだ。小さな命を感じる。生きているのを感じる。
そんなことを考えながら、ティッシュで指を押さえてたら、しばらくして血が止まった。心は病んでいても、体は傷を治すのに必死になってる。
またまだ俺行けるな。
よしサウナでととのえよう。
あっ、指切ったから無理かな。
今日は映画でも観てのんびりするか。
「小さな命」
生き物係になったのは自分の意思ではなかった。図書係も給食係もやりたくなかったから手を上げずにいると、一番最後の余りものになっただけだ。生き物は嫌いではないけれど、好きでもない。だから拒否はしなかったし、さぼることもなかった。
金網で覆われたうさぎ小屋へと踏み入れる。まだ僕に慣れていないうさぎは、物音に驚くと小屋の中を駆け回った後に隠れてしまった。
空になったエサ箱。みんなから集めたにんじんの皮やキャベツを小さくちぎって置いておくと、いつの間にか無くなっている。
家で飼っているモルモットも野菜が好きだ。このまま持って帰ってしまえば、うさぎは腹を空かせたまま死んでしまうのだろうか。鳴くこともできず、小屋から出ることもできないうさぎの命を、僕が握っている。
うちの小さな庭先に毎日のように猫がくる。
眠気まなこで窓をあけるとすぐそこにいたり、家を出るとそこにいたりする。窓や扉の音に驚くのか、慌てるように距離をとって顔をじっと見てくる。
はじめの頃はこちらの存在を見つけるなり物置の後ろや塀の向こうに逃げていたのに、警戒心が薄れてきたのか今では日向ぼっこを続けていたりして、とても可愛い。
家族がたまにご飯をあげるようになってから、よく声をかけられる。呼んでくるね、と分かるかも知らない返事をして家族に伝えるとさっきあげたばかりだと言われ、すっかり慣れてわがままを言われているようで可愛い。
小さな頃、通学路に猫がいた。良く言えば遊歩道のような木々に覆われた道に、おそらく家族で棲んでいた。野生にくらす猫たちは警戒して遠巻きに見てきたけれど、こちらも負けじと警戒して足早に通り過ぎたりしていた。
大人になってかつての通学路に行くこともなくなって、あの場所に猫がいるのかいないのかも分からない。庭先で会う猫は、あの頃の猫たちとなにか関係あるのだろうか。さくらのような小さい耳先を見て、かすかに切ない気持ちを覚える。
小さな命、よく聞く言葉だ。テレビや新聞などのメディアがこの表現を赤子に当てはめることを盛んにやっていた時期もあった記憶がある。
私の子ども達が赤子だった頃や乳幼児期、「小さい」と言って間違いない頃を思い出してみる。…うん、小さいのは身体だけだ。その存在は間違いなく大きい。長女が生まれたとき、私は「人生ってやつも悪くないかもしれないな」と、自分が生まれて初めて思ったのだ。
「かたちの小ささ」を「命の小ささ」と同一視すること自体には、良い面も悪い面もあるとは思う。
「かたちが大きい」者は「かたちが小さい」者にとって「物理的圧倒」がある。世間で騒がれる痛ましい出来事の多くに「物理的圧倒」を悪用したケースは実に多い。「かたちが大きい」だけで、「中身は小さい」者達だ。これは「器ってやつが~」という意味ではなく、中身に成熟がない、という意味だ。
「物理的圧倒」があるぶん、「かたちの小さい」者に思いやりを発揮する「かたちの大きい」者も、もちろんたくさんいる。むしろ生物的にはそれが必要だ。多くの人間も、動物達もこれを自然に行動する。
野生動物は小さい生きものを捕食するじゃないか、という声も昔からよく聞く。人間が狼を恐れて絶滅させてしまった北海道の生態系に及んだ影響は、現在も終わってない。
人間にしても、動物にしても、その場限りの感覚で「かわいそうだから」とか、逆に「邪魔だから、怖いから」的な動機のもとに行動してしまうのは、「見誤る」危険がある。命は大きい。決して小さくない。けど、繊細でもある命と命の間を繋ぐには、思いやりという「ぬくもり」が、“最大の力”として必要だ。