〈無垢〉
日に日に縁遠い言葉になっていくと思わないか。
別段、子供の頃も無垢だった訳ではないが。
この娑婆は狂わずには生きられない。狂わず生を全うする者こそ狂人。というような文言を聞いて久しいが、君よ、歳を重ねるにつれ、それを真言なのではないかと錯覚してしまわないか。
私はね、「無垢」は「無知」と何が違うのかと考えるよ。
如何すれば無垢でいられるのか分かるかね。世の中の薄汚れた掃き溜め部分を知らぬからではないか。君よ、娑婆の地に足着けねばならなくなった彼の日から何を見てきた。幾度と憤懣遣る方ない思いをしてきた。
見れば見るだけ、知れば知るだけ、寝て起きた数だけ、君は薄汚れ無垢からかけ離れてきたのだ。尤も、その汚れを勲章と取るか、恥部と取るかは私に干渉の余地は無いが。
無垢は大して尊ぶ程のものでは無い、羨んでしまうのは仕方ないがね。しかしね、無知は決して愚かでは無い、生き抜く戦略とも言えるからだ。知恵は素晴らしいが同時に柵にもなる。「知らぬ方が良かった」と感じた君の一部過去が証拠だ。
さて。君よ、未だ無垢で無知なれば、これから如何様に生きるつもりだね。私のようになってはいけないよ。
〈子供のままで〉
齢二十二。
「歳を食っただけの奴は大人ではない」というのは私の持論だが、同時に私個人に指した嘲笑でもある。
揚げ物や味濃い物は胃が受け付けず、唐揚げを食らう友人の横で冷奴と出汁巻きをつつく。整骨院へ赴けば、骨盤が歪んでいる、全身の凝りが二十代の代物ではないと哀れまれた。
正直、己で己の歳を疑う。時折に免許証の生年月日欄を確認する程に。今でこうならこの先は?老いとはこうも早いのか?
恐らく身体が死に近付いている。
昨日は、露台でしゃぼん玉を吹いた。大きくなるよう慎重に。先月末は田舎の実家へ帰り、手当り次第買い揃えた花火を遊び尽くした。地味に工程の多い知育菓子を丁寧に作り、完成品に感動もした。
綺麗を綺麗と、楽しいを楽しいと恥じず言葉にするまで長い時間を費やした。天邪鬼な幼少期には到底出来なかった進化。些細な事柄であり、我ながら年老うことの利点でもある。性急すぎる身体の老いは辛いものがあるが。
純真無垢に子供でいられることの何と幸せなことか。
それに然と気付く暁が、もうお前が過去を偲ぶ廃人になってしまったという証明をしてしまうだろう。
そうやって日に日に汚れ腐ることが、大人になる条件の一つだ。
〈初恋の日〉
「女は常に、今が初恋」なのだという。
…いや、経験の浅い私が語っても、特段面白くはないか。
では一つ。こんな時間から貴方の頭を抱えさせる、小汚い私の恋愛談を提供させていただきたい。
前提として、私には収集癖がある。
当時お付き合いしていた子の、抜けた髪、切った爪を小瓶に詰めた。食べかけの食物、使用済みちり紙、未洗濯の衣服等を専用に買った冷蔵冷凍庫で保管した。盗撮写真を額に飾り、祭壇まで置いた恋人崇拝の隠し部屋があった。
ここには記せない物も揃えたものだ。当然本人には秘密にしていたが。
金も時間も愛も惜しまず捧げはしたが、別れの際は淡白なもので、汚物を捨てる感覚で隠し部屋を掃除した。
その時から今でも、その部屋は伽藍堂だ。
今や彼らとの記憶はほぼ残っていない、愛してはいたつもりだった。
そんな顔しないで。昔の話ですから。
ところで。
私の初恋相手、次は貴方なんです。
〈明日世界が終わるなら〉
“何もしない”
私は何もしない。どうせ。
御高尚であろう方々は恐らく「愛する人へ感謝を…」なんて仰っているのだろう。いやはや、眩いに尽きる。
私は生涯中学二年生の精神が脳にこびり付いているが故、そんな終末空想は幾度とこなした。斜に構えた思考は専売特許とも言える程度に。
仮にどこかの頭脳明晰な御人や、百戦錬磨の予知能力者が終末を悟ったとする。しかし恐らく我々には何も知らされないのだ。
気付けば世界が終わっている。
気付けば己の体が死んでいる。
そんなものなのだ、案外。いくら我々が気に掛けたとて。
清廉で御高尚な貴方、何を未だこちらを見ているか。早急に端末を置き、思いつく限りの恩人に感謝でも述べてくるといい。
明日なんて悠長に構えてはいけないよ。
私はいいんだ、もう終末に備えて布団を敷いたところだから。
〈平穏な日常〉
切望している。喉から手どころか、全身出る程に。
多感な学生時代は、それこそ波乱万丈で、奇々怪々な人生を欲していたものだが。「私は他の奴らとは違う」と信じて疑わず、柄にもなく主人公へ想望していたのだ。
大概大人というのはきっと、自分が特別ではないと悟った瞬間に始まってしまう。それは諦念でもあり、踏ん切りでもある。
若かりし感情を懐かしく思える程には私も歳を重ねた。
思えば昔も今も波乱万丈であった気はする、私が望むような形ではなかっただけで。そんなに良いものでもないんだな。
今日は布団から出ず安寧を欲している。月並みの平穏なんぞ、今時世、それを手に入れられる方がきっと特別なのだ。
青臭かった私よ、奇しくも願いは叶っている。
そのおかげで、今にも潰れそうだ。