へっぶ。
変なくしゃみが出た。
ティッシュを数枚手に取り、盛大に鼻を噛んだ。鼻水の色をチェックしてから、汚れたティッシュをゴミ箱に投げる。
こうしていると、子供の頃にしていた遊びを思い出す。ゴミ箱にゴミが入らなかったら〝死〟ごっこ。
誰かが失敗しようもんなら「はい今死んだー!」と囃し立てて、すると言われた側も「いや、今のはナシで」とかムキになって。死を帳消しにした回数は、知人の中で自分が一番多いと自負している。
無邪気な子供の頃はともかく、今はあんなぜいたくなティッシュの使い方はできない。関係ないけど、身体が弱っているときはどうでもいいことばかり思い出して困る。
今ようやく、ゴミが床に落ちた。
「んー……明後日くらいかな?」
この遊びが世界中に伝わればいいな。
両親に愛された記憶はない。
ことあるごとに妹のことばかり気にかけて、姉である私にはちっとも見向きもしないような親だったから、当然といえば当然なんだけど。
それが寂しくなかったかといえば嘘になる。
私は構ってもらおうと必死だった。父と母の気を引くことに必死だった。でもその私の姿は、両親の眼中にも入っていなかったようで。
そんな両親が、妹相手にはいつも妹の背の高さと目線を合わせて、話を聞いていた。同じ年頃の子供の中でも妹は小さかった。それなのに、わざわざ身体を屈めて、うんうんと頷きながら。
微笑ましい三人の光景を横から見ていた私は、子どもながらに、人間は平等じゃないと思った。
両親が不在だったある日。妹が「遊んで」とねだってきた。
その日は妹の誕生日の翌日だった。誕生日当日には、盛大に父と母から祝ってもらっていた。
妹が大きなバースデーケーキのろうそくの火を吹き消している横で、私は紙のストローを噛みながら、何とも味気なく見ているだけだった。
そんな妹が。父と母から存分に愛情を授かっている妹が。両親からの愛情では飽きたらず、私からも何かを搾取しようという。
信じられなかった。無邪気なはずの妹の笑顔が悪魔の笑顔に見えた。
私の中で熱く汚く滾るものが限界を迎えて溶け出す。
私は腰にまとわりついてきた妹の手を、叩いて払いのけた。妹はよろけて、そのままテーブルの角に頭をぶつけた。
妹は火が付いたように大泣きを始めた。その大きな泣き声に驚いた私もまた泣きそうになった。
違う、私のせいじゃない。急に触ってきたこいつが悪い。
そう自分の中で言い訳をしながら、いまだにひっくひっくと泣きじゃくる妹を放置したまま、なにもしなかった。
母親が帰ってくると、家の中の惨状にあぜんとしていた。
けれどわりとすぐに落ち着きを取り戻した母親が、すすり泣く妹をすぐさま病院に連れていった。
外は曇っていた。暗い家の中に取り残された私は、妹の手を振り払ったことを後悔して泣いた。
夕方になったころに、病院から妹と母が帰ってきた。
同時に父も帰ってきた。恐らく妹の怪我の連絡を受けて慌てて帰ってきたのだろう。妹は頭に包帯はしていたけれど、安らかな顔で眠っていた。
母が妹を寝かしにいったときを見計らうように、父に身体が吹っ飛ぶほど殴られた。今までさんざんな扱いを受けてきた自覚はあるが、殴られたことは一度もなかった。
血の味のする口の中を舌で探ると、何やらころんと硬いものがあった。恐る恐る吐き出してみる。歯だった。
今思えば、もともと抜けかけだった乳歯が抜けただけと分かる。だが殴られた当時の私にとっては、殴られた痛みより、歯が抜けたショックのほうが大きかった。
痛みは普通に生活していればついて回るものだが、歯が抜けるという非日常感といえば、当時の私にとってなかった。もし今の私が永久歯を失う恐怖感とさえ比べ物にならない。
しばらく立ち上がれずにいると、そのとき母が戻ってきた。目の前の惨状を見て息を飲むくらいには、無様な倒れっぷりだったに違いない。
「一人目が流れなければなあ……」
母の虚ろなつぶやきがやけに耳についた。
一応、私の耳に入らないように声量を絞っている。母はデリカシーがかけらもない父と違い、私に対する配慮も一応はしているのだ。が、しっかり聞こえていた。
母が私を産む前に、別の子を妊娠していたのを知らされたのは大人になってからだ。つまり私には兄か姉がいたのだ。
だが子どもにその言葉の意味がわかるわけもない。
大人になった今でも考えたくもないのに、当時の私が考えるわけもなかった。でもとても残酷な意味を持っているような気がしたのだけは覚えている。
心と心、heart to heart、ココロ……。
神の言葉選びは崇高すぎて、正直基準がよく分からない。
でもそれを分かろうともしない人間は低レベルで猿にも劣る。私がまさにそうだ。
必ずしも命に沿わなくてもいいっていう神からの心尽くしのメッセージかもしれないのに。
彼女は胸の谷間を強調した露出度の高いドレスで、上目遣いで僕におねだりをする。
「ねえ、あたし今月売上足りないの。このままじゃお店クビになっちゃう」
気がつくと、財布が軽くなっていた。ついでに店からも放り出されていた。
でも彼女の笑顔を見るための散財なら、いくらだって痛くない。
この娘をひと目見たときに決めたのだ。
行く行くは自分のネイルサロンを開業したいらしい彼女のために、その目標の道しるべとなる星になる、と。
たとえ都合のいいATM程度にしか思われていなくても、いいのだ。
いいのだ……。
首輪をつけられた彼が、異星の公道を四つん這いで歩く。道を二足で歩く犬たちに笑われ、膝や手に擦り傷をつくりながら。
完全に犬の散歩である姿を直視するのは、かつてあの人に飼われていた身としては辛い。
散歩させられているのは、元僕の飼い主だ。
この世界では、イヌとヒトの常識があべこべになっている。
だからイヌは服を着て二足歩行し、人間はご飯を食べるときでも、トイレをするときでも、寝るときでも……その、全裸だ。
この屋敷の持ち主である狼みたいな犬が、いつも僕に対して言っている。
「ペットが服を着るか? お前、こいつに服を着せてもらってたかことあるか?」
比喩とかではなく狼そのものの顔で責められると、小心者の僕は何も言い返せなかった。
彼は、この屋敷の持ち主である狼男のペットであり所有物であり、同時に壊してもいいおもちゃだった。
新しい名前も与えられている。とても人間の名前とは思えないような、屈辱的な名前が。
嫌がる彼を無理やり散歩に連れていき、けけけと愉快そうに笑っている狼男の姿を見かけると、いつも微妙な気持ちになる。
彼も最初のころは自尊心があった。
ドッグフードは食べたくないときっぱり断ったり、首に鎖を繋がれながら全裸で散歩をすることに抵抗を見せたりしていた。
だが飢えには堪えられないのは、イヌもヒトも同じだ。
ヒトの食事を与えられず、半ば断食状態にあった彼は、五日目になってとうとうドッグフードに手を伸ばしてしまった。
それに安堵していた僕だけではなく、屋敷で働く犬のほとんどだった。下に見ている人間とはいえ、餓死させては夢見が悪すぎる。
「水で五日か。人間は堪え性がないなあ」
狼男は、けけ、と意地悪く笑った。おとぎ話に出てくる狼男でも、たぶんここまで意地悪じゃない。
この星のイヌは、みんなヒトを下に見ている。だから僕だけは彼の味方でいたい。
けど分かるのだ。この星に来てから三ヶ月も経っていない僕の本能が、この世界に同化しつつあるということが。
彼も人間だったころの記憶がだんだん薄れつつあるようだ。ここ最近は夜も逃げ出そうとせずに、犬小屋でおとなしく寝ている。
僕はこの世界に染まっていく自分を認めたくない。
人間の記憶を忘れ去ろうとする彼を見ていると、たまらなく切なくなる。それでも何もできない自分の無力さが歯がゆい。
「それはできないんじゃなくて、努力をしていないんじゃないか?」
意地悪な狼男に、核心を突くような一言を言われたときはどきっとした。
「いや、別に悪いことじゃない。そういう存在に成り下がったんだよ、あの人間は」
違う、と否定しようとしたけど、声に出ない。おかしいな。せっかく言葉を話せるようになったのに。
たまに当てつけのように、彼の世話を任されることがある。
鞭で傷だらけの背中を見ていると、彼がまだ人間だったころに言っていた言葉で、ひとつだけ思い出せるものがある。
『知ってるか? 人間の肩甲骨は天使の翼の名残なんだってさ』
いつか彼が、健康的な色の背中を突き出しながらそう言った。たかが犬の僕に。
君の背中から、どうか羽根が突き抜けて出てきてほしい。
そうしたら君はあの粗末な犬小屋から抜け出して、人間の尊厳も取り戻せる。
そう願いながら、僕はまた鎖を犬小屋に繋いだ。
(犬の惑星if)