心と心、heart to heart、ココロ……。
神の言葉選びは崇高すぎて、正直基準がよく分からない。
でもそれを分かろうともしない人間は低レベルで猿にも劣る。私がまさにそうだ。
必ずしも命に沿わなくてもいいっていう神からの心尽くしのメッセージかもしれないのに。
彼女は胸の谷間を強調した露出度の高いドレスで、上目遣いで僕におねだりをする。
「ねえ、あたし今月売上足りないの。このままじゃお店クビになっちゃう」
気がつくと、財布が軽くなっていた。ついでに店からも放り出されていた。
でも彼女の笑顔を見るための散財なら、いくらだって痛くない。
この娘をひと目見たときに決めたのだ。
行く行くは自分のネイルサロンを開業したいらしい彼女のために、その目標の道しるべとなる星になる、と。
たとえ都合のいいATM程度にしか思われていなくても、いいのだ。
いいのだ……。
首輪をつけられた彼が、異星の公道を四つん這いで歩く。道を二足で歩く犬たちに笑われ、膝や手に擦り傷をつくりながら。
完全に犬の散歩である姿を直視するのは、かつてあの人に飼われていた身としては辛い。
散歩させられているのは、元僕の飼い主だ。
この世界では、イヌとヒトの常識があべこべになっている。
だからイヌは服を着て二足歩行し、人間はご飯を食べるときでも、トイレをするときでも、寝るときでも……その、全裸だ。
この屋敷の持ち主である狼みたいな犬が、いつも僕に対して言っている。
「ペットが服を着るか? お前、こいつに服を着せてもらってたかことあるか?」
比喩とかではなく狼そのものの顔で責められると、小心者の僕は何も言い返せなかった。
彼は、この屋敷の持ち主である狼男のペットであり所有物であり、同時に壊してもいいおもちゃだった。
新しい名前も与えられている。とても人間の名前とは思えないような、屈辱的な名前が。
嫌がる彼を無理やり散歩に連れていき、けけけと愉快そうに笑っている狼男の姿を見かけると、いつも微妙な気持ちになる。
彼も最初のころは自尊心があった。
ドッグフードは食べたくないときっぱり断ったり、首に鎖を繋がれながら全裸で散歩をすることに抵抗を見せたりしていた。
だが飢えには堪えられないのは、イヌもヒトも同じだ。
ヒトの食事を与えられず、半ば断食状態にあった彼は、五日目になってとうとうドッグフードに手を伸ばしてしまった。
それに安堵していた僕だけではなく、屋敷で働く犬のほとんどだった。下に見ている人間とはいえ、餓死させては夢見が悪すぎる。
「水で五日か。人間は堪え性がないなあ」
狼男は、けけ、と意地悪く笑った。おとぎ話に出てくる狼男でも、たぶんここまで意地悪じゃない。
この星のイヌは、みんなヒトを下に見ている。だから僕だけは彼の味方でいたい。
けど分かるのだ。この星に来てから三ヶ月も経っていない僕の本能が、この世界に同化しつつあるということが。
彼も人間だったころの記憶がだんだん薄れつつあるようだ。ここ最近は夜も逃げ出そうとせずに、犬小屋でおとなしく寝ている。
僕はこの世界に染まっていく自分を認めたくない。
人間の記憶を忘れ去ろうとする彼を見ていると、たまらなく切なくなる。それでも何もできない自分の無力さが歯がゆい。
「それはできないんじゃなくて、努力をしていないんじゃないか?」
意地悪な狼男に、核心を突くような一言を言われたときはどきっとした。
「いや、別に悪いことじゃない。そういう存在に成り下がったんだよ、あの人間は」
違う、と否定しようとしたけど、声に出ない。おかしいな。せっかく言葉を話せるようになったのに。
たまに当てつけのように、彼の世話を任されることがある。
鞭で傷だらけの背中を見ていると、彼がまだ人間だったころに言っていた言葉で、ひとつだけ思い出せるものがある。
『知ってるか? 人間の肩甲骨は天使の翼の名残なんだってさ』
いつか彼が、健康的な色の背中を突き出しながらそう言った。たかが犬の僕に。
君の背中から、どうか羽根が突き抜けて出てきてほしい。
そうしたら君はあの粗末な犬小屋から抜け出して、人間の尊厳も取り戻せる。
そう願いながら、僕はまた鎖を犬小屋に繋いだ。
(犬の惑星if)
「人を食べたことってありますか?」
いつになく神妙な態度で発された問いに、凍りついた。キーボードを叩いていた手を離し、恐る恐る隣に座る男に目を向ける。
彼は通常通り欠けたところのない、非常にバランスの取れた笑みを浮かべていた。
この笑顔を見ていると、こんなことを聞いてくる彼を異常だと思ってしまうわたしの方が異常なのだと錯覚させられそうになる。
「まあ、僕はないんですけどね」
彼はのほほんとした声色で「おいしいらしいですよ。知らないけど」と付け足した。目の前の顔をひっかいてやりたくなった。
「で、どうですか」
彼が続けて尋ねてきた。何やらそわそわした様子で。
「はあ……何がですか?」
平坦な声で無難な返答をすると、彼は「察しが悪いな」と言わんばかりに盛大な溜め息をついた。
「僕といっしょに、世界のカニバリズム文化を体験する旅に出かけませんか?」
食べて、食べて、たまに少し食べられて、また食べて……。彼は目を閉じて、少し口元を緩めて話す。
会社の備品であるキーボードを叩き割りそうになった。沸騰寸前の鍋みたいに指先がぐらぐらと震える。
――今、この男は何と言った? カニバリズム文化を体験?
頭を振った。そんな文化、体験したくない。人の肉をかけらでも食べるなら、一週間裸族体験するほうがマシだ。
逡巡ののち、最初の言葉の重大さにようやく気がつく。同行者が、この男……?
うぶ毛までもが総毛立った気がした。
冗談にしても、面白くないを通り越して不愉快極まりない……!
「ぜーったいに、い・や・で・す!」
思わず腹から力を出して叫んでしまった。一字一字刻みながら。
今まで適度なざわめきを保っていたオフィスがしんと静まり返った。同僚たちの視線が突き刺さる。
わたしは羞恥心から一気に身を縮こませた。元凶はこの男なのに、何か理不尽だ。
ちらと隣に目をやると、彼は涼しい顔でかかってきた内線電話を取っていた。
「はい福祉課ですう」じゃないよ。あんたが一番いちゃいけない課だっつーの。ていうかあなたこの仕事向いてないよね。
壁に両手をつき、そっと耳を押し当てる。
すると薄い壁だから、たちまち聞こえてくるのだ。隣に住んでいる男女の会話や、生々しい生活音とかが。
僕が盗み聞きなんてはしたない真似をするようになったのは、半年前、隣の部屋にその男女が越してしたことが発端だった。
引っ越して当日の夜からさっそく、夜道を最速で走るバイクのような爆音が壁を突き抜けて聞こえてきた。
何事かと耳を澄ますと、お互いに論理がめちゃくちゃな主張を喚き散らしていた。酔っているのか、二人とも日本語もまともではない。
あなたのせい。いやお前のせいだ。
喧嘩するほどとはいうけど、あの荒れ模様は度が過ぎている。
ところが、僕の偏った頭は歓喜していた。
もっと喧嘩しろ。もっと荒れろ。そして別れろ。ついでに世界中の美男美女カップルが消えろ。中の上、もしくは中の中たまに下の下くらいの顔が世間にあふれれば、僕はもっと生きやすくなる。
コンプレックスの塊の思考の中、ふと思った。あの女性は一体どんな風に怒りを表すのだろうか――。
そのとき、女性の甲高い悲鳴が耳をつんざいた。
髪を鷲掴みにされた上、床に引き倒されたらしい。やっぱり。知能でも力でも女は男に劣るから。
だが次の瞬間、男の低い呻き声が聞こえてきた。色っぽい声ではない。苦痛を伴う声だ。その上に、女の荒い息遣いが重なる。
僕はラジオのスポーツ中継でも聞いているような気分で、自然に男の方に感情移入して応援していた。
(がんばれ! 女なんかに負けるな!)
そのとき僕の頭の中には、黒髪を振り乱し、凄まじい形相で怒りまくる日本人形の姿があった。だって家具の搬入のときに一度だけ見かけた新顔の女性が、日本人形そのものだったから。
僕は昔見たアニメに出てきた日本人形と、隣の女性を重ねていた。
その人形は肘や肩や腰や膝の関節を、めちゃくちゃな位置で折り曲げながら迫ってくる。当時子供だった僕は恐ろしさにぞっとした。
だがそのアニメが、僕に何かを目覚めさせるきっかけでもあった。
そして今隣の部屋では、とても信じられないがあのアニメとまるで同じ現象が起きている。
壊されそうになりながらも、あの日本人形は最後の力を振り絞って――。
二人の喧嘩がフィニッシュを迎える頃には、寝酒にと用意していた熱燗はすっかり冷たくなっていた。