『君が隠した鍵』
ストレッチを終えた彼女がマットを片づけ、再びリビングに戻ってくる。
そんな彼女に声をかけて、ポンポンと自分の太ももを叩いた。
「どうしたの?」
たったそれだけの仕草で、彼女は俺の上半身を背もたれにして座り込む。
同棲まで持ち込み毎日がんばって彼女を甘やかした、俺の努力の成果だった。
彼女の腹に腕を回してさりげなく逃げ道を塞いで話しかける。
「3年も俺の告白を断ってくれたわけですけど」
「その前置き、イヤな予感しかしないな?」
「俺を好きになったきっかけってなんだったんです」
「ほらぁ」
心底嫌そうに渋い声をあげて、彼女は俺から逃げ出そうとする。
だが、既にガッチリホールドされていることに気がついた彼女は治安悪く舌打ちをした。
「今さら、そんなくだらないこと聞いてこないで……」
「まぁまぁ」
雑に宥めて彼女の返事を待つが、一向に口を割る気配がない。
何十分、耐久するつもりだろうか。
それはそれで最高にかわいく照れる彼女ができあがりそうだと、俺も腹を括って耐久レースにつき合うことにした。
「顔」
「え」
決意した矢先、彼女はそう吐き捨てる。
真面目な彼女のことだから、てっきり内面に寄せた言葉が返ってくると予想していたのに、当てが外れた。
「マジすか?」
思いのほか明け透けでストレートな言葉に、つい聞き返してしまった。
「不服?」
「いえ。光栄です」
彼女の父親も兄も暴力的な顔面偏差値だ。
イケメンなんて見慣れているだろうし、美的水準の高い彼女からのその評価はいささか過分ではある。
もう少し細かく突いてみようとしたとき、彼女がモジモジと膝を擦り合わせた。
「眼鏡のフレームの色がかわいかった」
「はあっ!?」
ぽぽぽぽっ、と恋する乙女ばりにかわいく耳の裏側を赤らめているが、はぁあああっ!?
もしかして俺ではなくて眼鏡!?
しかもフレームの形ではなく色ぉ!?
フレームだって、オーソドックスなスクエアタイプだ。
色も黒と紺というアンパイな2色しか持ち合わせていない。
つまるところ、だ。
「からかってますね?」
後ろから顔を覗き込むと、彼女はペロッと舌を出した。
「バレたか」
悪びれることなく彼女は肩をすくめる。
拗ね散らかした俺は、その小さな肩に額をグリグリと押しつけた。
「かわいいけど、そんなんじゃ俺はごまかされませんからね?」
「じゃあ、これは?」
俺の右手を両手で包み込んだ彼女は、その甲に音もなく口づけた。
ハムハムと俺の指先を甘噛みまでしてくるから始末が悪い。
頬を染めながら控えめに見上げてくるから、左手で顔を覆って天井を仰いだ。
「かわいいっ!!!!」
「ごまかされた?」
にんまりといたずらに目を光らせる瑠璃色の瞳にたじろく。
核心に踏み込むための鍵を、彼女は開けるつもりはなさそうだ。
俺がデリケートな部分に強引に触れられないことを、生意気に弧を描いた彼女の唇は確信している。
とはいえ、素直に絆されるのは悔しいから、それなりの見返りを求めることにした。
「ごまかされてあげますから、ちゃんとお口にチューさせてください」
「んふふっ。いいよ?」
彼女の余裕ぶった態度をぺしょぺしょに屈服させるくらいはさせてもらう。
彼女の背を床に押し倒して、薄桃色の唇をさらっていった。
『手放した時間』
ベッドに横たわって携帯電話を手にしたとき、SNSやメッセージアプリの通知が溜まっていたことに気づく。
マメなほうだと自認していたが、最近はこういうことが増えていた。
まだ手軽に捌ける量だが、ポップアップ通知が溜まっていくのは気持ちが悪い。
アプリ設定をいじくり回して表示を減らした期間もあったが、アイコンに赤丸の数字が表示されるのも落ち着かなかった。
結局、通知をオンにして小マメに確認するという手法に戻っている。
「どしたの?」
風呂上がりでほかほかになった彼女から声をかけられた。
「え?」
携帯電話から目を離すと、彼女はベッドの隅で頬杖をついて俺をマジマジと見つめる。
「なんか難しい顔してた」
「そんな顔してませんよ」
ムーっと眉を寄せた彼女の眉間にできたシワを、両手の親指を使って伸ばした。
ほっぺたホクホク。
顔ちっちゃ。
なんて夢中になっていれば、コロコロと彼女はくすぐったさそうに顔を逸らす。
「えー? してたよー?」
ベッドの隅を支えに、彼女はネコのようにしなやかに背中を伸ばした。
そして何食わぬ顔で俺の隣に潜り込む。
外干しした羽毛布団を首元までしっかり覆ったあと体を丸め、俺の肩口にすり寄せた。
「捌かなきゃいけない用事ができたなら無理して私にかまわなくていいよ?」
「かまう……」
なるほど。
通知が溜まるようになったのは、それだけ彼女を甘やかしているせいか。
1日24時間という限られた時間を彼女に割いていたのだ。
通知が溜まるのは当たり前だし、仕方がない。
携帯電話をベッドボードの上に置いて、彼女を抱き締めた。
「いえ、あなたを待っていただけなので大丈夫です」
柔らかい青銀の前髪を撫でると、風呂上がりの甘やかな香りに誘われる。
顔を寄せていけば、わずかに体をこわばらせた彼女がキツく目を閉じた。
……無防備。
きれいな曲線を描く額の上に唇を落とすと、長い睫毛が不満気に持ち上げられる。
「どうかしましたか?」
「別に」
ツンと意地を張った彼女が、寝返りを打って背中を向けた。
はらりと揺れた毛先から細くて白い頸を覗かせて、それはそれで情欲を煽られる。
「ね、こっち向いてくれませんか?」
「なんで」
頸から浮き出た骨の山に触れれば、彼女の肩がビクリと跳ねた。
そのままシャツの上から薄くなっている皮膚を撫でる。
震える肌と連動して、湿り気を帯びて短く詰まった声がシーツの上に溢れていった。
「まんまるな後頭部を眺めながら銀色の髪を1本1本数えて朝を迎えるのも実に有意義な夜を過ごせそうですけど、俺としてはそろそろ下睫毛も数えてみたいなと思いまして」
「め、目ン玉、塞がってんのにどうやって数えるつもりだよっ!?」
もっともらしい反論を捲し立てて、彼女は勢いよく振り返る。
目が合えば俺の思惑に乗せられたと悟った彼女が、気恥ずかしそうに顔を背けた。
「……っ。時間は、もっと有意義に使えよ」
あー。
かわいー♡
「使ってますよ?」
「どこが」
不貞腐れてついに足まで使って毛布を占領するという、小賢しい手段を使ってくる始末だ。
くるくると毛布でミノムシと成り果てた彼女の上にのしかかってやる。
「大切な人と時間を共有できる以上の有意義なひとときなんてありますか? あるはずないでしょう」
「や、あるだろ……」
「ありません」
「ある」
強情め。
そういうところもたまらないけど。
大した抵抗もしないから、毛布を剥ぎ取って覗いてみる。
耳まで赤く染まった彼女の姿に、顔が緩んだ。
きまり悪くなるとすぐに下唇を噛む彼女の仕草をやめさせるために、親指で撫でる。
小さな水音を立てたとき、されるがままだった彼女が俺の指を握りしめた。
「でも、うん……。ありがと」
幸せが詰まった彼女の頬に俺の指が触れた瞬間、彼女から素直さが溢れ出る。
「うれしい」
はにかんだ彼女の笑みはキラキラとまばゆかった。
彼女の姿を視界いっぱいに満たしたくて、距離を詰める。
「ねえ。キス、させてください」
薄い桜色の唇のすぐ近くで囁けば、先ほどと同様に、彼女は静かに瞼を伏せた。
『紅の記憶』
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いつもありがとうございます。
露出が多いためご注意くださいませ。
苦手な方は「次の作品」をポチッとするなど、各々で自衛をお願いいたします。
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リビングのソファに背中を預けて、SNSのチェックをしていたときだ。
風呂から戻ってきた彼女がいつもより距離を縮めて座る。
「ねえ、それ……」
「え?」
少しむくれた彼女が指を差した先はシャツの襟ぐりの際だった。
「胸元のヤツ」
「ああ……」
これか。
鎖骨についたキスマーク。
痕を残したのは彼女だ。
気まずそうに視線を泳がせた彼女に、俺は意地悪く眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「忘れちゃったんですか?」
ことの発端は昨夜の情事までさかのぼる。
*
軋むベッドの上で熱を吐き出したあと、彼女の鎖骨のすぐ下を指で這わせた。
余韻を残した彼女の肌は素直にその刺激を拾う。
「ここ、つけていいです?」
「……」
恍惚とした表情で皮膚を震わす彼女は美しく艶めいていて、思わず生唾を飲んだ。
「……大丈夫ですか?」
「あ、ごめん。平気、大丈夫」
うなずく彼女のその返事が、痕を残すための許可ではないことくらいわかっている。
いつもの通り、俺が都合よく解釈の幅を広げているだけだ。
また、怒られるだろうな。
フッと息を溢したあと、唇を彼女の鎖骨に寄せる。
息を詰めて小さな刺激に耐える彼女は扇状的だ。
どさくさに紛れてあとひとつくらい、と魔がさしたとき、彼女がおずおずと口を開く。
「……ねぇ。私もつけてみていい?」
「え」
目配せすると、さっきまでぽやぽやと微睡んでいた瑠璃色の瞳が好奇心に輝いていた。
「あ、ダメ? れーじくんの肌、きれいだからもったいない気もするんだけど……」
「はあ?」
きれいなのはきめ細かく白磁のような肌をしている彼女のほうだ。
起き上がろうとする彼女の背中を支えながら、顔を覗き込む。
「痕を残すのはかまいませんけど、どこにつけるつもりです?」
場所までは考えていなかったのか、数度、瞬きを繰り返した。
俺と目を合わせたまま、彼女はスッと細い指で自身の鎖骨に咲いたばかりの紅い華を撫でる。
「……れーじくんと、一緒の場所」
「すけべ♡」
「違う……」
ふるふると羞恥に染まるものの、キスマークを残したいという欲求には勝てなかったらしい。
俺の言葉を一蹴した彼女は、その震える唇を俺の肌へと乗せた。
……の、だが。
ぴちょぴちょとかわいい水音を立てるばかりで、待てど暮らせど痕がつく気配がなかった。
「ん……、うぅ」
普段、彼女がなんでもそつなくこなすのは、たゆまぬ努力があってのことらしい。
快感とはまた別のくすぐったい刺激に、ギュンっと胸が締めつけられた。
「ぁむ?」
……かわいい。
いっそのこと、もうガブッと噛んでほしい。
なかなかつけられないキスマークに、彼女自身ももどかしそうに眉毛を下げ始めた。
彼女の頭を撫でて気持ちを落ち着ける。
「それじゃ、いつまでたってもつきませんよ?」
「あぶぅ……」
かぷかぷと俺の腕に吸いついたまま、涙目で視線だけを持ち上げる彼女の姿は生殺しにも程がある。
「……」
愛おしそうに顔を蕩けさせて、本当に、なんて表情を俺に向けてくれるのか。
「ほら、怖がらずにもっと強く吸ってください」
「ん」
焦ったいほど時間をかけてようやく、不恰好で小さな紅い華が、俺の鎖骨のすぐ下に咲いたのだった。
*
彼女の愛らしい姿が忘れられなくて、今日はワザと襟ぐりの広いシャツを着ている。
彼女の肩を抱き寄せて、これみよがしにキスマークを見せつけた。
「昨日の夜、かわいい子に刺されたんですよ」
「かわいい子って……。やめて」
頬を染めながら恥ずかしそうに胸元を押し返す。
「がんばったから、ちゃんと覚えてる」
唇を尖らせて不貞腐れて額をグリグリと押しつけた。
「でも、こんな、アザみたいになるなんて……思わなく、て」
「まあ、言い回しは多々ありますけど、しょせんは内出血ですからね?」
見た目で言うなら、俺が彼女につけた痕だって同様にくすんでしまっている。
いつまでも鮮度を保っているわけではないからこそ、何度でも刻みたくなるのだ。
「ごめん」
「どうして謝るんです?」
「傷つけた……」
「俺はうれしいですけどね?」
「なんで?」
「それだけ、あなたに愛されてるってことでしょう?」
「うん。好き」
ぐぅ……っ!
言わせただけだけど、毎回毎回かわいいな?
緩む口元を押さえていると、彼女は慌ただしくソファから立ち上がった。
「でも、できる気がしないからもうしない!」
不器用なタイプではないから、コツさえ掴めばすぐにうまくなるだろう。
しかし、毎回あの据え膳をお預けされるのは我慢ならなかった。
「それは残念です」
ツンと照れ散らかした彼女の言葉にここは素直にうなずいて、今日のところは引き下がる。
『夢の断片』
ベッドの上で俺を押し倒して、明確に誘い込む彼女のあられもない姿に息を呑む。
「ちょ、待って」
「なんで?」
「なんでっ、て……」
俺の上で跨った彼女の姿はまさに絶景。
艶を帯びた瞳と唇で迫られ、普段の澄ました態度からは想像もできないほど直情的に迫られて理性を煽られた。
下腹部を刺激されて背筋に昂っていく高揚と期待。
シャツのボタンを外す衣擦れを敏感に察して、生唾を飲んだ。
「ねぇ。早く、シよ?」
頭が沸騰する言葉に顔面を覆う。
バクバクと心臓の音が激しくなり、彼女の声音をかき消したときだ。
ぼやけた視界に入ったのは、彼女の姿ではなく見慣れた天井。
けたたましく鳴り響く目覚まし時計のアラーム音で、俺は全てを察した。
俺は、彼女のいかがわしい夢を見たのだろう。
……最悪だ。
あまりのいたたまれなさに、急いで洗面台へ向かって頭を冷やした。
だが、冷水を浴びても艶かしく俺を翻弄する彼女の姿はなかなか脳裏から離れてはくれない。
聞こえてくるはずのないしどけない声や、淫猥な水音は夢が覚めた今でも耳奥に残っていた。
ああああぁぁぁぁっ!!
かわいかったけれども!
夢なら好き勝手に手を出せばよかったと思う反面、昨夜は昨夜でしっかり彼女とは肌を重ねていた。
それにもかかわらず、彼女を渇望する自分の厚かましさにドン引きする。
つき合いたてじゃあるまいし、なんで今さら……。
彼女が既に家を出ていて助かった。
あんな夢を見てしまって顔を合わせるとか気まずいどころではない。
室内とはいえ、早朝の静寂に包まれた空気は冷たく肌を刺した。
*
仕事、家事、持ち帰り作業。
煩悩を消し去りたくていつもより身を粉にして動いていたが、徒労に終わった。
意識しないようにすればするほど、彼女の色香に惑わされる。
悶々としているうちに彼女が帰宅してしまった。
「ただいまーっ」
「……おかえりなさい」
リビングで彼女を出迎えた俺は、帰宅早々、彼女をソファに押し倒す。
「ぅえっ?」
はらりと乱れた青銀の横髪を流して、瞬きを繰り返す大きな瑠璃色の瞳を見つめた。
しかし、今はどうしても薄い桜色の唇に目が移ろいでしまう。
一日が終わるというのに、彼女の唇は瑞々しくて艶を帯びていた。
「な、なに? なんか怒ってるの?」
「いいえ、特には」
唇に伸ばしてしまいそうになる手を必死に抑えながら、彼女に迫る。
「早速で申しわけないのですが、帰宅後の新婚三箇条をお願いします」
「なにそれ?」
「飯風呂私のお決まりの口上のことです」
「たった今、帰ってきたのは私のほうなんだけど」
眉をひそめながら脱走を図ろうとする彼女に、俺はさせまいと応戦した。
「そんな瑣末なことはいいですから」
「瑣末ではないだろ」
経験上、逃げられないことを察しているのだろう。
最終的に、ゲンナリと息を溢す程度の抵抗を見せたあとは、おとなしく観念した。
「風呂、飯、私……、その順序でなら受け入れる」
……は?
投げやりながらも協力的な彼女の態度は、俺の理性にヒビを入れる。
「新婚三箇条と言ったら、キス、ハメ、ハグでしょうが」
「5秒前に言った自分の発言を振り返れっ! このドすけべっ」
「おふっ!?」
さすがに流されてはくれないらしい。
お転婆で容赦のない膝が俺の脇腹に飛んできたが、なんとか耐えるとができた。
「実物を見たら夢なんてどうでもよくなるほど、あなたがかわいくておかしくなりそうです」
「はあっ!? れーじくんの様子がおかしいのは今に始まったことじゃないじゃんっ!!」
「元はといえば、夢であなたが俺をえっちに誘惑したせいです。責任取ってください」
「ゆ、夢ぇ!?」
俺の言葉に彼女のお口の治安が無法地帯と化した。
「そんなの知らないし、聞いてないからっ! 勝手に理性飛ばして責任押しつけてんじゃねえよっ!」
だったら夢以上にかわいく照れないでくれ。
彼女の正論は、今の俺には正しく響いてこなかった。
もどかしそうな衣擦れ、ソファの軋み。
紅潮した頬、浅くなる息づかい。
触れる滑らかで柔らかな肌、高くなる体温。
強気な言葉とは裏腹に、困ったように逸らされた視線。
一日かけてすり減った理性は、彼女という存在で一気に瓦解した。
「とりあえずおかえりなさいのチューはします」
「ん、んんーっ!?」
むちゅむちゅと彼女の唇を強引に奪う。
夢なんかよりも蠱惑的に蕩けていく彼女の姿を、目に焼きつけていった。
『見えない未来へ』
俺が離れようとしていることを、おそらく彼女は察していた。
「私のことを舐め腐って売られたケンカに、私は負けるつもりはないよ」
婚姻届が受理されたその足で勃発した夫婦喧嘩は、彼女の勝利宣言で幕引きとなる。
俺が彼女のバランスを崩したせいで、もがいて、傷ついて、苦しんでいた。
日に日に憔悴して、唇を噛み締めて感情を押し殺す彼女の姿は、見ていて痛々しい。
泣くことも、諦めることも、捨てることもしない彼女だからこそ、俺はその手を離そうとした。
「勝手に私を諦めるなよ」
初めて俺の前で見せる本気の怒り。
彼女の眼差しに、悲しみや戸惑いはなかった。
純度の高い怒りのみの感情で彼女は俺を射抜く。
……きれいだな……。
その姿にすら、俺は見惚れた。
*
婚姻届を出して2週間近く経過する。
なんとなく気まずくて、作業部屋に篭る日々が続いていた。
手を伸ばせば届く場所に彼女はいる。
ひとり、寝室で眠る彼女のベッドは大きくて広かった。
「……ごめんなさい」
起きているうちには言えない言葉をつぶやく。
結婚を切望していたのは俺なのに、彼女がいないと生きていけないクセに、ひどくいい加減な選択をした。
渡せなかった結婚指輪。
ずっと焦がれていた彼女の左手の薬指。
彼女が眠っている今ですら、その左手に触れることは憚られた。
そっと頭を撫でれば、久々に感じる彼女の温もりに胸が締めつけられる。
「んぅ」
指通りのいいサラサラな髪の毛を指に絡めていると、彼女の長い睫毛が揺れた。
「撫ですぎ……」
「えっ、起きっ?」
元々、彼女は深く眠るタイプだ。
少しずつ睡眠も浅くなっていたが、ここ最近は特に眠ることができなくなっていたのかもしれない。
「ハゲちゃう」
「ハゲません」
そんなしつこく撫でまわしてはいなかったはずだ。
俺の胸中など察しもしない彼女の間の抜けた言葉に、フッと肩の力が抜ける。
「ハゲさせませんから安心してください」
「今日はここで寝るの?」
「あ、いや」
口ごもる俺に彼女は目を瞬かせたあと、少し考えるそぶりを見せた。
眠たそうに蕩けていた瞳に、疑いの色が混ざる。
「……こんな時間から手ぇ出されるのはさすがにヤだ」
「違います」
いくらなんでもそこまで図太い神経はしていない。
「冗談」
コロコロと彼女は控えめに笑った。
まろやかに微笑む彼女の声を、最後に聞いたのはいつだったか。
彼女は少し体をずらしてから、毛布をめくった。
「はい、どうぞ」
「え、いや……」
「ヤなの?」
その聞き方はずるいだろう。
こんなにも恋焦がれている相手からそんなふうに誘われて断れるほど、固い意思を俺は持っていなかった。
ちょっと様子を見に来ただけ。
その建前はいとも簡単に瓦解した。
「……失礼します」
どれだけ俺が彼女のことを突き放しても彼女が手を差し伸べてくれる限り、俺がその手を拒絶するなんてできるはずがない。
意思の弱い俺はもそもそと彼女の隣に潜り込んだ。
たったそれだけで、彼女は安堵したように体の力を抜く。
「おやすみ」
「……おやすみ、なさい」
安心しきって健やかに寝息を立てる彼女の姿に、泣きそうになる。
婚姻届を出した日は、彼女の誕生日だ。
そんな日に、彼女を突き放すようなことをした。
ヘタレにもほどがある。
引き返せないところまで追い込んだのは俺自身のクセに、傷ついた彼女を見ていられなくなって俺が彼女から逃げ出そうとした。
だが、幸先の見えない未来をほかでもない彼女が切り開くと高らかに宣言したのである。
『私の人生は余裕しかないの。ヘラヘラ笑って年末を締め括ってやるから、ちゃんと見ておけ』
ボロボロになってまで、彼女はいつも通りの傲慢な言葉で自分自身を追い込んでいく。
彼女が大丈夫だと言うのなら、俺はその言葉を信じる以外はできなかった。
隠している結婚指輪は、きっと年末……俺の誕生日に渡せると信じて。
*
年末。
体育館を出て行こうとする彼女に向かって俺は叫んだ。
「結婚してくださいっっっ!!!!」
「あ。れーじくん、来てたんだ? 気をつけて帰ってね」
小さな箱できらめく小さなリングに目をくれることなく、彼女は手を振って立ち去っていった。
振ら、振ら……、振られ、た……?
「いやぁぁぉぁああああっ!?」
現実を受け止められずに泣き崩れる。
隣に立っていた悪友はゲラゲラと笑い転げていた。
「あっはははは! ザマァ! だから体育館では無理だって言ったじゃん。家まで我慢しろよ」
「家で待ってたら年まで明けるだろうがっ!」
「そんな不良娘じゃないでしょ」
それはそう。
いつまでも彼女はいい子である。
渡しそびれた指輪の箱を閉じ、外箱に傷がつかないように大切にしまい込んだ。