『見えない未来へ』
俺が離れようとしていることを、おそらく彼女は察していた。
「私のことを舐め腐って売られたケンカに、私は負けるつもりはないよ」
婚姻届が受理されたその足で勃発した夫婦喧嘩は、彼女の勝利宣言で幕引きとなる。
俺が彼女のバランスを崩したせいで、もがいて、傷ついて、苦しんでいた。
日に日に憔悴して、唇を噛み締めて感情を押し殺す彼女の姿は、見ていて痛々しい。
泣くことも、諦めることも、捨てることもしない彼女だからこそ、俺はその手を離そうとした。
「勝手に私を諦めるなよ」
初めて俺の前で見せる本気の怒り。
彼女の眼差しに、悲しみや戸惑いはなかった。
純度の高い怒りのみの感情で彼女は俺を射抜く。
……きれいだな……。
その姿にすら、俺は見惚れた。
*
婚姻届を出して2週間近く経過する。
なんとなく気まずくて、作業部屋に篭る日々が続いていた。
手を伸ばせば届く場所に彼女はいる。
ひとり、寝室で眠る彼女のベッドは大きくて広かった。
「……ごめんなさい」
起きているうちには言えない言葉をつぶやく。
結婚を切望していたのは俺なのに、彼女がいないと生きていけないクセに、ひどくいい加減な選択をした。
渡せなかった結婚指輪。
ずっと焦がれていた彼女の左手の薬指。
彼女が眠っている今ですら、その左手に触れることは憚られた。
そっと頭を撫でれば、久々に感じる彼女の温もりに胸が締めつけられる。
「んぅ」
指通りのいいサラサラな髪の毛を指に絡めていると、彼女の長い睫毛が揺れた。
「撫ですぎ……」
「えっ、起きっ?」
元々、彼女は深く眠るタイプだ。
少しずつ睡眠も浅くなっていたが、ここ最近は特に眠ることができなくなっていたのかもしれない。
「ハゲちゃう」
「ハゲません」
そんなしつこく撫でまわしてはいなかったはずだ。
俺の胸中など察しもしない彼女の間の抜けた言葉に、フッと肩の力が抜ける。
「ハゲさせませんから安心してください」
「今日はここで寝るの?」
「あ、いや」
口ごもる俺に彼女は目を瞬かせたあと、少し考えるそぶりを見せた。
眠たそうに蕩けていた瞳に、疑いの色が混ざる。
「……こんな時間から手ぇ出されるのはさすがにヤだ」
「違います」
いくらなんでもそこまで図太い神経はしていない。
「冗談」
コロコロと彼女は控えめに笑った。
まろやかに微笑む彼女の声を、最後に聞いたのはいつだったか。
彼女は少し体をずらしてから、毛布をめくった。
「はい、どうぞ」
「え、いや……」
「ヤなの?」
その聞き方はずるいだろう。
こんなにも恋焦がれている相手からそんなふうに誘われて断れるほど、固い意思を俺は持っていなかった。
ちょっと様子を見に来ただけ。
その建前はいとも簡単に瓦解した。
「……失礼します」
どれだけ俺が彼女のことを突き放しても彼女が手を差し伸べてくれる限り、俺がその手を拒絶するなんてできるはずがない。
意思の弱い俺はもそもそと彼女の隣に潜り込んだ。
たったそれだけで、彼女は安堵したように体の力を抜く。
「おやすみ」
「……おやすみ、なさい」
安心しきって健やかに寝息を立てる彼女の姿に、泣きそうになる。
婚姻届を出した日は、彼女の誕生日だ。
そんな日に、彼女を突き放すようなことをした。
ヘタレにもほどがある。
引き返せないところまで追い込んだのは俺自身のクセに、傷ついた彼女を見ていられなくなって俺が彼女から逃げ出そうとした。
だが、幸先の見えない未来をほかでもない彼女が切り開くと高らかに宣言したのである。
『私の人生は余裕しかないの。ヘラヘラ笑って年末を締め括ってやるから、ちゃんと見ておけ』
ボロボロになってまで、彼女はいつも通りの傲慢な言葉で自分自身を追い込んでいく。
彼女が大丈夫だと言うのなら、俺はその言葉を信じる以外はできなかった。
隠している結婚指輪は、きっと年末……俺の誕生日に渡せると信じて。
*
年末。
体育館を出て行こうとする彼女に向かって俺は叫んだ。
「結婚してくださいっっっ!!!!」
「あ。れーじくん、来てたんだ? 気をつけて帰ってね」
小さな箱できらめく小さなリングに目をくれることなく、彼女は手を振って立ち去っていった。
振ら、振ら……、振られ、た……?
「いやぁぁぉぁああああっ!?」
現実を受け止められずに泣き崩れる。
隣に立っていた悪友はゲラゲラと笑い転げていた。
「あっはははは! ザマァ! だから体育館では無理だって言ったじゃん。家まで我慢しろよ」
「家で待ってたら年まで明けるだろうがっ!」
「そんな不良娘じゃないでしょ」
それはそう。
いつまでも彼女はいい子である。
渡しそびれた指輪の箱を閉じ、外箱に傷がつかないように大切にしまい込んだ。
11/21/2025, 6:42:41 AM