『紅の記憶』
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リビングのソファに背中を預けて、SNSのチェックをしていたときだ。
風呂から戻ってきた彼女がいつもより距離を縮めて座る。
「ねえ、それ……」
「え?」
少しむくれた彼女が指を差した先はシャツの襟ぐりの際だった。
「胸元のヤツ」
「ああ……」
これか。
鎖骨についたキスマーク。
痕を残したのは彼女だ。
気まずそうに視線を泳がせた彼女に、俺は意地悪く眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「忘れちゃったんですか?」
ことの発端は昨夜の情事までさかのぼる。
*
軋むベッドの上で熱を吐き出したあと、彼女の鎖骨のすぐ下を指で這わせた。
余韻を残した彼女の肌は素直にその刺激を拾う。
「ここ、つけていいです?」
「……」
恍惚とした表情で皮膚を震わす彼女は美しく艶めいていて、思わず生唾を飲んだ。
「……大丈夫ですか?」
「あ、ごめん。平気、大丈夫」
うなずく彼女のその返事が、痕を残すための許可ではないことくらいわかっている。
いつもの通り、俺が都合よく解釈の幅を広げているだけだ。
また、怒られるだろうな。
フッと息を溢したあと、唇を彼女の鎖骨に寄せる。
息を詰めて小さな刺激に耐える彼女は扇状的だ。
どさくさに紛れてあとひとつくらい、と魔がさしたとき、彼女がおずおずと口を開く。
「……ねぇ。私もつけてみていい?」
「え」
目配せすると、さっきまでぽやぽやと微睡んでいた瑠璃色の瞳が好奇心に輝いていた。
「あ、ダメ? れーじくんの肌、きれいだからもったいない気もするんだけど……」
「はあ?」
きれいなのはきめ細かく白磁のような肌をしている彼女のほうだ。
起き上がろうとする彼女の背中を支えながら、顔を覗き込む。
「痕を残すのはかまいませんけど、どこにつけるつもりです?」
場所までは考えていなかったのか、数度、瞬きを繰り返した。
俺と目を合わせたまま、彼女はスッと細い指で自身の鎖骨に咲いたばかりの紅い華を撫でる。
「……れーじくんと、一緒の場所」
「すけべ♡」
「違う……」
ふるふると羞恥に染まるものの、キスマークを残したいという欲求には勝てなかったらしい。
俺の言葉を一蹴した彼女は、その震える唇を俺の肌へと乗せた。
……の、だが。
ぴちょぴちょとかわいい水音を立てるばかりで、待てど暮らせど痕がつく気配がなかった。
「ん……、うぅ」
普段、彼女がなんでもそつなくこなすのは、たゆまぬ努力があってのことらしい。
快感とはまた別のくすぐったい刺激に、ギュンっと胸が締めつけられた。
「ぁむ?」
……かわいい。
いっそのこと、もうガブッと噛んでほしい。
なかなかつけられないキスマークに、彼女自身ももどかしそうに眉毛を下げ始めた。
彼女の頭を撫でて気持ちを落ち着ける。
「それじゃ、いつまでたってもつきませんよ?」
「あぶぅ……」
かぷかぷと俺の腕に吸いついたまま、涙目で視線だけを持ち上げる彼女の姿は生殺しにも程がある。
「……」
愛おしそうに顔を蕩けさせて、本当に、なんて表情を俺に向けてくれるのか。
「ほら、怖がらずにもっと強く吸ってください」
「ん」
焦ったいほど時間をかけてようやく、不恰好で小さな紅い華が、俺の鎖骨のすぐ下に咲いたのだった。
*
彼女の愛らしい姿が忘れられなくて、今日はワザと襟ぐりの広いシャツを着ている。
彼女の肩を抱き寄せて、これみよがしにキスマークを見せつけた。
「昨日の夜、かわいい子に刺されたんですよ」
「かわいい子って……。やめて」
頬を染めながら恥ずかしそうに胸元を押し返す。
「がんばったから、ちゃんと覚えてる」
唇を尖らせて不貞腐れて額をグリグリと押しつけた。
「でも、こんな、アザみたいになるなんて……思わなく、て」
「まあ、言い回しは多々ありますけど、しょせんは内出血ですからね?」
見た目で言うなら、俺が彼女につけた痕だって同様にくすんでしまっている。
いつまでも鮮度を保っているわけではないからこそ、何度でも刻みたくなるのだ。
「ごめん」
「どうして謝るんです?」
「傷つけた……」
「俺はうれしいですけどね?」
「なんで?」
「それだけ、あなたに愛されてるってことでしょう?」
「うん。好き」
ぐぅ……っ!
言わせただけだけど、毎回毎回かわいいな?
緩む口元を押さえていると、彼女は慌ただしくソファから立ち上がった。
「でも、できる気がしないからもうしない!」
不器用なタイプではないから、コツさえ掴めばすぐにうまくなるだろう。
しかし、毎回あの据え膳をお預けされるのは我慢ならなかった。
「それは残念です」
ツンと照れ散らかした彼女の言葉にここは素直にうなずいて、今日のところは引き下がる。
11/23/2025, 12:57:29 AM