約3年。
これは俺が彼女に振られ続けた期間だ。
そんな俺が、今では彼女と同棲するまでにいたる。
不意に、彼女が俺とつき合おうと思ったきっかけが知りたくなった。
ただそれだけの好奇心で、ソファで洗濯物を畳む彼女の隣に座る。
「俺たち、お友だち期間はそこそこあったと思うんですけど」
「……ん?」
靴下を丁寧にサクランボにしていた彼女の手が止まった。
「え。なんすか、その反応」
「いや……」
数拍、彼女は眉を寄せて表情を曇らせる。
冴えない様子を崩さぬまま、戸惑いがちに口を開いた。
「私たちの間に友情なんてあったか?」
「ひどいっ!」
大げさに声をあげて顔面を両手で覆って泣くフリをしてみる。
「毎日顔を合わせて毎日待ち合わせして毎日恋愛相談してたのに!?」
「友情の前に、記憶の乖離がありそうだな?」
そんなことをした記憶がないといわんばかりに、彼女は容赦なく吐き捨てた。
「ったく……」
トントン、と遠慮がちに俺の太ももを突く。
「お友だちだったらなんなの?」
「あ、ノってきてくれるんですね♡」
パッと両手を離してかおをあげると、あきれ果てたまま彼女はため息をついた。
「くだらないことだったら怒るくらいはすると思う」
「大事なことなのでそこは問題ありません」
彼女が洗濯物から手を離して聞く体勢に入った。
洗濯物をソファの隅に避けて、わざわざ手を止めてくれるところが本当に愛らしい。
「俺の告白に応えてくれるきっかけってなんだった……おわっ!?」
俺が言い切らぬうちに、ニコイチで仲良しにした靴下を顔面に向かって束で投げられた。
「くだらないこと聞いたら怒るって言った!」
「あれだけアホみたいに俺の告白を断っておいて、OKしてくれたきっかけを聞くことのどこがくだらないことですか」
「アホみたいな数打ってた自覚があったんならちょっとは自重してほしかったがっ!?」
「はあああっ!? なんで今そんなひどいこと言うんですか!」
「今だからだろうがっ!」
そうか?
振られ続けた当時、直接言われたほうがダメージはデカいと思う。
それで諦めるかと言われたら否だ。
むしろ燃えるまである。
あ。
だからこそ、このタイミングで打ち明けたのか。
「きっかけ……っていうほどじゃ……。ただ、れーじくんの誕生日とか、知らなかっただけ」
「え、誕生日?」
予想もしていなかった返しに驚けば、彼女はゆっくりとうなずいた。
「10代に迫るのは倫理的にどうかと思う」
「迫るのは俺ですが」
「責任を迫られるのは私」
「それはそうですね?」
俺と彼女の歳の差はひとつ。
誕生日も俺のほうが遅いから、一時的に年齢が重なることもなかった。
普段、その1年の差を気にすることはないが節目節目で嫌というほど痛感する。
彼女の中でも、年齢の弊害は大きかったのだろう。
「あぁ。だから酒の席でOKしてくれたんですね♡」
「れーじくんが二十歳すぎて、ちゃんと目を見て好きって言ってくれたときに『いいよ』ってするつもりだった」
「見てませんでしたっけ?」
「わ、かんない。ゆ、誘惑に負けちゃいそうで……避けちゃって、た、から」
誘惑って……。
好きと告げるだけで大げさな。
とはいえ、押しの弱い彼女のことだ。
意外と本気で揺れ動いていたのかもしれないと思うと悪い気はしない。
「……へえ。あれ、追いかけてもよかったんですね?」
「ダ、ダメっ!」
「イヤじゃなかったんでしょう?」
「でも、困る……から……」
酒を使って彼女を口説くなんて愚の骨頂だと自責していた。
まさか彼女にとっては吉報になっていたとは。
「……だ、だから、待ってた」
俺の誕生日を知る術を、当時の彼女は持たない。
俺に気を持たせるような行動も一切取ってこなかった。
俺の学年が上がるまで。
酒を飲むまで。
彼女はただ、静かに待っていた。
そのいじらしさにパリンッ、と恋に落ちる。
「ね、こっち見て?」
「この流れでできるわけ……」
「うん。でも、お願い」
「う……」
彼女自身が認識しているかどうかはさて置き、彼女は意外と男友だちが多い。
数いる男友だちのなかで俺という存在を選んでくれた。
その優越感に何度も心が満たされる。
「俺とつき合ってくれてありがとうございます」
「……っ、そ、れは。こ、こちらこそ……」
オーバーフローしかけた彼女が、チラッと俺と視線を絡めたのは一瞬だ。
そのわずかな時間でさえ、限界寸前の彼女には耐えがたいものらしい。
「ねぇ、その顔。やだ……」
「どんな顔?」
「どんなって……」
フルフルと首を横に振った彼女は、ソファの隅に追いやっていた洗濯物を手探りで鷲掴んだあと、顔を隠した。
迫ってもいい、んだよな……?
彼女の懸念していた年齢という隔たりはとっくに消えた。
「なんで隠すんですか?」
それはそれとして、かわいい顔面を隠している俺のシャツだということを彼女は自覚しているのだろうか。
あとで絶対に奪い取ってやると誓いながら、彼女に迫った。
「ちゃんと見せてください。俺のこと好き好きって言ってる顔」
「……だからヤなんだってば」
くぐもった声を漏らす彼女に、フッと口角が上がっていくのを自覚した。
「自覚してるんですね?」
焦ったいほどゆっくりと、彼女は顔を隠していた腕を下げる。
羞恥に染まった瞳は俺を頼りなくにらみつけた。
「いじわる……」
「ごめん」
真っ赤に熟れた彼女の顔は、いとも簡単に俺の理性を削ぎ落とす。
噛みしめられたその唇の上に俺の唇を重ねていった。
『friends』
『君が紡ぐ歌』
いつもは静かな彼女が、今日は妙に調子のはずれた鼻歌を刻んでいる。
歌に合わせて、上半身もゆったりと前後していた。
ずいぶん、ご機嫌だな。
リビングのソファでのんびりとスポーツ雑誌を読んでいる。
ハミングのせいか、ページを捲る速度はいつもよりゆったりしていた。
そろそろ休憩を促すためのお茶でも用意しようかと立ち上がったとき、彼女と目が合う。
見すぎたかな。
多少の申しわけなさを感じていると、彼女ははにかみながら雑誌を閉じる。
「元気が出るお歌なんだよ」
お歌……。
幼い言い回しに胸がキュンと締めつけられる。
またひとつ、彼女のかわいさを発見したところで、俺は気がついてしまった。
「元気がないんですか?」
「それは言葉のあや」
俺の余計な心配を迷惑そうに一蹴したあと、彼女はどこか懐かしそうな穏やかな表情で天井を仰ぐ。
「昔、本当に元気がなかったときに教えてくれたの」
耳に残る旋律もあって、以降、彼女はなにかにつけて口ずさむようになったらしい。
俺との暮らしに慣れてきてくれたのだと実感した。
うれしさの反面、俺がまだ知らない彼女の弱さを知る人がいるというという事実にドス黒い感情が噴き上がってくる。
「誰にです?」
それ、仮に男だったら記憶から削除してやりたいんだけど。
不用意な発言に自覚はないのか、彼女は特に俺の様子を気にすることはない。
「ん? 叔父さんの奥さん」
奥さんならまぁ。
彼女の身内みたいなもんだから、そうか。
複雑ではあるが同性だし彼女の身内のようなものだしと、なんとか溜飲を下げた。
しかし、隠すのがうまい彼女が本当に弱っていないかどうか、俺は知る術を持たない。
彼女の隣に座り、吸い込まれそうなほどに澄んだ瑠璃色の爽やかな瞳に影がないか覗き込んだ。
「本当に? ハムカフェとかネコカフェとかに行って癒されなくて大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫だってばっ」
相変わらず至近距離に照れる彼女だったが、ちょっとソワァッとし始めている。
だが、あいにく今日は日曜日で、時間も午後を過ぎていた。
店に問い合わせてみたが、既に閉店まで予約で埋まっているらしい。
アニマルカフェは後日に持ち越すことになった。
*
「なにかいいことあった?」
「え?」
リビングで洗濯物を畳んでいたら、風呂から出てきた彼女がノシッと俺の背中に乗っかかってくる。
振り返ると思いのほか近い位置に彼女の頬があったから、チュウッと吸いついてやった。
「楽しそうに口ずさんでたから」
「あー……?」
指摘されて初めてメロディを口ずさんでいたことに気がつき、顔面を覆った。
「……っス」
はっず。
いつの間にか、彼女の鼻歌のクセがうつったらしい。
歌っていたのが彼女のお気に入りのゲームのBGMでよかった。
音楽まで同じとか影響されすぎて、さすがに気持ち悪がられるかもしれない。
「で? どしたの?」
「あぁ」
俺の心配をよそに、彼女は特に気にする様子もなく話を促した。
しかし、「いいこと」になるかどうかは彼女の返答次第だ。
洗濯物を放り出し、背中に乗っかっている彼女を俺の前に座らせる。
今度は俺が彼女の腹に腕を回し、背中に体重を乗せた。
「来週の水曜日の午後になってしまうんですが、ハムカフェの予約が取れたんです」
「ハムカフェ?」
「午後は空いてましたよね?」
平日の中途半端な時間帯ではあるが、少しハムスターと戯れる分には問題ない。
俺のほうはさっさと有給を取ってしまったが、彼女は午前中は仕事があった。
こういう日はついでに予定を入れがちだから、一応、確認を取る。
「まだ予定が埋まってなかったらどうかなと思いまして」
「予定はないから大丈夫、だけど……」
「私、本当に元気だよ?」
「ちょっと期待はしてたじゃないですか」
「うっ」
図星を突かれたからか、恥ずかしそうに体を縮こませた。
「なんでわかるの……」
なんでって。
先日の鼻歌しかり、オフの日の彼女は意外と態度に出るからだ。
「まあ、そういうことなのですけど、どうです?」
「ん。いいよ、うれしい」
「よかった。楽しみにしてますね」
クスクスと笑い合ったあと、彼女は俺の上から立ち上がる。
横隣に座りって、ふたりで洗濯物を畳んでいった。
霞がかった視界にぼやけた光。
遠慮がちに開かれたカーテンによって、まだ仄暗い朝の光が差し込まれた。
ん、うぅ?
その弱い光でさえ俺には刺激が強く、毛布を引っ張って顔を隠す。
「あ、ごめん。起こした?」
身を捩った俺を見てか、彼女によってカーテンはすぐに閉められた。
速やかに眩しさが閉ざされ、影を落とした室内に安堵して体の力を抜く。
頭の上に小さな手の温もりが乗せられるという、朝から贅沢な微睡みを堪能した。
しばらくすると、彼女はもそもそとベッドから離れようとする。
「……ねえ」
彼女の腕を引っ張って、俺の上でぎゅうっと抱きしめた。
「ぅ、わっ!?」
抱きしめる際に俺と彼女の間に毛布が挟まる。
わずかな距離も惜しくて、その隔たりとなった毛布をぐいぐいと退けていった。
「どこ行くの?」
「どこって、別に。顔でも洗おうかと思って」
「ダメ」
特別、差し迫った用事があるわけでもないのか、彼女は俺の上に乗っかったままおとなしくしている。
「毎日こうして俺の上にあなたが跨ってくれる最高に美麗なスチルが手に入るシチュエーションを奪うとかひどいことしないでください」
「スチル……?」
体はまだ睡眠を欲しているが、頭の中は少しずつ冴えてきていた。
そんな俺を察してか、彼女はわざとらしく大きなため息をつく。
「今すぐ奪いたくなってきたな?」
「俺の唇なら大歓迎です」
「……だったらその腕を緩めて」
仕事が休みのせいか、今日はやけに素直である。
俺の上で俺の抱き枕状態になっている彼女の頬に触れた。
「朝から熱烈ですね?」
「どっちが……」
指通りのいい、細くてやわらかな髪の毛を梳く。
すると、彼女はもそもそと俺と同じ目線の高さまで上ってきた。
ベッドの中でだけ対等になる視線の高さ。
くぐもった視界でも存在感を放っている彼女の瞳の光に吸い込まれたい一心で、さらに距離を縮めた。
しかし、彼女の小さな両手は俺の両目を塞ぐ。
「ちょっと。自分から誘っておいてここで照れますか」
「違う」
彼女の細い両手首を掴むが、引き剥がすことはまだしない。
恥ずかしがって力加減を置き去りにした彼女が、俺の目を潰してしまっては大変だ。
彼女のペースに合わせて、その羞恥心をほぐしていく。
「じゃあなんですか、この手は。さっきと言ってること違くないですか?」
「奪うのは、私なんでしょ?」
「おや。奪ってくれるんです?」
彼女の言葉に口元が緩む。
俺の両目を押さえている手を絡めてゆっくりと下ろした。
「おはよう。れーじくん」
目が慣れたせいか幾分はっきりとした視界。
天使よりも清純で無垢な光が飛び込んできた。
朝日なんかよりも何倍も眩くて玲瓏たる彼女に、かける言葉を失った。
惚けている俺に、楽しそうな息の溢れた気配がする。
ハラリと、彼女の細い毛先が落ちてきて俺の頬を撫でた。
心地のいいくすぐったさに気を取られていると、寝起きでカサついているであろう俺の唇に彼女のふっくらと瑞々しい唇が優しく触れる。
「……キスをするならせめて準備をさせてください」
「奪っていいって言ったくせに。乙女かよ」
「それはそうですけど、ずるいです」
ふに、と親指で柔らかな唇に触れる。
キスをしたあとだというのに彼女の唇は十分に油分を含んでいて、しっとりとしていた。
「そっちはしっかりリップつけてるじゃないですか」
「乾燥が気になる季節になったからね」
得意気に声を弾ませる彼女は楽しそうだ。
キスをくれたお礼に、俺もとびっきりのキスでお返しをしようと細い頸を引き寄せる。
朝から艶を帯びた優美な唇にかぶりつこうとしたとき、今度は両手で俺の口元を押さえつけた。
「ちょっ、準備はどうしたんだよ?」
「今さっきあなたからもらったので問題ありません」
「……ホント、そういうとこ……っ!」
先ほどとは打って変わり、動揺して上擦った声音。
不意打ちに弱い彼女は、今度はちゃんと照れていた。
かわいい。
口元は潰される心配がないため、彼女の羞恥にはかまわず舌先で手のひらをペロリと舐めた。
「ちょっ、やめて……っ」
「どうして」
「どうしてって、だって……朝からこんな……」
「朝……?」
そういえば、彼女の挨拶に答えてなかったな?
口ごもる彼女をよそに、散り切れで支離滅裂な思考がマイペースに回り出す。
「……おはようございます」
唇を離して伝えると、彼女はわなわなと憎らしげに吐き捨てた。
「ほんっと、そういうところ! 腹立つっ!」
羞恥で震えた声ではいつもの治安の悪さも、ただの嗜虐心を煽る材料にしかならない。
「ね。もっと顔、見せてください……」
「ゃっ……。もうっ、朝から爛れないでっ」
キャパオーバーでも迎えたのか、八つ当たり気味に勢いよく彼女は俺の肩口に額をぶつけてきた。
「さっさと眼鏡かけて目を覚ませ」
「眼鏡……?」
あぁ。
だから、さっきから彼女の表情がぼんやりとしていたのか。
存在感だけでこれだけきらめいていられる彼女はどこまでも尊くて神々しい。
「今度は、ちゃんと起きた?」
ベッドボードに置き去りにしていた眼鏡をかければ、しっかりと彼女の輪郭を捉えた。
晴れやかな視界に広がる彼女の姿は、摩擦で少し赤くなった額ですら愛らしい。
『光と霧の狭間で』
====================
いつも♡ありがとうございます。
ムードもへったくれもありませんが事後で露出も多めです。
苦手な方は「次の作品」をクリックして、自衛をお願いいたします。
====================
青々としていたモミジの葉が、いつの間にか木のてっぺんから淡く暖色に色づいてきた。
背の低いキンモクセイの木も蕾を膨らませて黄金色が目立つようになり、近づけばほのかに甘い香りを拾うことができる。
視界の遥か上から静かに、緩やかに、心地よく命を燃やし、音もなく水分を失った葉は地に落とされた。
乾いた音を立てたとき、命は屑と化して地に還る。
この大きな自然の循環は普段は物静かに、密やかに、さりげなく行われていた。
異常気象、自然災害、前虎後狼、ときには大きな音を立てながら、大規模に土台ごと破壊しては循環の均衡を保っているのだろう。
バランスがいいのか悪いのか。
その判断する術を俺は持ち合わせていなかった。
俺にできることは、せいぜい彼女の好不調を見守ることくらいである。
*
日付が変わろうとした夜ふけの寝室。
ガバアッと勢いよく毛布を捲り上げながら彼女が体を起こした。
「れーじくんのバカッ! もういいっ! 実家に帰らせていただきますっ!」
甘やかなピロトークで微睡むはずが、この様である。
売り言葉に買い言葉。
いつもの俺の明け透けな発言に、彼女が普段通りブチ切れた。
ふるり、と奥ゆかしく膨らんだ双丘が控えめに揺れた。
斜め後ろから見上げる彼女の横乳は最高である。
「なるほど。シャンプーとトリートメント(ご家族のみな様)にどうぞよろしくお伝えください」
「はあぁぁっ!?」
怒りのボルテージに比例するように声量を上げていった彼女は、乱雑に寝室のドアを開け放った。
「ホンッット、好き放題に人をおちょくりやがって!」
張りのあるかわいらしいお尻が距離のせいでぼんやりとしか輪郭を捉えられない。
「……っ!?」
どうせ風呂から戻っても全裸だろうな。
彼女の説得を諦めて眼鏡をかけたとき、威勢よく寝室を出ていった彼女が大慌てで戻ってきた。
「………………っっ、……っっっ!」
あれだけ喚いていた彼女が、借りてきた猫のように縮こまって俺にギュウギュウとしがみついてきた。
…………寒かったんだな。
アホでかわいい。
いくばくか彼女に失礼な感情を抱きながら、手のひらを返して俺の腕の中に戻ってきた彼女を抱きしめ返す。
相変わらず服を着たがらない彼女であるが、暑がりで寒がりというワガママ体質だ。
10月も半ばを過ぎ、本格的に朝晩が冷え込んできたこの時期に全裸で眠ることはさすがに厳しいだろう。
「だから服を着てくださいって言ってるじゃないですか。さっきから。何度も」
近くに置いた俺の長袖シャツを雑に被せた。
「はい。頭出してください」
「むーっ」
ちゅぽんっと襟ぐりから、不貞腐れた彼女の頭が飛び出してきた。
不機嫌そうに唇を尖らせ、形のいい眉毛も収まらない怒りで吊り上がっている。
余った袖口を武器にしてペチペチと攻撃してくるから、くるくると袖を折り曲げて武器を封印した。
「おかえりなさい」
「悪天候だったから実家に帰るのは延期した」
ちょっと冷え込んだだけで大げさな。
さすがに悪天候は盛り過ぎである。
俺に負けず劣らず屁理屈をこねる彼女の背中をポンポンとあやした。
「はいはい。そうでしたね」
完全に風呂を諦めたのか、彼女は横になって俺の腕の中にすっぽり収まってきた。
まんまるの頭をゆるやかに撫でれば、彼女の瞼が重たそうに落ちていく。
「帰省(フロ)なら一緒につき合いますよ?」
「おうち(ベッド)に帰れなくなるから遠慮しまーす」
「俺になにする気ですか♡ えっち♡」
「どっちが……」
再びイラァッとした怖い彼女が現れた始めたから、キスで封じ込めた。
拒まれないから調子に乗って首筋まで唇を這わせると、彼女が体を強張らせる。
「ねえ、痕……ダメ……」
「わかってますよ」
ただ触れるだけのキスを落としていくうちに、彼女の吐息が規則正しくなっていった。
音もなく進む時をゆるやかに意識する、少しハメを外した金曜日の23時59分。
一週間分の疲れが纏わりついた華金の残す時間はあと1分。
穏やかな土曜日を過ごせるようささやかに願いながら、彼女の規則正しい胸の鼓動を確かめた。
『砂時計の音』
透明の耐熱ガラスのティーカップに、沸騰したお湯を入れた。
上から菊花、バタフライピーを散らす。
じわじわと菊の花が開き、透明だったお湯は鮮やかな群青色に染まっていった。
最後に星型の金粉を散らせば、さながらティーカップの中で小さなプラネタリウムができあがる。
星図の描かれたオシャレなパッケージと並べて、青々と澄んだティーカップの写真を撮った。
ティーカップを口に含めば、中国茶ならではの独特な甘味と苦味が口に広がる。
見た目さえ受け入れてさえくれれば、彼女が好きそうな風味だった。
「また妙にオシャレなもん飲んでるな?」
噂をすれば彼女がほかほかになって風呂から戻ってくる。
「飲みます?」
ティーカップを彼女のほうに差し向けるが、彼女は首を横に振った。
「お酒でしょ? いらない」
ん? 酒?
改めて、ティーカップに視線を落とした。
鮮やかなコバルトブルーの液体は確かに酒に見えるかもしれない。
しかし中身は酒ではなくハーブティーだ。
「いや、これ、酒じゃなくて菊花茶のハーブティーです」
「菊花……?」
「タイのほうでは有名な飲み物らしいですよ」
バタフライピーで色を青に染める飲み方は、SNSの映えを意識したものだろう。
タイのほうではハチミツや砂糖をたくさん入れて甘くして飲むようだ。
ちなみに、少しレモンを入れると化学反応で鮮やかな夕焼け色に変わっていく。
視覚効果も存分に楽しめる仕組みだ。
外袋のパッケージもこだわっていて、いかにもSNS映えしそうなデザインである。
俺が今開けたのは星図だったが、ほかにも天体の軌道が描かれているものや、12星座が円に連なったものが2包ずつあった。
「入れましょうか?」
「いや、いらない」
「そうですか……」
予想通り、色味のせいで彼女の警戒心が少し上がった。
バタフライピーにはハッキリした味はないため、派手な見た目ほど味にパンチはない。
彼女はジャスミン茶や甜茶を好んでいた。
菊花茶の素朴な苦味と甘味は好みだと思うのだが、視覚効果は絶大らしい。
「職場の事務の方に『彼女さんにどうぞ』って言われて押しつけられたものなんですが」
「……彼女……?」
彼女は、テーブルの上に置かれたティーセットと俺を交互に見る。
何度か視線を往復させたあと、俺をジッと見つめて首を傾げた。
「デッカい彼女だな?」
「お帰りなさいダーリン♡」
小首を傾げて両手を顎の下に持っていったりと、できる限りかわいいポーズでアピールする。
しかしあざとさを狙うには、図体がデカいせいで無理があった。
「ノってくるのかよ……」
間もなく1日が終わるというのに、彼女に特大サイズのため息をつかれてしまう。
「つーか、私宛なら勝手に開封するなよ」
「毒味は必要でしょう?」
「手作りじゃあるまいし大げさだな?」
「……」
彼女の職柄的にしかたがないのだろうが、人からの贈り物を受け取ることに抵抗がなさすぎる。
既製品でももう少しくらい警戒してほしかった。
「そもそも、このパッケージもハーブティーも、あなたの趣味じゃないじゃないですか」
「だからって勝手に開けていい理由にはならないだろうが。おたんちん」
彼女の言い分が正しいことはわかっていた。
わかってはいるが、ただただ俺の不快指数が上がっていく。
「なんでそんなに怒ってるの?」
「俺相手ならつけ入る隙があると思われたことに腹を立てています」
「はあ?」
意味がわからないと眉を寄せた彼女に、お土産と一緒に預かっていた名刺を手渡す。
名刺に印字された名前を見て、彼女は意外そうに目を見張った。
「あれ? この差し入れ、男の人からなんだ?」
「そうですよ?」
消えものだからあえて受け取りはしたが、本当は受け取ることすらしたくなかった。
映えさえすれば彼女が喜ぶと思っている浅薄さも、不愉快極まりない。
裏側など彼女は目もくれていないが、裏にはしっかりSNSのIDと食事の誘いが一筆記されていた。
俺が彼女と同棲していることまで知っていて、堂々と喧嘩を売ってくる。
余裕がないと思われたくなくて、つい見栄を張った。
しかし、そのしわ寄せとして、なんの落ち度のない彼女に八つ当たりすることになってしまって反省する。
「裏側もちゃんと見てあげてくださいね」
「裏……って、うわ……」
人の機微に見向きもしない彼女である。
彼女は俺から離れて手動のシュレッダーに名刺をかけ始めた。
不用意に手にしてしまった個人情報を彼女は手元に残さない。
躊躇うことなくハンドルを回す彼女の背中に向かって、俺は声をかけた。
「返事はしないんですか?」
「その人、同じ職場の人なんだよね?」
「ええ」
ハーブティーのコバルトを全て飲み干す。
菊の花も萎れ、蝶豆の花弁も沈み、星も消え、ティーカップの星図は崩れて消えた。
「なら……」
適温を失ったティーカップを置いたタイミング。
戻ってきた彼女の手が俺の頬に触れた。
「え」
ちゅ。
と、小さなリップ音が唇の上で響く。
頬を染めた彼女は恥ずかしそうに瑠璃色の瞳を揺らした。
しかし、すぐにその視線は真っすぐ俺に向く。
「……れーじくんのほうから、甘くておいしかったって伝えておいて」
彼女は水分の含んだ薄い桜色の上下の唇を合わせて軽く馴染ませた。
艶めいた唇を細い指先で這わせて、挑発的な笑みを刻む。
「そんなに心配しなくても、さ」
その緩慢で色のある彼女の仕草に息をのみ、心臓の脈打ちが徐々に激しくなる。
「顔も知らない相手に差し入れひとつで靡くほど、温い愛され方してないから大丈夫だよ?」
イタズラをしかける子どものように、彼女は楽しそうに笑みを深くさせた。
「ハニー♡」
かっっっ!?
かっこよっっっ!!!???
遅れてノってきた彼女に、俺の機嫌はすぐに上昇気流に乗る。
「ダーリン♡♡♡♡」
「ぐえっ」
暴走した俺の情緒は、彼女の潰れた声を生み出したのだった。
『消えた星図』