朝。
ベッドで少しイチャついていたら、彼女が恥ずかしがって出ていってしまった。
俺も少し時間を空けて寝室を出る。
洗面台の鏡に映った己の姿に喚き散らした。
気のすむまで騒いでなんとか精神を落ち着かせたあと、リビングまで移動する。
彼女はキッチンで、俺が作り置きしていた味噌汁をコトコトと温めていた。
いつもの小さなポニーテールはふたつに分かれて三つ編みで結われている。
背後から近づき、その毛先にチョンと触れた。
「直らなかったんですか? 寝癖♡」
「や、見ないで……」
振り返った彼女ははにかんで頬を膨らませた。
しかしその顔はすぐに鍋に向けられて隠されてしまう。
覗き込もうとしても頑なに顔を見せてくれず、思わず吹き出してしまった。
「かわいい」
「ねぇ。ヤダってば……」
おさげにした彼女は普段より幼く見える。
火を使っているからあまりちょっかいをかけられないため、チョンチョンと毛先を突いたりねじったりする程度にとどめた。
「恥ずかしいから見ないでって言ってるのに、そんな無理やり……」
「ええ、恥ずかしがるあなたはとってもかわいいですよ」
わなわなと肩を震わせた彼女が、火を止めて再び俺に顔を向ける。
顔を真っ赤にして見上げる彼女の目はまだ少し腫れていた。
悩まし気に潤んだ瑠璃色の瞳は、昨夜の余韻をしっかりと残している。
俺が、乱したんだよな……。
俺のほうも昨日の熱が残っていたのか、ゾワッと背筋が昂った。
見惚れていると彼女の眼光が鋭くなる。
「そ、そんなこと言うならそっちだって、起きたらほっぺたに充電コードの跡グルグルにつけて」
「キャアアアアアッ!!!!」
彼女の言葉を遮り、両手で顔面を覆ってしゃがみ込む。
プリプリしながら彼女がとんでもないカードを引き出して反撃してきやがった。
「やめてくださいっ! それ、さっき鏡見てめちゃくちゃ恥ずか死んだヤツっ! あの面晒してドヤりながらおはようのチューかましたとか本当に無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理ああああああぁぁぁぁぁ!」
「そう? かわいかったけど……」
「はあああっ!? 正気ですかっ!?」
信じられない彼女の言葉に勢いよく立ち上がる。
失言したと認識したのか、彼女は口元を隠して俺から目を逸らした。
「う……」
かっっっわ、いっっ……っ!
はにかんでプスプスとオーバーフローしていく彼女に天を仰ぐ。
恋人フィルターえっっっぐぅ!?
俺のこと大好きすぎだろっ!?
ここが世界の中心だ。
彼女の肩を掴んで俺は愛を叫ぶ。
「俺も大好き愛してます結婚します一生離さずに一緒の墓に入ります!!!!」
「うるさ」
さっきまでのはにかんだ表情は幻だったのだろうか。
表情を消した彼女は冷ややかな視線で俺を見据えていた。
「俺の一世一代の告白をなに断ってくれてやがるんですか?」
「来世で出直してもらえる?」
ツンの容赦が一切ない。
鼻まで鳴らされて俺の愛は一蹴されてしまった。
もちろん、それで折れる俺ではない。
「来世もあなたと同じ時代に生まれ、同じ生物として生き、同じ空気を吸ってもいいんですか!?」
「来世ではアメーバかゾウリムシにでもなるつもりだったの?」
「え。俺が大量生産されるとか推しが被って地獄でしかないんですけど。せめて有性生殖できる生物として転生させてほしいです」
「いや、知らないしそんな権利私には持ってないけど……」
小皿を取り出した彼女はそこに味噌汁を入れて味を見る。
小さく喉を嚥下させたあと、目が眩むような笑みを向けた。
「れーじくんのお味噌汁は今日も最高だよ?」
「……ホンット、このお口はもうっ」
なにが「けど」で「最高だよ♡」だ。
なんにも話が繋がってないではないか。
かわいい。
ツンとデレの温度差で風邪を引くところだった。
「んぶっ!?」
指で両頬を挟んでやったが、簡単にほっぺたが潰れるほど柔らかい。
「ちょ、急になにっ!?」
俺の手を払って抵抗するが、引いてあげられるわけがない。
「なにって朝の栄養補給でもしようかと」
「はあ!? だって、さ、さっきベッドでっ!?」
「おや。ご自身が栄養だという自覚はあったんですね?」
「んなっ!? 違っ!? 待って、ヤダ! ねえ、ご飯っ」
「飯よりも心の栄養を満たすほうが先ですから」
「燃費悪すぎだろっ!? もっと大事にしろよっ!!」
「恥ずかしがってちょっとしかくれないからじゃないですか。あんなんじゃ食べてるうちから腹減りますって」
舌で自分の唇を舐めた瞬間、彼女が硬直した。
ベタなシチュエーションに弱い彼女には効果てきめんだったらしい。
「ということで、いただきますね♡」
俺はその隙をしっかり利用させてもらい、彼女にキスをした。
「んーーーーーーっ」
抵抗する彼女にかまうことなく、ガッツリと蕩かしたおかげで、味噌汁はすっかり冷えてしまったし、彼女の予定を大幅に狂わせた。
このあと1日、いじけた彼女が俺と口をきいてくれなくなってしまったことは言うまでもない。
『フィルター』
作業部屋のレイアウトに無理があるのか、部屋全体の配置、動線がどうもしっくりこなかった。
廊下に出て外から覗き込むようにして部屋全体を見回す。
やっぱり、無理があるよなあ……。
「朝からなにしてんの?」
内開きのドアを開けたまま唸っていると、彼女がリビングから出てきた。
「仲間になれなくて困っているんです」
「仲間?」
彼女は俺の作業部屋を覗き込んだが、すぐに目を逸らした。
俺に向き直ってマジマジと見つめる。
かわいい。
「クズで能面でヘラってるからいじめられたの?」
「……」
悪意しかない彼女の言葉に、にやけそうになった口元がギュッと引きつった。
「今この瞬間にイジメが勃発した気がしますね?」
普段、彼女から陰口や愚痴を聞くことは少ない。
しかしいざ口を開かせたら、天才的に人を煽るのが上手いし、悪口のセンスも高かった。
「仲間になれないのは俺じゃないです」
部屋の入り口手前に押し込んでいたパネルを廊下に出した。
推しである彼女の等身大パネルである。
カットラインやグロス加工などこだわり抜いたのに、肝心の置く場所がないのだ。
「この子なんですけど……」
「知ってた! ホンットふざけんな!」
はつらつとした彼女は今日もかわいい。
一生懸命パネルを指差す彼女を安心させるために、その指を両手で優しく包み込んだ。
「安心してください。ウェディングドレスのあなたはアクスタにしましたから」
白無垢を身にまとった彼女のパネルを見てうっとりとした心地になる。
ウェディングドレスのパネルも作りたかったのだが、幅が広すぎて縮小をかけるしかないと言われてしまい、諦めたのだ。
どうせ縮小をかけるのならアクスタにしようと、ウェディングドレス姿と白無垢姿のアクスタを大量生産する。
「違うっ! そういうことを言ってんじゃない!」
スパァンッ、と勢いよく手を振り解かれてしまった。
「せっかくかわいいあなたを作れたのに飾る場所がありません」
「んなもんさっさと部屋の隅にでも立てかけとけよ」
「それが……見てくださいよ」
推しの密度が増して最高なのだが、大きさまで考えていなかった。
部屋にはすでに彼女の身長と同じ高さで作ったぬいぐるみが2体いる。
それなのに俺は同じ大きさのぬいぐるみを2体、ウェディングドレス姿と白無垢姿で推しを作ったのだ。
合計4体の巨大ぬいぐるみだけで、四畳半の作業部屋の圧迫感がすごい。
「なんでこんなクソデカぬいぐるみ、2体も増やしたんだよ?」
「アクスタ作ったら、缶バッチやフレークシール、アクキー、ぬい、タペストリーも欲しくなっちゃったんですもん」
「だからって限度があるだろ。歩く場所もないじゃん」
「そうなんですよ」
パネルを置くとしたらドアを塞ぐように置くしかなくなり、出入りがとても不便になるのだ。
しかも部屋を入るときにドアを押してしまってパネルを傷つけてしまう恐れがある。
推しに怪我をさせる可能性があるだけで胃に穴が開きそうだ。
「パネル諦めたら?」
「ひとりだけ仲間外れとかかわいそうじゃないですか」
イラァっとしたオーラが彼女から溢れてきたが、推しのスペシャルウェディンググッズは取りこぼしなく飾りたい。
「というわけで廊下に置かせていただきたく」
「却下」
勝算のない交渉に入ろうとしたが、当たり前のように却下された。
「推し活もいいけど、そっちばっかり大事にされちゃったら、今度は私の居場所がなくなるじゃん」
「!?」
しょんもりといじけているが、それはどういう理屈だ!?
俺の推しは彼女である。
居場所がなくなる!? そんなバカなっ!?
「あなたの居場所はここですがっ!?」
ギュウギュウに抱きしめたらビクッてした。
かわいい……。
「ちょっと、待っててくださいね?」
「ん?」
白無垢姿の等身大パネルを丁寧に段ボールにしまい直して作業部屋にしまった。
ドアを閉めたあと、俺は彼女を抱えてリビングに移動する。
ソファの上に彼女を組み敷いて、額にキスを落とした。
「……ねえ、どういうつもり?」
「いえ。ちょっとかまいたくなってしまったので」
「朝から爛れすぎだろ」
「だからリビングで我慢してるんじゃないですか」
「場所の問題じゃ……、ちょっ」
彼女の皮膚に軽く唇を落とすたびに、ピクピクとかわいく反応してくれるから、つい調子に乗ってしまう。
「かわい」
「うっさい」
俺の服に縋りながら睨まれても、照れているのは全然ごまかせていないし、かわいいだけだ。
「俺、作業部屋片づけてくるんで昼飯はどっかで食いに行きません?」
「ん。いい、けど……」
俺の服を握る力を緩めたり強めたり、落ち着きのない様子を見せる彼女の頬に触れる。
親指でしっとりとした唇の輪郭をなぞった。
「ここは……俺が止まれなくなっちゃうので。もう少し待っててくださいね?」
「……言わなくていいヤツ」
言わないと不安になるクセに。
その本音は隠し、力なく服から離されたその手に俺はキスをした。
『仲間になれなくて』
俺たちの住む地域には直撃しない予報だが、現在、大きな台風が発生している影響で大雨警報が出ていた。
日用品を買い出しに行く予定だったのだが、朝から警報まで発令している状態で彼女を外に出すわけにはいかない。
せめて解除されるまでと、一応、出かける準備を簡単に整えて自宅で待機していた。
外から打ちつける雨音は激しさを増している。
目に痛いくらいの鮮やかな青空が、今はぶ厚い灰色の雲に覆われていた。
リビングの照明を明るくさせて、テレビをつけて気象情報を垂れ流す。
「雨やまないねえ……」
ソファの上でクッションを抱える彼女が、退屈そうに呟いた。
クッションを抱えながらベランダの窓のカーテンをめくるが、シャッターを閉めているので外の様子は見ることができない。
「……」
彼女の発した「雨がやまない」という言葉。
昔、ある有名な文豪が「まだ一緒にいたい」という外国語を「雨がやみませんね」と和訳したらしい。
奥ゆかしい日本人の性格を美しく表現した文芸家らしい意訳に、文字を綴る端くれとしてひどく感銘を受けた。
駆け引きを嫌う彼女が、そのような意図や情緒を含ませていないことくらいは理解している。
しかし、暇を持て余した彼女が落ち着きなくリビングをウロウロし始めたのだ。
放っておくと特大マットを広げて、筋トレでも始めてしまいそうである。
どうせ時間を潰すのなら俺にかまってほしかったため、ちょっとばかし仕掛けてみた。
「……きっと、月もきれいですよ?」
俺は「愛している」という意味が込められた有名な言葉で返し、ソファに座って腕を広げた。
「え、月?」
彼女は首を傾げながらも、ちょこちょこと素直に俺の前に寄ってくる。
そして、なんのためらいもなく俺の前に腰を下ろした。
最高である。
交際を始めておよそ3年。
彼女を徹底的に甘やかして防御壁と警戒心を蕩かして、丹精込めてここまでお育てした甲斐があった。
抱えていたクッションをはぎ取り、彼女の腹に腕を回して密着する。
「ええ。愛しています♡」
彼女は、生活力は低いが知能指数は高い。
俺がストレートに言い直せば、自分の発言した言葉に隠された意味を察したようだ。
今日は彼女と言葉遊びを楽しむことに決める。
彼女をかまえて、口説けて、イチャイチャできるのは最高だ。
「……っあ、ちょ、まっ!? ち、違うっ!!」
とっさに弁明できない彼女が、慌てふためいた様子で振り返る。
少し赤らむフワフワで柔らかな頬に軽くキスをした。
「おや。違いましたか」
「そ、そんなつもりは……ない、よ?」
キスをされた頬に手を当てらいながら、彼女は唇を尖らせる。
寂しそうに長い睫毛を揺らす彼女に、メイクを崩してはいけないという気遣いが裏目に出たことを悟った。
彼女を抱きしめる腕に力を込める。
「ではもう少しここにいましょうか」
どうやらこちらの意味もちゃんと把握しているらしい。
ボンッ、と、彼女の顔が本格的に真っ赤に染まった。
「ねえっ!? だ、だからっ、違うってば!?」
「ええ。わかってますよ?」
「〜〜〜〜っもうっ! 濡れて帰るっ!!」
元気よく照れる彼女を愛でていたら、勢いよく立ち上がろうとする。
とんでもない言葉が飛び出してきたから、慌てて彼女を捕まえた。
「ちょっと。あなたのおうちはここですよ。そもそも、こんな雨のなかどこに帰るつもりでいるんですか。折りたたみますよ?」
ギリギリ反射神経が間に合ったおかげで、なんとか彼女の脱走を阻止できた。
しかし彼女は諦めずに抵抗を続ける。
「たった今、実家に帰りたくなったわっ! たたむなっ! おたんちん!」
「はあっ!? なんてこと言うんですか!? ダメですっ! 寒いでしょう!? 寒いですよね!? こっちきてください暖かいですからっ!! 俺と見る海はきれいだし虹はきれいだし星はきれいだし夕日だってきれいですよっ!?」
さすがに「実家に帰る」はずるいだろう!?
彼女の体をソファに押し潰して、物理的に逃げ道を塞いだ。
勢い余って俺の胸で顔を潰してしまったらしく、呼吸を確保しようとモゾモゾとよじ登ってくる。
「ちょいちょいちょいちょい多い多い多い多いっ! 重い苦しい潰れるっての! いったん落ち着けよっ!」
「うわ、うるさ」
「やかましいわっ!」
落ち着けって言ったのそっちのクセに……。
苦しいのはかわいそうだから呼吸は許したのに、耳元ででかい声で騒がれた。
理不尽の極みである。
「あと! さすがに全部はわかんない!」
ジタジタバタバタと抵抗をやめない彼女の手首は掴んだまま、真っすぐ見下ろした。
「え、……な、なに?」
「すみません」
急におとなしくなった彼女に俺は謝る。
「……俺も、ちょっと意味までは把握してません」
「なんっっっ、でだよっっっ!?」
必死だったんだからしかたないではないか。
グリグリと彼女は容赦なく膝を俺の腹に押し当てて、押し除けようとした。
しかし俺も鍛えていないわけではない。
そのまま脚を割って間に体を捩じ込んだ。
「あなたが俺のこと捨てようとするからですっ!」
「いくらなんでも人聞き悪くないっ!?」
ギロリと睨みつけた彼女の眼差しが強くてわれに返った。
「……」
抵抗して乱れた髪の毛、興奮して赤らんだ頬に、結局崩れてしまったメイクと、大きな声を出して浅くなった呼吸。
俺に拘束されて手首は自由を奪われ、下半身は密着していた。
ちょっとこの体勢はマズい。
そう思ったときにはもう遅かった。
彼女の唇に視線が移ろいだとき、プッツンと理性が弾けたのを自覚する。
「俺は悪くないです」
そういえばさっき、お口にキス、してほしそうだったよな……?
メイクも崩してしまったから、もういいか。
責任を彼女に転嫁して、容赦なく距離を縮める。
「いいから。いったん黙って俺に愛されろください」
「ちょぉ、……ん……っ」
少し強引に唇をさらい、雨足が落ち着くまで彼女をドロドロに甘やかしたのだった。
『雨と君』
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『雨がやみませんね』
……もう少しあなたと一緒にいたいです
『月がきれいですね』
……あなたを愛しています
『もう少しここにいたいです』
……まだあなたと離れたくありません
『濡れて帰ります』
……あなたとは一緒にいたくありません
『寒いですね』
……私を抱きしめてください
『暖かいですね』
……あなたが隣にいてくれて幸せです
『海がきれいですね』
……あなたに溺れたいです
『虹がきれいですね』
……あなたと繋がりたいです
『星がきれいですね』
……あなたに憧れています
『夕日がきれいですね』
……あなたの気持ちを知りたいです
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====================
冒頭、少し百合っぽい表現があります。
苦手な方は「次の作品」をポチッとして、自衛をお願いいたします。
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『 誰もいない教室。
グラウンドから聞こえてくる喧騒。机の隅の甘ったるいイチゴミルクの香り。ノートの上に綴られていく記号たち。
廊下側の窓を開けてみる。湿度をまとった空気が重たく肌にのしかかった。不快指数は上がるものの皮膚を撫でる風はほんの少しだけ冷たい。
まだ、胸の奥が痛かった。
自然とシャーペンを握る手に力が入る。
昨日、人けが少なくなっていくこの教室で、あなたは彼を待っていた。知っていたから私は勉強をしているフリをして、ささやかな邪魔立てを企てる。
しばらくして彼が来た。いつもクールで大人びたあなたが、小さな子どもみたいに白い歯を見せて、目尻を下げて、頬を染めて破顔する。眩しくきらめいたあなたの笑顔に私は胸が苦しくなった。あと何回、私は恋に落とされてしまうのだろう。
それなのに。顔を隠して寝たふりをしてまでも、私はあなたを目に焼きつけたい。
あなたの短い黒髪に、骨張った太い指が触れた。熱で潤んだあなたの瞳と赤らんだ頬、綻んでいた唇が羞恥心で萎む。溢れる劣情を必死に飲み込んだ。
嫉妬に塗れた惨めな私なんて、最初から彼女たちには見えていない。
彼が身をかがめて、あなたは静かに目を閉じた。近づいていくふたりの距離。現実を受け入れるのが怖くて、それでも目を逸らすことはできなくて、視界が歪んでいった。
パチン。
ふたりの距離の隙間から、乾いた音が教室に響いた。
「痛くない?」
「平気……」
「似合ってる」
「ありがとう」
ふたりの初々しく控えめな声は、私の傷口を容赦なくえぐった。
黒髪を飾る小さな金木犀。燃えるようなオレンジ色があなたの黒髪に艶を与えた。
彼はあなたにとてもよく似合う、オレンジ色をしていた。明るくて、爽やかで、優しくて、柔らかくて、甘い。
そのオレンジ色を彼はあなたに刻みつけた。
嗚咽を堪えるために唇を噛む。揺れる肩を押さえるために腕に爪を食い込ませた。それでも涙はとめどなく流れていくから息を潜める。
そうしているうちに、ふたりが教室から出て行った。
廊下の足音が聞こえなくなるまで、声を殺して泣き続ける。
スカートのポケットから紫陽花の刺繍の入ったハンカチを取り出し、涙を拭った。
席を立ち、そのハンカチをゴミ箱の奥に隠して捨てる。
失恋を捨て、訪れたばかりの秋を捨て、大袈裟に廊下に足音を響かせた。
さながら私は悲劇のヒロイン、傲慢に夏の終わりを慈しむ者。』
*
キリのいいところまで書きあげて、パソコンの電源を落とす。
背後にくっついていた彼女がため息をこぼした。
「……ひねくれ者」
「勝手にのぞいておいてうるせえです」
体を捻って彼女と向き合い、青銀の髪に触れた。
からかいを含んだ笑みに複雑な心地になる。
「その顔やめてください」
「えー?」
「キスできないじゃないですか」
俺が不貞腐れたら彼女は挑発的に唇をつり上げて、俺の頬を撫でた。
真っすぐ射抜いてくる視線が傲慢に光る。
「だったらその気にさせてみなよ」
「なるほど。わかりました」
俺は立ち上がって、彼女の右手を取る。
リビングを出ようとする俺に、彼女は戸惑いを隠せない様子で首を傾げた。
「え、どこ行くの?」
「ベッドですよ? その気にさせたら、いいんでしょう?」
「はあっ!?」
わかりやすく狼狽える彼女の前で眼鏡を外す。
ついでに彼女の負けず嫌いを煽った。
「がんばるので、なるべく早くギブアップしてくださいね?」
「あ? どうせ先に根をあげんのそっちだろ?」
その言葉を合図に俺たちの間でゴングが鳴る。
彼女の背をベッドシーツの上にそっと押しつけた。
「今日は譲りませんよ。がんばるって言ったでしょう?」
「ほーん?」
「早くそのかわいいお口にチューしたいんで♡」
キスしたい俺と今は気分ではないらしい彼女。
彼女がキスを拒否しない時点で俺の勝ち筋しかなかった。
本当に、こんな薄い防御壁でよくもまあこれまで無事でいられたものである。
俺は、彼女の体に手を伸ばした。
『誰もいない教室』
彼女の家の一番近くにある歩行信号。
ちょうどタイミングよくその信号が青に変わった。
それなのに彼女は足を止めて、クン、と俺の服の裾を控えめに引っ張る。
不器用な彼女の「寂しい」と、別れを惜しむ合図だ。
「……あの。消しゴムなくなりそうなんで、コンビニに寄っていいですか?」
「!」
俺の提案に彼女の表情が少しだけ和らぐ。
彼女からのサインがあったとき、必ずといっていいほど、横断歩道から少し逸れたコンビニに寄っていた。
ペットボトルや文房具、駄菓子やホットスナックと、言葉にしない彼女に悟られないように、購入する品物もバラつかせる。
気を遣ってわがままを言ってくれなくなるほうが困るからだ。
*
同棲を始めてしばらくして、駅からの帰宅ルートも画一されてきた頃。
駅前の信号機が赤になった。
俺たちは横並びになり足を止める。
信号を待つ間、わらわらと人が集まり自然と俺たちの距離が近くなっていった。
彼女と繋いでいた手の甲が俺の太ももを掠める。
慣れとは恐ろしいものだ。
今さら偶発的な接触に動揺することはない。
ただ、小さな彼女が潰れてしまわないか心配で、肩を抱き寄せようと繋いだ手を解こうとしたときだ。
すり……。
と、彼女が俺の腕を絡め取って額を寄せてきた。
は?
少しずつ涼しくなってきたとはいえ、まだ装いは半袖だ。
彼女の小さな吐息が直接、腕をくすぐる。
出先にもかかわらず、こんなふうに甘える彼女を見たことがなかった。
思わず彼女を見る。
しかし、彼女はぼんやりと赤信号を見つめているだけで、どんな意図が含まれているのか見つけることはできなかった。
「……帰りたく、ないですか?」
「え?」
彼女が俺を見上げた瞬間、信号が青に変わる。
立ち止まったままの俺たちを、人々が迷惑そうに避けながら横断歩道を渡っていく。
信号が再び赤に戻る前にと、俺たちも足早に白線を跨いだ。
横断歩道を渡りきったあと、青信号が点滅する。
赤に戻った信号機の色を横目に、歩行者の邪魔にならないように道の隅に寄った。
「ねえ。さっきの、……なに?」
訝しむ彼女は、先ほどの俺の言葉に引っかかりを覚えたのだろう。
大した根拠はなかったが、ごまかすのも違う気がした。
「え? いや……少し、物憂げな顔をしていたので」
「そうなの?」
「ええ。だから、その、……帰りたくないのかなと」
俺との同棲生活に不自由を感じてきたのだろうか。
とは怖くて聞けなかった。
思考が少しマイナス気味なのは、少しずつ季節が秋に移ろいでいるせいか。
「そんなことないよ」
俺の言葉を彼女は軽々と否定する。
それでも、俺を見つめる瞳はどこか切な気だった。
「でも、楽しかったから。今日が終わるのはちょっと寂しいなって思っただけ」
小さく溢した彼女が儚気でとてもきれいだったから。
以前、寂しさを紛らわすために使っていた手段を、久しぶりに利用した。
「……そこのコンビニ、寄って行きます?」
瑠璃色の瞳がわずかに揺れる。
彼女はなにか言いかけるが、フッと柔らかく息をこぼして首を横に振った。
「……これといって必要なものはないから、大丈夫」
少し残念に思いながらも、満足そうに微笑む彼女を前に俺は引き下がる。
「そうですか」
横から照らす西日を浴びながら、彼女が俺の左手を取った。
大きく一歩を踏み出した彼女は、肩口から挑発的に唇を緩めた。
「それに、明日のれーじくんは、もっと私を楽しませてくれるでしょ?」
「は? 今日の俺だってまだまだがんばれますが?」
「ちょっと。なにと張り合ってんの?」
あきれた眼差しを向けた彼女はすっかりいつもの調子に戻っている。
元気よく揺れる小さなポニーテールを、俺は目を細めながら追いかけるのだった。
*
帰宅後。
「なんでないのぉおおぉぉ!?」
夕飯も風呂も寝支度もすませてから、彼女がやれハンドクリームを切らした、やれ爪切りが壊れた、やれボールペンがないと喚き散らした。
隠れていただけで、必要なものがいっぱいあったらしい。
「では、ドラッグストアに行くついでに、夜のお散歩デートでも楽しみましょうか」
「うう、ごめん……」
「いえ。あなたの1日を楽しく締めくくることが俺の生き甲斐ですから」
とは言ってみたが、何気ない日々をいつまでも楽しませてくれるのは、控えめに見積もっても彼女のほうである。
『信号』