彼女の家の一番近くにある歩行信号。
ちょうどタイミングよくその信号が青に変わった。
それなのに彼女は足を止めて、クン、と俺の服の裾を控えめに引っ張る。
不器用な彼女の「寂しい」と、別れを惜しむ合図だ。
「……あの。消しゴムなくなりそうなんで、コンビニに寄っていいですか?」
「!」
俺の提案に彼女の表情が少しだけ和らぐ。
彼女からのサインがあったとき、必ずといっていいほど、横断歩道から少し逸れたコンビニに寄っていた。
ペットボトルや文房具、駄菓子やホットスナックと、言葉にしない彼女に悟られないように、購入する品物もバラつかせる。
気を遣ってわがままを言ってくれなくなるほうが困るからだ。
*
同棲を始めてしばらくして、駅からの帰宅ルートも画一されてきた頃。
駅前の信号機が赤になった。
俺たちは横並びになり足を止める。
信号を待つ間、わらわらと人が集まり自然と俺たちの距離が近くなっていった。
彼女と繋いでいた手の甲が俺の太ももを掠める。
慣れとは恐ろしいものだ。
今さら偶発的な接触に動揺することはない。
ただ、小さな彼女が潰れてしまわないか心配で、肩を抱き寄せようと繋いだ手を解こうとしたときだ。
すり……。
と、彼女が俺の腕を絡め取って額を寄せてきた。
は?
少しずつ涼しくなってきたとはいえ、まだ装いは半袖だ。
彼女の小さな吐息が直接、腕をくすぐる。
出先にもかかわらず、こんなふうに甘える彼女を見たことがなかった。
思わず彼女を見る。
しかし、彼女はぼんやりと赤信号を見つめているだけで、どんな意図が含まれているのか見つけることはできなかった。
「……帰りたく、ないですか?」
「え?」
彼女が俺を見上げた瞬間、信号が青に変わる。
立ち止まったままの俺たちを、人々が迷惑そうに避けながら横断歩道を渡っていく。
信号が再び赤に戻る前にと、俺たちも足早に白線を跨いだ。
横断歩道を渡りきったあと、青信号が点滅する。
赤に戻った信号機の色を横目に、歩行者の邪魔にならないように道の隅に寄った。
「ねえ。さっきの、……なに?」
訝しむ彼女は、先ほどの俺の言葉に引っかかりを覚えたのだろう。
大した根拠はなかったが、ごまかすのも違う気がした。
「え? いや……少し、物憂げな顔をしていたので」
「そうなの?」
「ええ。だから、その、……帰りたくないのかなと」
俺との同棲生活に不自由を感じてきたのだろうか。
とは怖くて聞けなかった。
思考が少しマイナス気味なのは、少しずつ季節が秋に移ろいでいるせいか。
「そんなことないよ」
俺の言葉を彼女は軽々と否定する。
それでも、俺を見つめる瞳はどこか切な気だった。
「でも、楽しかったから。今日が終わるのはちょっと寂しいなって思っただけ」
小さく溢した彼女が儚気でとてもきれいだったから。
以前、寂しさを紛らわすために使っていた手段を、久しぶりに利用した。
「……そこのコンビニ、寄って行きます?」
瑠璃色の瞳がわずかに揺れる。
彼女はなにか言いかけるが、フッと柔らかく息をこぼして首を横に振った。
「……これといって必要なものはないから、大丈夫」
少し残念に思いながらも、満足そうに微笑む彼女を前に俺は引き下がる。
「そうですか」
横から照らす西日を浴びながら、彼女が俺の左手を取った。
大きく一歩を踏み出した彼女は、肩口から挑発的に唇を緩めた。
「それに、明日のれーじくんは、もっと私を楽しませてくれるでしょ?」
「は? 今日の俺だってまだまだがんばれますが?」
「ちょっと。なにと張り合ってんの?」
あきれた眼差しを向けた彼女はすっかりいつもの調子に戻っている。
元気よく揺れる小さなポニーテールを、俺は目を細めながら追いかけるのだった。
*
帰宅後。
「なんでないのぉおおぉぉ!?」
夕飯も風呂も寝支度もすませてから、彼女がやれハンドクリームを切らした、やれ爪切りが壊れた、やれボールペンがないと喚き散らした。
隠れていただけで、必要なものがいっぱいあったらしい。
「では、ドラッグストアに行くついでに、夜のお散歩デートでも楽しみましょうか」
「うう、ごめん……」
「いえ。あなたの1日を楽しく締めくくることが俺の生き甲斐ですから」
とは言ってみたが、何気ない日々をいつまでも楽しませてくれるのは、控えめに見積もっても彼女のほうである。
『信号』
9/6/2025, 4:16:21 AM