洗面台で上機嫌に鼻歌を歌いながら、彼女は身支度を整えていた。
瑠璃色の澄んだ瞳に黒色のカラーコンタクトを入れる。
大きな瞳がいつもよりひと回り大きくなって目力が増した。
青銀の髪の毛を黒いウィッグで隠して、ふわふわの白い睫毛にも黒を足す。
薄く施したメイクによく似合うフリルのついたブラウスと、グレージュのプリーツスカートはいつにも増してフェミニンだ。
シンプルな爪には、薄い紫が一色塗られている。
「あー……。リムーバー買うの忘れた」
「せっかく塗ったのに、すぐ剥がしちゃうんですか?」
「だって重たい」
「それはどうしようもないですね」
淑やかに飾られた爪を、彼女はどこか疎ましそうに見つめている。
素爪で生活する彼女にとって、マニキュアは違和感が大きいようだ。
「それにイヤでしょ。派手に爪を飾った女」
「そんなことないです。似合ってますよ」
白々しいと言わんばかりの挑発的な眼差しを向けられたが、少なくとも彼女には当てはまらない。
爪まで着飾ってかわいいと思ったくらいだ。
「無理しなくていいのに」
「してませんって」
彼女がどうしてその結論にいたったのか気になるくらいだ。
ただ、彼女のその言葉で俺ではない別の『誰か』のために着飾っていることが明白になる。
清楚にまとまっていてめちゃくちゃかわいいけれども。
そもそも。
今日の彼女の予定はフリーだったはずだ。
だからこそ、俺は彼女の自宅に押しかけたのである。
迷惑そうにするわけでもなく、むしろうれしそうに彼女は自宅に招いてくれた。
予定が入っているなら教えてほしい。
1日中彼女をかまい倒せるとウキウキしていたのに。
普段使いしているシトラスではなく、ウッディ系のコロンまでつけてしまうのだから、ますます胸がざわついてしまう。
ほわほわした格好で女友だちだけでの集まりならまだしも、野郎が混ざっていたら許せる気がしなかった。
「今日、出かける予定なんて入ってましたっけ?」
結局、取り繕う余裕なんて持てずにストレートに聞いてしまった。
「あぁ。ごめんね? 昨日の夜に都合つきそうって連絡きてたの」
夜……。
彼女の口ぶりからは後ろめたさは感じ取れない。
だが、就寝の早い彼女と気軽に連絡できる相手が俺以外にもいるのかと、想像するだけで面白くなかった。
「一緒にお昼ご飯食べにいこう?」
「……」
当たり前の俺の手を取ってぷらぷらと揺らす彼女に、フリーズする。
「は?」
「え?」
首を傾げる俺に、彼女も首を傾げた。
パチパチと大きな瞳で俺を不思議そうに見上げる。
「俺と、でかけるんですか?」
「一緒に行かないの?」
むしろ行ってもいいんですか?
俺はうれしいが彼女のその無邪気さは、相手にとって迷惑にならないのだろうか。
「えっと……その、いきなり俺が混ざっても大丈夫なんですか?」
「わかんないけど、別にいいんじゃない? 説得力が増す」
「説得力、とは?」
「食事ついでに彼氏ができたよってトトとララに改めて報告するの。そっち次第だけど実物見せたほうが早いでしょ?」
「!?」
トトとララ、というのは彼女のふたりの兄である。
兄弟水入らずで食事を楽しむ可能性は予想できなかった。
ふたりの兄の存在は彼女から聞いていたが面識はない。
結婚を前提に交際を進めているのだから、せめてお義兄様には近いうちにご挨拶をさせてほしいとは頼み込んでいた。
しかしそれが今日だとは思うまい。
「予約するようなところでご飯食べるわけでもないし、ひとり増えたって平気と思う」
待て待て待て待て!
アポなしだとっ!?
せめて事前に心の準備をっ!?
「……それ、今日じゃないとダメですか……?」
「別に無理はしなくていいけど、次にふたりの予定が合う日、わかんない」
容赦なく逃げ道を塞がれる。
ついてこなくてもいいと彼女は言うが、多分行かないとめちゃくちゃ後悔しそうだった。
俺の胸中など露ほども察していない彼女は、げんなりと眉毛と肩を落とす。
「それに、どっちか分けちゃうとあとが大変なの。大事なことはふたり一緒に報告したほうが平和」
なんだそれ。
……と思ったが、彼らは彼女と遺伝子構造が一番近い存在だ。
意外と鼻息が荒いのかもしれない。
心の準備をするために彼女から少しでも情報を得ようと探った。
「どんなお義兄様なんですか?」
「え? どんなって言われてもな? ……うーん」
腕組みして少し考えたあと、適切な言葉でも思いついたのか今日一番の笑顔を俺に向けた。
「れーじくんみたいな人っ! だから、気は合うんじゃない?」
かっっっわっっっ!?
眩くて浄化してしまいそうな天真爛漫な笑みに、俺はもうどうにでもなれと開き直った。
*
その後。
彼女のお義兄様と対面して、彼女が『俺みたいな人』と形容した理由が明らかとなった。
気は……おそらく合わないだろう。
彼女が着ていた洋服もお義兄様が用意したものだと知り、嫉妬で狂いそうになった。
なぜなら俺は、推しのガチ恋拗らせ強火担同担拒否勢である。
『ふたり』
いつから、なんて明確なきっかけはない。
頭の中はいつも言葉に溢れていて騒がしかった。
反面、心の中に描かれた景色は特にない。
浮かれた理想も、都合のいい言葉のかけ合いも、ありふれた幸せという未来も、ただ言葉としてぐるぐるぐるぐる駆け巡った。
実現性、具体性、整合性がないのだろう。
イメージしようとすると楽しかったはずの言葉たちが霧散した。
足りない情報を理性的に肉づけしたところで、描いていた爽快感からは程遠い。
俺にはいつもなにかが足りなかった。
底が抜けておかしくなってしまった俺の心は、いつも渇くばかりで満たされることはない。
今は騒がしい頭の中の言葉も、そう遠くない未来、言葉にすらできなくなると確信していた。
ぐるぐるぐるぐると不快感だけが頭の中にうるさく残る。
昇華できず、燻ることすらできなくなり、俺は文字を綴ることをしなくなるはずだ。
景色も、言葉も、匂いも触れられなくなって噛み締めることもなくなる。
その本質は今も変わらなかった。
「ばふんっ」
リビングでパソコンのキーボードを叩いていると、背中にかわいいのがぶつかってきた。
「なにひとりで楽しそうなことしてんですか?」
「なんかごちゃごちゃ考えてそうだったから癒しにきた」
「まあ、作業中ですからね?」
俺の作業中に彼女がくっついてくるなんて珍しい。
いつもなら彼女は俺の邪魔にならないようにストレッチしたり、外へ出たりしていた。
「かまってほしいなら、あとでゆっくり……」
「やーだ」
しかも駄々までこねてきた。
今日はかまってほしい日なのかもしれない。
「別にかまってほしいわけじゃないから、気にしないで」
「そうはおっしゃられましても」
彼女がこんなふうに甘えてくることなど滅多にないから、ウザがられるまでかまい倒したい。
それでなくとも、熱を持った柔らかな肌や、控えめに膨らんだ胸や、引き締まった下腹部が背中から伝わってくるのだ。
昨夜、俺が全て乱した彼女の温もりがそこにある。
腹に回された小さな右手の甲を撫でた。
「とりあえず、キスしません?」
「ほあっ?」
すっとんきょうな声をあげた彼女の隙をつき、体勢を変える。
彼女と向き直ってもう一度訊ねた。
「イヤですか?」
「い、イヤとか、そういうのは、ないけど……」
「よかった」
頬に触れれば彼女はゆっくりと瞼を伏せる。
照れて彼女の睫毛がふるふると震えていた。
その瞼にひとつ、唇を落とす。
「っ?」
唇を突き出したまま瞼を持ち上げた彼女に、愛おしさが込みあげて目元が緩んだ。
「では、遠慮なく」
「え、んっ」
ちゅ、と軽いリップ音を鳴らして彼女の唇を啄む。
目を白黒させている彼女と至近距離で見つめ合った。
「驚きすぎでは?」
「だ、だって急にっ」
「キスには変わりないでしょう?」
「そうだけど……」
ぎゅうと服に縋って視線を泳がす彼女の態度がかわいくて、軽いキスだけでは物足りなくなる。
「ね。もう1回」
「ん……」
細い腰を抱き寄せて今度は深くキスをした。
角度を変えるたびに、彼女の口から甘やかな声が漏れる。
くぐもった吐息が理性を少しずつ溶かしていった。
「……甘えるなら、こっちにしてください」
これ以上、深く触れてしまうとさすがに作業どころではなくなってしまう。
濡れた唇を拭って、俺は太ももをトントンと叩く。
「……え?」
背中から抱きつかれるのも悪くはないが、俺としては彼女の存在はきちんと視界に入れておきたかった。
「顔、ちゃんと見たいです」
ぽやぽやと蕩けていた目元に、深く険しいシワが刻まれる。
「私の顔、好きすぎじゃない?」
「それはもちろん。ひと目惚れしたくらいですから」
あきれて鼻を鳴らした彼女に、間髪入れずにうなずいた。
つき合いを重ねて彼女を見慣れてきたとはいえ、見飽きるなんてことはありえない。
彼女の顔を一番近くで見たくてずっと想いを拗らせ続けたのだ。
しかもどんどんきれいになるし、どんどんかわいくなっていく。
ますます彼女を好きになるばかりだった。
「……」
「自分で聞いておいて照れないでくださいよ」
「照れてないっ!」
耳まで赤くしてこれのどこが照れていないというのか。
「……普通、膝枕って柔らかいもんじゃないの?」
「それはすみませんね」
「あと、高い。ちゃんと足伸ばして低くして」
「はいはい」
注文の多いハニーである。
ブツクサ文句をたらしながらも収まりのいい位置を見つけたのか、彼女の体の力が抜けた。
彼女の額にキスをして、まんまるとした頭を撫でる。
くすぐったそうに彼女が息をこぼしたあと、沈黙が流れた。
それを合図に、彼女はゆっくりと目を閉じておとなしくなる。
俺は再び、パソコンのキーボードを叩き始めた。
心の中の風景はいつもなにも描かれなかった。
それでも俺の世界には彼女がいる。
たくさんの色と感情をくれる彼女がいる限り、俺はきっと言葉を綴り続けることができる。
頭の中でとっ散らかって暴れ回る言葉が、少しずつ精査されていった。
『心の中の風景は』
太陽の下できらめく雑草は鮮やかで若々しい。
蒸されるような夏風に吹かれて奏でた葉擦れは心をざわつかせ、鼻についた香りは青臭い。
耳をつんざく蝉の音と、皮膚にまとわりつく湿度は不快指数を上げた。
*
「今日もシケた背中してんね?」
まとわりつく不快指数を吹き飛ばすような勢いで、背中を叩かれる。
悪びれもしない爽やかな声に、俺は振り返った。
背後にいたのは、スポーツウェアを身にまとった彼女である。
大学での練習を切りあげたのか、彼女はスポーツバッグのほか、エコバッグを片手にぶら下げていた。
「夏バテです」
この茹だる暑さのなか、密閉された体育館で元気に駆け回れる彼女からしたら、一般人などみんなバテて見えるだろう。
しかし彼女は俺の言葉を一蹴した。
「ウソつけ。昨日、元気に焼肉食べに行ってたの知ってるんだから」
「なんで知ってるんですか」
「昨日『オタクのカレシお借りしてまーす』ってクソだるい電話がかかってきたよ?」
「は? なに勝手に仲良くなって連絡先交換してんすか」
「してねえよ。そっちのスマホからかかってきたの」
「あぁ、それなら。まあ……」
いやいやいやいや。
普通にイヤだけど。
酔っ払っていたのか、携帯電話を奪われていたことも全然覚えていない。
こんな曖昧な記憶で彼女との口論に勝てるはずもなく、諦めて溜飲を下げた。
「草の青々とした匂いが苦手なだけですよ。部活中にペナルティで体育館周りの草むしりさせられたのを思い出しました」
「そんなことしてたんだ? 強豪校は大変だねー」
ケラケラと軽く笑い飛ばした彼女だが、俺としては笑えない。
昨日、焼肉を食べた相手がその部活のOBであり、部活中に備品を壊したペナルティについて、彼らと語り合ったばかりだからだ。
諸先輩方は当時を懐かしんでいたが、巻き込まれた俺にとっては理不尽極まりない記憶である。
「……190cm超えた先輩方がボールカゴの中に体突っ込んで体育館1周しようとした途中、重量に耐えられなくなったカゴの骨が折れたり、ネット巻いて角切りチャーシューだなんだと騒いで破ったり、モップでチャンバラして柄を折ったり、ボール蹴り上げて天井に突き刺したり、その度になぜか俺が巻き込まれて草むしりさせられて何度辞めたいと思ったか……」
「それはそれは。おりこうさんにしてるだけじゃ団体競技は生き残れないかー」
口では憐れんでるが表情はニヨニヨと緩んでいて面白がっている。
「……」
この人はそういう人だよな。
知ってた……。
さすがに備品を壊すなんて無作法なことはしないだろうが、彼女も好奇心には抗えない人だ。
目の前に未知なるものが立ちはだかれば、ためらいもなく飛び込むのだろう。
「……こんなところで立ち話しても溶けるだけですし、行きましょう?」
「あっ! そうだ!」
促そうとしたとき、彼女が目を爛々と輝かせて俺を見上げる。
ほとばしる汗にも負けない、キラキラと眩しい笑顔に胸が高鳴った。
「そんな青春を謳歌したきみにご褒美をあげよう」
軽快に声を弾ませた彼女との距離が近くなる。
無警戒で無垢な距離感と無意識に紡がれた甘美な言葉に、呼吸が浅くなっていった。
「ご褒美、ですか……?」
「これっ」
掠れた俺の声に違和感を持たずに、彼女は無邪気にぶら下げていたエコバッグを持ち上げる。
そして、中から彼女はペットボトルとアイスクリームを取り出した。
「コンビニで買っちゃった」
ああ。
やっぱり夏は苦手だ。
夏草の匂いが彼女の香りをかき消そうとする。
「珍しいですね。あなたがアイスクリームなんて」
「だって好きでしょ? でも、ちょっと溶けてそうだから家で冷やし直したほうがいいかも」
柔らかく微笑みながらうなずく彼女の横髪を夏風がさらう。
「……これ、俺用ですか?」
「そだよー。ご褒美って言ったじゃん」
乱れた髪を指先で押さえたあと、耳にかけて整えた。
風は彼女の視線まで奪っていく。
ゆったりと空を仰いだあと、彼女は再びエコバッグに視線を落とした。
「本当は、今度家に来てくれたときのために置いておこうかなって思ってたけど……」
ペットボトルとアイスクリームをエコバッグにしまって、俺の前に差し出した。
エコバッグを受け取ったあと、彼女と目が合う。
少しはにかんだ彼女は俺から目を逸らしかけて、やめた。
夏の暑さのせいか、それとも感情を乗せたせいか、目元を細める彼女の頬がほんのりと赤く染まる。
「今日、会えてよかった」
「え……?」
真っすぐで純粋な彼女の言葉が、カサついた心に潤いをもたらす。
無防備な笑顔に触れたくて手を伸ばした。
しかし、触れることは叶わない。
「じゃあ、またね」
軽快な一歩を刻み、彼女は俺の横を通り抜ける。
夏草と同じリズムで小さなポニーテールを揺らして、彼女の小さくなっていく背中を見送った。
『夏草』
あー……、飲みすぎた……。
昨夜の飲み会の酒がまだ残っている気がする。
ぼんやりと意識を覚醒させたときには、彼女の姿は既にベッドにはなかった。
時間は9時を回り始めていて、彼女の温もりは既に消えている。
寝過ぎた俺は、ベッドボードに置いてある眼鏡をかけた。
え、あれ? ……は?
俺はあるはずの物がないことに気がついた。
つき合いはまだ浅いが眼鏡同様、もはや俺の分身といっても過言ではない相棒。
結婚指輪だ。
「は?」
彼女と苗字を重ねて以降、肌身離さず身につけていたというのに、ない。
枕の下、ベッドの隙間、服のポケット、カバンの中、洗面台、玄関、どこにも見当たらなかった。
残るは彼女がいるであろうリビング。
ヤバい……。
指輪を失くしたなんて知れたら怒るか泣くか拗ねるかされて、今日予定していた久しぶりのデートが潰されかねなかった。
一旦、一旦、リビングは後回しにしてもう一度寝室を確認してみよう。
そうしよう。
「コソコソなにやってんの?」
リビングを素通りしたとき、背後から声がかかった。
この凛とした涼やかな声の主は当然、彼女である。
振り返ると、彼女は腕を組みながら仁王立ちしていた。
仁王立ちしててもかわいい。
でもこのかわいいを今から鬼にするのは俺だ。
鬼嫁の彼女も……コレはコレでかわいい。
しかし、怒ると怖いので俺は土下座した。
「ごめんなさい」
「なにが?」
飲みの席で、途中、女性が合流したこと。
酔い潰れて帰宅したこと。
予定していた帰宅時間より大幅に遅れたこと。
彼女の『なにが?』に対する返答はいくらでも思いつくが、その冷ややかな声の威圧感に屈した。
「飲みの席では肌身離さずつけていたはずなんですけど、その……指輪を失くしてしまいました」
「へーえ?」
蔑みの目でへたり込む俺を見下しながら、彼女はネックレスチェーンに通された指輪をハーフパンツのポケットから取り出す。
「指輪なら……ここにあるよ?」
「!?」
小さな手のひらに乗せられた指輪に言葉を失った。
なんで彼女が持っているんだ?
中途半端に途切れている記憶が忌まわしい。
真相を知りたくて彼女を見つめると、鼻を鳴らされた。
ヤバい。
めちゃくちゃ怒ってる。
「昨日、どうやって帰ったか覚えてる?」
「え? 先輩に担がれながら帰宅しました、よね?」
「ちゃんと覚えててえらいね? だったらこのことも覚えてるかなー?」
「……」
「そのセンパイから直接手渡されたんだー」
冷えきった声音とは対極にある不自然なほどきれいな笑みを、彼女は作りあげた。
なんだか、とても嫌な予感がする……。
「ゆ、び、わ♡」
ヒュッ。
瞬間、恐怖で喉が縮み上がった。
「失くした落としたとか騒いでたみたいだけど、最初から、どこにも、ついてなかったからな? 指輪」
カタカタと歯が震えるのを自覚しながらも、なんとか言葉を結んでいく。
「本当に、すみません……。酒はもう飲みません」
「流れるようにウソついてんじゃねえよ」
嘘も最速でバレた。
「……ネックレスにしてるなんて知らなかった。指輪……つけていられないほど気になる?」
さっきの勢いとは打って変わった静かな声に、顔を上げる。
「え?」
高校時代以上に、俺が指の手入れをしているせいか。
彼女はなぜか、俺が指に関して異様な執着を持っていると認識していた。
「それとも、既婚者であることは知られたくない?」
ネックレスにしただけでこの言い分は、さすがに思考が飛躍しすぎである。
眉を下げて唇を引き結んだ彼女を、俺は一蹴した。
「は? あなたのことはできるだけ隠しておきたいのですけど、あなたと結婚できたという奇跡的な事実はむしろ自慢したいくらいです」
最初から指輪をつけていなかったから説得力は皆無だが、結婚した事実を隠したいなんて思ったことはない。
逆はいくらでもあるが。
「イヤ、じゃないなら……。指輪、ちゃんとしてほしい」
きゅ、と彼女が俺の左手の薬指を撫でる。
不器用な彼女の独占欲にブワッと体が熱くなった。
ネックレスのチェーンを外して指輪をはめると、たったそれだけで彼女の眼差しが安堵に染まる。
酒による浮腫みのせいで指が圧迫されるが、ホッと微笑んだ彼女を前にしてしまえば、俺の些細な苦しさなどどうでもよかった。
「あの、本当にイヤとか、そういうのではなく。最近、体重が増えたせいか指輪が合わなくなってきたんです。酒飲むとキツくなるからしかたなくネックレスに……」
「ほほーん?」
しまった。
しょんもりと肩を落とす彼女に焦り散らかしてうっかり余計なことまで口を滑らせてしまう。
さっきのしおらしい態度はどこ吹く風か。
ギロリと大きな目を鋭く光らせた彼女は、抑揚のない声で容赦ない言葉を俺に向けた。
「今日のデートは体育館に変更だから」
「まっ、ちょ!? 指輪のサイズ直したいかなー……と、思っていたり……」
「なに?」
「……ナンデモアリマセン……」
俺の要望は聞き入れてもらえない。
彼女に体育館へ引き連れられた俺は、しっかり肺と筋肉をしごかれた。
『ここにある』
ことの発端はなんてことのない、同僚の些細な言葉だった。
愚痴も混ざって話は脱線を極めたが、趣旨はこうである。
『彼女に靴下を脱ぐように促したら変態のレッテルを貼られた』
適当に相槌を打ちながら聞き流していたところで俺は気づいた。
彼女の靴下を脱がしたことがない、と。
俺は急いで仕事を終わらせて、彼女よりも先に帰宅して待ち伏せをした。
そして今である。
彼女は顔を梅干しみたいにしわくちゃにシワを寄せて、リビングのソファで背中を預けていた。
「ちょっと。なんて顔して照れてるんですか」
「照れてねえ。引いてるんだよ」
帰宅するなり、俺がリビングまでかっさらっていったため、彼女はパンツスーツ姿のまま天を仰いでいる。
しかも片方は素足のままで、魅惑の足先を晒していた。
ストッキングみたいな靴下を脱がせたのは俺である。
裾からパンツをたくし上げた瞬間は最高だったし、すべすべのふくらはぎとさらさらの生地にサンドイッチされた指が幸せで溶けるかと思った。
控えめに言ってめちゃくちゃ興奮した。
一方で彼女の反応はご覧のとおり、シオとツンとキレ全開の、照れのフルコースである。
「……マジで、これを照れ顔と認識してるなら、とっとと眼科に行って眼鏡を新調してこい」
「より解像度を上げてあなたを視認できるのなら、それはそれでとは思いますけど……。それより、足の指にクリーム塗るの横着したでしょう? 乾燥してますよ?」
「……なんで気づくんだよ……」
なんでって、親指にちょっとだけささくれができているからに決まっている。
かかとも少しカサついていた。
「ちょ、それ……やめて……」
足の甲に口づけようとしたとき、彼女は足先を引っ込める。
「なんでですか」
「お風呂がまだだからだけどっ!?」
不服申し立てると彼女が眉を吊り上げてキャンキャン騒ぎ始めた。
「だからいいんじゃないですか。1日中がんばったあなたのおみ足を吸えるとか……至福」
ここは俺が譲歩して彼女の主張を汲む。
代わりに、ぎゅうっとふくらはぎを抱き込んでスーツの上から頬ずりをした。
「もうやだコイツ。なんでこんなに変態なのー……」
「失礼な。なに言ってんすか。ちゃんと普通に脱がしたでしょうが」
「普通、人の靴下は脱がさないだろ……」
「変態は破いたり切ったりするんですよ?」
「いきなり最上級モンスター召喚してんじゃねえよ」
「あと、えっちな子は脱ぎませんからね? 靴下♡」
「んんっ!? いきなりなんの話っ!?」
「履いたままいたすかどうかの話ですよね?」
「違うがっ!?」
昔のえらい人が言っていた。
靴下から脱がすのは文学、靴下のみ残すのはフェチズムだ、と。
「すっかりえっちな子に育ってくれて、俺は感無量です」
「えっちじゃない! 脱がしにかかったのはそっちだろ!?」
「散々、自分で脱ぐとか言ってたのはどのお口でしたっけ?」
「お風呂に行くための必要手順だろうが!?」
「でもそんなこと言って、もう期待してるじゃないですか。ココ♡」
「はあ? してな……っぃ」
寂しそうにはくはくしているお口をキスで塞いでやった。
吐息をかわいく震わせている隙に、小さなポニーテールを髪の毛が絡まないように解いていく。
どさくさで舌を絡めて深くキスをして、彼女の思考を少しずつ蕩かした。
「それで、どうします?」
俺に縋る彼女の指の力が抜けたとき、唇を離す。
熱が溢れて涙となって滴る目元を指で拭ったあと、赤く染まった頬を撫でた。
「ん……?」
「このまま風呂に入らず片方の靴下だけあえて残してねっとりラブラブプランと、風呂に浸かったあとにゆったりイチャイチャプランと、一緒に風呂からベッドまでどっぷりチュキチュキプランと選ばせてあげます」
「らぶらぶ、いちゃいちゃ……?」
ぽやぽやと蕩けていた彼女だったが、俺の言葉を反芻して、ハッと我にかえる。
「ちょ、ばっ!? っかじゃないの!? いきなりへんてこなプラン持ち出してこないでっ!!」
色気もなく手早く片方のストッキングを剥ぎ取った彼女は、勢いよく脱ぎたてのそれで俺の腕を叩いた。
「なんてことしてくれやがるんですか!? 1週間は風呂入れなくなっちゃったじゃないですか!?」
「今すぐに入ってこいクソったれ!!」
「ふむ。つまりチュキチュキプラン?」
「あん!? その中ならイチャイチャプラン一択しかない……って、うああぁぁっ!?」
口を滑らせた彼女は、すぐに己の失言に気づいて悔しそうに頭を抱えた。
かくいう俺は思惑通りすぎて本当に楽しい。
「……クッッソ! ホンッットにクソっ!」
「わかりました。楽しみですね?」
かわいくてチョロいとか最高である。
悪態をついている彼女が寝室逃げないように、俺は先に風呂へ向かった。
*
その後、入れ替わりで彼女が風呂に入っている間。
俺は急いで彼女のためのフェイスケア一式とヘアケアセット一式とネイルケアセット一式を用意する。
もっちりほかほかになった状態で風呂から戻ってきた彼女を、心ゆくまでかわいくキラキラに磨いてイチャイチャプランを堪能するのだった。
『素足のままで』