すゞめ

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 いつから、なんて明確なきっかけはない。
 頭の中はいつも言葉に溢れていて騒がしかった。

 反面、心の中に描かれた景色は特にない。

 浮かれた理想も、都合のいい言葉のかけ合いも、ありふれた幸せという未来も、ただ言葉としてぐるぐるぐるぐる駆け巡った。
 実現性、具体性、整合性がないのだろう。
 イメージしようとすると楽しかったはずの言葉たちが霧散した。
 足りない情報を理性的に肉づけしたところで、描いていた爽快感からは程遠い。

 俺にはいつもなにかが足りなかった。
 底が抜けておかしくなってしまった俺の心は、いつも渇くばかりで満たされることはない。

 今は騒がしい頭の中の言葉も、そう遠くない未来、言葉にすらできなくなると確信していた。
 ぐるぐるぐるぐると不快感だけが頭の中にうるさく残る。
 昇華できず、燻ることすらできなくなり、俺は文字を綴ることをしなくなるはずだ。
 景色も、言葉も、匂いも触れられなくなって噛み締めることもなくなる。
 その本質は今も変わらなかった。

「ばふんっ」

 リビングでパソコンのキーボードを叩いていると、背中にかわいいのがぶつかってきた。

「なにひとりで楽しそうなことしてんですか?」
「なんかごちゃごちゃ考えてそうだったから癒しにきた」
「まあ、作業中ですからね?」

 俺の作業中に彼女がくっついてくるなんて珍しい。
 いつもなら彼女は俺の邪魔にならないようにストレッチしたり、外へ出たりしていた。

「かまってほしいなら、あとでゆっくり……」
「やーだ」

 しかも駄々までこねてきた。
 今日はかまってほしい日なのかもしれない。

「別にかまってほしいわけじゃないから、気にしないで」
「そうはおっしゃられましても」

 彼女がこんなふうに甘えてくることなど滅多にないから、ウザがられるまでかまい倒したい。
 それでなくとも、熱を持った柔らかな肌や、控えめに膨らんだ胸や、引き締まった下腹部が背中から伝わってくるのだ。
 昨夜、俺が全て乱した彼女の温もりがそこにある。
 腹に回された小さな右手の甲を撫でた。

「とりあえず、キスしません?」
「ほあっ?」

 すっとんきょうな声をあげた彼女の隙をつき、体勢を変える。
 彼女と向き直ってもう一度訊ねた。

「イヤですか?」
「い、イヤとか、そういうのは、ないけど……」
「よかった」

 頬に触れれば彼女はゆっくりと瞼を伏せる。
 照れて彼女の睫毛がふるふると震えていた。
 その瞼にひとつ、唇を落とす。

「っ?」

 唇を突き出したまま瞼を持ち上げた彼女に、愛おしさが込みあげて目元が緩んだ。

「では、遠慮なく」
「え、んっ」

 ちゅ、と軽いリップ音を鳴らして彼女の唇を啄む。
 目を白黒させている彼女と至近距離で見つめ合った。

「驚きすぎでは?」
「だ、だって急にっ」
「キスには変わりないでしょう?」
「そうだけど……」

 ぎゅうと服に縋って視線を泳がす彼女の態度がかわいくて、軽いキスだけでは物足りなくなる。

「ね。もう1回」
「ん……」

 細い腰を抱き寄せて今度は深くキスをした。
 角度を変えるたびに、彼女の口から甘やかな声が漏れる。
 くぐもった吐息が理性を少しずつ溶かしていった。

「……甘えるなら、こっちにしてください」

 これ以上、深く触れてしまうとさすがに作業どころではなくなってしまう。
 濡れた唇を拭って、俺は太ももをトントンと叩く。

「……え?」

 背中から抱きつかれるのも悪くはないが、俺としては彼女の存在はきちんと視界に入れておきたかった。

「顔、ちゃんと見たいです」

 ぽやぽやと蕩けていた目元に、深く険しいシワが刻まれる。

「私の顔、好きすぎじゃない?」
「それはもちろん。ひと目惚れしたくらいですから」

 あきれて鼻を鳴らした彼女に、間髪入れずにうなずいた。
 つき合いを重ねて彼女を見慣れてきたとはいえ、見飽きるなんてことはありえない。
 彼女の顔を一番近くで見たくてずっと想いを拗らせ続けたのだ。
 しかもどんどんきれいになるし、どんどんかわいくなっていく。
 ますます彼女を好きになるばかりだった。

「……」
「自分で聞いておいて照れないでくださいよ」
「照れてないっ!」

 耳まで赤くしてこれのどこが照れていないというのか。

「……普通、膝枕って柔らかいもんじゃないの?」
「それはすみませんね」
「あと、高い。ちゃんと足伸ばして低くして」
「はいはい」

 注文の多いハニーである。
 ブツクサ文句をたらしながらも収まりのいい位置を見つけたのか、彼女の体の力が抜けた。
 彼女の額にキスをして、まんまるとした頭を撫でる。
 くすぐったそうに彼女が息をこぼしたあと、沈黙が流れた。
 それを合図に、彼女はゆっくりと目を閉じておとなしくなる。
 俺は再び、パソコンのキーボードを叩き始めた。

 心の中の風景はいつもなにも描かれなかった。
 それでも俺の世界には彼女がいる。
 たくさんの色と感情をくれる彼女がいる限り、俺はきっと言葉を綴り続けることができる。
 頭の中でとっ散らかって暴れ回る言葉が、少しずつ精査されていった。


『心の中の風景は』

8/30/2025, 12:06:40 AM