すゞめ

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 あー……、飲みすぎた……。

 昨夜の飲み会の酒がまだ残っている気がする。
 ぼんやりと意識を覚醒させたときには、彼女の姿は既にベッドにはなかった。
 時間は9時を回り始めていて、彼女の温もりは既に消えている。
 寝過ぎた俺は、ベッドボードに置いてある眼鏡をかけた。

 え、あれ? ……は?

 俺はあるはずの物がないことに気がついた。
 つき合いはまだ浅いが眼鏡同様、もはや俺の分身といっても過言ではない相棒。

 結婚指輪だ。

「は?」

 彼女と苗字を重ねて以降、肌身離さず身につけていたというのに、ない。
 枕の下、ベッドの隙間、服のポケット、カバンの中、洗面台、玄関、どこにも見当たらなかった。

 残るは彼女がいるであろうリビング。

 ヤバい……。

 指輪を失くしたなんて知れたら怒るか泣くか拗ねるかされて、今日予定していた久しぶりのデートが潰されかねなかった。

 一旦、一旦、リビングは後回しにしてもう一度寝室を確認してみよう。
 そうしよう。

「コソコソなにやってんの?」

 リビングを素通りしたとき、背後から声がかかった。
 この凛とした涼やかな声の主は当然、彼女である。
 振り返ると、彼女は腕を組みながら仁王立ちしていた。

 仁王立ちしててもかわいい。
 でもこのかわいいを今から鬼にするのは俺だ。
 鬼嫁の彼女も……コレはコレでかわいい。
 しかし、怒ると怖いので俺は土下座した。

「ごめんなさい」
「なにが?」

 飲みの席で、途中、女性が合流したこと。
 酔い潰れて帰宅したこと。
 予定していた帰宅時間より大幅に遅れたこと。

 彼女の『なにが?』に対する返答はいくらでも思いつくが、その冷ややかな声の威圧感に屈した。

「飲みの席では肌身離さずつけていたはずなんですけど、その……指輪を失くしてしまいました」
「へーえ?」

 蔑みの目でへたり込む俺を見下しながら、彼女はネックレスチェーンに通された指輪をハーフパンツのポケットから取り出す。

「指輪なら……ここにあるよ?」
「!?」

 小さな手のひらに乗せられた指輪に言葉を失った。

 なんで彼女が持っているんだ?

 中途半端に途切れている記憶が忌まわしい。
 真相を知りたくて彼女を見つめると、鼻を鳴らされた。

 ヤバい。
 めちゃくちゃ怒ってる。

「昨日、どうやって帰ったか覚えてる?」
「え? 先輩に担がれながら帰宅しました、よね?」
「ちゃんと覚えててえらいね? だったらこのことも覚えてるかなー?」
「……」
「そのセンパイから直接手渡されたんだー」

 冷えきった声音とは対極にある不自然なほどきれいな笑みを、彼女は作りあげた。

 なんだか、とても嫌な予感がする……。

「ゆ、び、わ♡」

 ヒュッ。

 瞬間、恐怖で喉が縮み上がった。

「失くした落としたとか騒いでたみたいだけど、最初から、どこにも、ついてなかったからな? 指輪」

 カタカタと歯が震えるのを自覚しながらも、なんとか言葉を結んでいく。

「本当に、すみません……。酒はもう飲みません」
「流れるようにウソついてんじゃねえよ」

 嘘も最速でバレた。

「……ネックレスにしてるなんて知らなかった。指輪……つけていられないほど気になる?」

 さっきの勢いとは打って変わった静かな声に、顔を上げる。

「え?」

 高校時代以上に、俺が指の手入れをしているせいか。
 彼女はなぜか、俺が指に関して異様な執着を持っていると認識していた。

「それとも、既婚者であることは知られたくない?」

 ネックレスにしただけでこの言い分は、さすがに思考が飛躍しすぎである。
 眉を下げて唇を引き結んだ彼女を、俺は一蹴した。

「は? あなたのことはできるだけ隠しておきたいのですけど、あなたと結婚できたという奇跡的な事実はむしろ自慢したいくらいです」

 最初から指輪をつけていなかったから説得力は皆無だが、結婚した事実を隠したいなんて思ったことはない。
 逆はいくらでもあるが。

「イヤ、じゃないなら……。指輪、ちゃんとしてほしい」

 きゅ、と彼女が俺の左手の薬指を撫でる。
 不器用な彼女の独占欲にブワッと体が熱くなった。
 ネックレスのチェーンを外して指輪をはめると、たったそれだけで彼女の眼差しが安堵に染まる。
 酒による浮腫みのせいで指が圧迫されるが、ホッと微笑んだ彼女を前にしてしまえば、俺の些細な苦しさなどどうでもよかった。

「あの、本当にイヤとか、そういうのではなく。最近、体重が増えたせいか指輪が合わなくなってきたんです。酒飲むとキツくなるからしかたなくネックレスに……」
「ほほーん?」

 しまった。

 しょんもりと肩を落とす彼女に焦り散らかしてうっかり余計なことまで口を滑らせてしまう。
 さっきのしおらしい態度はどこ吹く風か。
 ギロリと大きな目を鋭く光らせた彼女は、抑揚のない声で容赦ない言葉を俺に向けた。

「今日のデートは体育館に変更だから」
「まっ、ちょ!? 指輪のサイズ直したいかなー……と、思っていたり……」
「なに?」
「……ナンデモアリマセン……」

 俺の要望は聞き入れてもらえない。
 彼女に体育館へ引き連れられた俺は、しっかり肺と筋肉をしごかれた。


『ここにある』

8/28/2025, 6:49:55 AM