ツンと耳を刺すガラス音。
光を貫通させた影は揺蕩う。
音が鳴れば探してしまうし、影が走れば追いかけた。
強制的に涼という世界に引きずり込まれ、酔いそうになる。
物心ついた頃には、風鈴という夏の音が苦手だった。
年齢を重ねていくにつれ、誰が住んでいたか、どんな外観をしていたかわからない戸建てがどんどん立て壊されていく。
跡地には集合住宅やコインパーキングが入れ替わるようにして建てられた。
親元を離れれば喧騒と雑踏で圧倒される。
金と時間と睡眠の管理に毎日を追われ、気まぐれに囃し立てる蝉噪(せんそう)で、ようやく夏を意識した。
夏を意識した途端、電車の液晶ディスプレイで夏の祭事として風鈴が映し出される。
几帳面に整列している丸いビードロが音もなく不気味に揺れていた。
画面を見上げながら楽しそうに「きれい」、「涼し気」、「風流」なんて会話を弾ませる、近くにいた幸せそうなカップルを横目に、電車を降りる。
*
家に着くなり聞こえてきたのはシャワーの水音。
先に帰宅した彼女が浴びているのだろう。
風呂場を聖域としている彼女の邪魔をしては悪いから、リビングに直行した。
夏の風物詩といえばキンキンに冷えたビール一択である。
冷蔵庫から一番奥にある、冷えたビールを取り出した。
プルタブを立てた瞬間の、粟立つ音の爽快感がたまらない。
銘柄によって立てる音の微妙な違いがわかるようになるくらいには、酒を楽しめるようになっていた。
ごくごくと喉を鳴らしながらビールを流し込む。
そういえば、そのビールの嚥下音も最近では耳にしなくなった。
音が溢れるこの世界で、淘汰されていく音があるのも不思議な心地だ。
感傷に浸りながらちびちび缶ビールに口をつけていれば、風呂を終えた彼女がリビングに戻ってくる。
「あ!? もぉーっ。お酒飲むならお風呂先に入ってって言ってるのに」
彼女のツンツンした声音に、一気にリビングが華やいだ。
先に風呂に入っていたのは彼女だというのに、無茶を言う。
「おや。今日は乱入しても大丈夫な日でした?」
「そんな日は1日たりともないねっ」
顔を梅干しみたいにしわくちゃにして、本当に嫌そうに拒否をしてきた。
缶ビールに口をつけたまま、彼女の眉間に寄った皺を指で伸ばす。
「なら、どうしろと」
「ちょっとくらい我慢しろって言ってんの」
ペシッと手を払われてしまったから、今度は幸せのつまった頬を指で突いた。
「え。ただいまのキスは我慢してるじゃないですか」
「……バカなんじゃないの?」
彼女の風呂上がりで紅潮した頬なんて最アンド高だというのに、冷ややかな声で一蹴されてしまった。
キスが好きな彼女のことだから、頬じゃ物足りなかったかもしれない。
言葉を都合よく捉えて、桜色の薄い下唇を指でなぞった。
「おかえりのキスも加えてくれるってことですか?」
「んだぁーっ!? お酒の話をしてるつもりなんだが?」
俺の手から缶ビールを取り上げて、ごくごくとわざとらしく嚥下音を鳴らしながら、中身を一気にあおる。
普段見ない彼女のその姿は、風呂上がりということま相まって艶っぽい印象を与えた。
上下する喉に目を奪われていれば、中身を飲み干したらしい彼女が、プハーッなんてニコニコしながら缶を天井に突き上げる。
風呂上がりの一杯を楽しんでいるように見せたが、そもそもビールは苦手のはずだ。
「ちょ、なにしてんですか」
「さっさとお風呂に行かないからでしょ」
空っぽになった缶を俺の胸に押しつける。
ペコン、とアルミ缶が頼りなく潰れた。
「……お風呂、してくれたあとなら大丈夫、だから……」
「速攻で入ってきます」
空き缶をシンクの中に放り込み、急いでリビングから出た。
ほのかに熱を持った鼓動と体温が揺れる。
彼女の凛と澄んだ声は夏を心地よく響かせてくれるのだった。
『風鈴の音』
互いの左手の薬指にあてがわれた小さなリング。
たったこれだけで、彼女は俺と離れて生きていくことができなくなった。
全てが俺にとって甘くて都合がよくて心地がいい。
彼女の気持ちが不安定なまま、勢いで進めた関係性だ。
これからは彼女の複雑に絡まった気持ちの糸を、丁寧に整えていかなければいけない。
目を逸らし続けた現実を見るのは少し怖かった。
寂しがりやで甘えたのくせに、彼女は孤高であろうとする。
俺はその中に無理やり入り込んだ。
考える隙を与えないように、温くて重すぎる愛情を注いで、ただでさえ不安定な彼女のバランスを悪くした。
彼女の恋愛感情に嘘はない。
だが全てでもないはずだ。
感情が乗った涙の溢れる瞬間を、いまだ俺には見せてくれない。
彼女の背中に手を回しながら体をベッドに沈めていけば、スプリングが不穏に軋んだ。
耳朶の裏側を指で撫でたとき、彼女は顔をしかめる。
「ねえ。またごちゃごちゃよくわかんないこと考えてるでしょ?」
「……」
その「ごちゃごちゃよくわかんない」部分が重要だというのに。
雑に不信感だけ暴いてきたため、素直に観念した。
「……あなたのことしか考えていませんよ?」
「ふうん?」
彼女の瞳が鋭く光る。
その目は正に捕食者で挑発的で傲慢だ。
「……その割りに、これから私を抱こうって男がする顔じゃないんだけど、大丈夫?」
俺の言葉になにひとつ納得しない彼女は、俺を見上げてあざ笑う。
明確に焚きつけてきたくせに、首をもたげて乱れた髪を整えた。
冷え切った眼差しで一瞥したあと、眠る体勢に入ってしまっためさすがに息をつく。
俺が作った原因だが、寝かせるつもりは毛頭ない。
「……そんな煽り方して、あとでひんひん泣いても知りませんよ?」
「へえ。じゃあ、泣かされる前にがんばってみよっかな?」
「……は?」
唖然としていると、楽しそうに声を弾ませる彼女は俺を押し退けて上半身を起こした。
いつも恥ずかしがるくせに今日は腹を括っているのか、Tシャツとハーフパンツを下着ごと脱ぎ捨てる。
「そんな浮ついたぬるい目で好き勝手されるとか冗談じゃないし?」
首に手を回されたのかと思えば、ゆるゆると彼女と一緒にベッドへと沈み込んだ。
俺の眼鏡のフレームに手を伸ばすから、反射的に目を細める。
「私を泣かすつもりなら理性も余裕も剥ぎ取って、もっとギラついてくれないと困る」
外した眼鏡をベッドボードに静かに置く。
ひどく煽惑的な視線を送りながら、彼女はしどけない姿のまま俺の下腹部に跨った。
口元はきれいな弧を描いて、わざとらしくその薄い唇に舌を這わる。
ひとつ、艶かしい水音が控えめに響いたあと、彼女の細い指が脇腹を伝った。
「誰を抱くつもりでいるのか、ちゃんとわからせてあげる」
「ちょ!? 待っ、はぁ!?」
マジで……、ちょっと止まってくれっ!?
今になって心臓が激しい鼓動を刻む。
静かに凪いでいた熱が一気に暴れ出した。
彼女からこんなふうに迫られれば、俺の理性なんて簡単に瓦解する。
そして宣言通り、彼女はがんばってくれた。
がんばりすぎて散々焦らされるし、惑わされるし、弄ばれるしで、なかなか主導権を握らせてくれない。
あぁぁあああぁぁあ!
もうっ!!!!
切なさで揺れる彼女の呼吸を強引に奪って押し倒した。
最初は主導権を握られまいと抵抗していたが、少しずつ俺に身を委ねてくれる。
彼女の気持ちを先送りにしてしまったことは紛れもなく現実だ。
だが、そんな現実から目を逸らしている隙を、彼女は一切与えてくれない。
俺の中の都合のいい幻想よりも、彼女からくれる現実のほうが、甘くて都合がよくて心地がいいのだから。
『心だけ、逃避行』
宿を出て、いつも通りの朝を迎えた。
しかし今日は少し違う。
隣には新しい仲間が加わったのだ。
彼らとともに依頼された任務を完遂させるため、鬱蒼とした森へ向かう。
これが陳腐な冒険譚なら、こんな冒頭から新章が始まるのだろう。
少し窮屈なベッドサイズ。
柔らかすぎる枕。
肌触りのいいタオルケット。
高級旅館にでも泊まりに来たのか、と思うくらい上質な素材であつらえた寝具だ。
持ち主は隣で健やかな寝顔を浮かべている彼女だ。
普段隠れている前髪が跳ね上がって、まんまるとした額があらわになっている。
記念に写真でも撮っておこうかと携帯電話に手を伸ばした。
すると、無防備になった額ですりすりと俺の脇へ擦り寄ってくる。
甘え慣れたその仕草に少しだけ胸が軋んだ。
「……」
起こした……?
不自然に彼女の体が硬直したため、俺も少し体勢を整えた。
体温か、感触か、匂いか。
彼女は俺のどこに違和感を抱いたのだろうか。
臭……くはないと信じたい。
気まずさか、照れからか、静かに彼女は寝返りを打とうとした。
せめて寝起きの彼女の顔をひと目見たくて、背中に腕を回す。
「おはようございます」
「はよ……」
掠れた彼女の声に心臓が高鳴る。
「ご、ごめん……。甘えすぎた、ね?」
「いえ。ふにゃふにゃしててかわいいです」
「し、知らない……」
「自分のことなのに?」
俺の肌の上で、きゅうっと、小さな手を握り込む。
遠慮がちなこの距離感が俺にはくすぐったくて、つい声を漏らした。
「俺の体温にも、早く慣れてくださいね?」
「んなあっ!?」
からかい気味に出した言葉に、彼女は勢いよく顔を上げて反応した。
普段の凛とした姿とは打って変わった、緩んだ彼女の表情が愛おしい。
俺としてはいつもより幼くてぽやぽやしている彼女と贅沢な微睡みに浸りたいが、彼女のほうはそうもいかないだろう。
はりぼてには違いないが、俺としても格好はつけたかった。
無造作に置かれた眼鏡を手繰り寄せ、体を起こす。
彼女によって色づいた日常。
今度は二度と手放さないと誓う。
当たり前のように彼女と毎日を過ごして、いつか、この控えめな距離をぴったりと埋められるように。
『冒険』
普段から、彼女はシンプルなデザインの物で身を固めている。
洋服やカバンといった身につける物から、家電や家具にしたってそうだ。
筆記用具やタオルといった小物にも特にこだわりがないのか、手近ですませることも多い。
そんな彼女だが好みはある。
明確な統一感はないが、家具は白で基調して差し色で紫を入れるのが好きだ。
使い心地を優先するが、意外とかわいいものを集めたがる一面もある。
木製の高級感あふれる食器とともに、ハムスターの箸置きを出してきたこともあった。
バスボールの中に入っているハムスターのマスコットが出揃うまで買い続けたことも、一度や二度ではない。
彼女と同棲を始めて、少しずつそのハムスターのグッズを増やしていった。
そして今日も、リビングにハムスターの仲間が増える予定である。
が。
休みだからと配達時間を午前指定にしていたのだが、見事に寝坊した。
アラームを設定していなかったとはいえ、さすがに正午過ぎまで惰眠を貪るとか寝汚さすぎる。
「すみません、午前中に俺宛の荷物が届いて……」
「あ。お、おはよっ」
そわそわと落ち着きなく俺の様子を伺う彼女の瞳は、キラキラと期待に満ちていた。
リビングのローテーブルには段ボール箱が置かれている。
「……ましたか。よかったです」
「これさ。この間、一緒に選んだヤツだよね?」
「ええ。受け取りありがとうございます。開けていいですよ?」
「うん」
ワクワクと楽しそうに声を弾ませ、彼女は段ボールを開封していく。
そんな無邪気な笑顔で宅配業者の対応をしたのかと思うと、少し複雑にはなった。
中身はなんてことのない日用雑貨。
ハムスターのティッシュカバーと、トイレットペーパーのストックホルダーだ。
「かわいい」
ポツ、とつぶやく彼女の表情は本当にうれしそうにしている。
肌触りも相性が良かったらしく、無意識だろうがおがくずを再現したタオル生地を確認したり、ハムスターの頭を気持ちよさそうに撫でていた。
彼女にここまで慈愛に満ちた顔をさせるハムスターが羨ましい。
「そんなにソワソワするくらいなら先に開けるか、俺を起こしてくれてもよかったのに」
彼女の隣に座り、軽く束ねられた小さなポニーテールの毛先に触れる。
くすぐったさそうにしながらも、彼女は俺の手を受け入れながら、口を開いた。
「や、なんか……。なんて言ったらいいのか、うまく言えないけど、その、……うれしくて……?」
「え?」
「私がいることに、慣れてきてくれてるっていうのか、さ」
もじもじと指を遊ばせながら頬を染めていく彼女に、釘づけになる。
「ずっと気を張ってくれてたでしょ? だから、気を抜いてくれてうれしい……んっ!?」
彼女につられて胸の奥から熱が滾っていく。
不意打ちともいえる彼女からの告白をこれ以上は聞いていられなくて、その桜色をした薄い唇を手で塞いだ。
「……昼飯の選択肢を与えてやれなくなるのでこれ以上かわいいこというの、一旦やめてください」
「え、ヤダ。待ってたから、お腹空いてる」
「なら、黙ってください……」
わざとらしく喉を鳴らしてソファから立ち上がる。
「出前でピザ取るか、自宅でカップ麺か、外でランチデートか……選ばせてあげます」
「……全然、選ばせる気ないヤツじゃん」
さっきまでの甘い顔は幻かと思うほど、彼女は冷めた顔で俺を見上げた。
微塵も余韻に浸らせてくれない彼女に、俺もため息をつく。
「仕方ないじゃないですか。家にいると負けちゃいそうなんです」
「ん? なにが?」
「俺の理性です」
「それは困るな。急いで準備してくるね」
困るのかよ。
ワンチャン乗ってきてくれないかなと思ったのに、さすがに無理か。
とはいえ、ランチデートにこじつけることができたのでよしとする。
「あ、洗面台は先に貸してくださいよ?」
「んー」
間延びした彼女の返事に口元が緩むのを感じながら、俺たちは出かける準備を始めるのだった。
『届いて……』
視界いっぱいに広がるヒマワリ畑。
太陽に向かって力強く咲き誇っているのに、鼻を掠めるのは爽やかな草と、土の心地いい匂いだ。
天候にも恵まれ、青々とした空は鮮やかにヒマワリ畑を彩っている。
目の前に展開された広大な夏のパノラマに圧倒された。
意外、なんて言えば怒られてしまいそうだが、彼女は意外にも四季の移り変わりを楽しむ。
ヒマワリの見頃としては少し時期は早かったが、ドライブも兼ねて遠出することにしたのだ。
「おぉー。見事に咲いてるねー」
つばの大きな麦わら帽子をかぶった彼女が、太陽よりもヒマワリよりもきらめいた笑顔を浮かべて声を弾ませた。
黒いTシャツとショート丈のデニムパンツでシンプルにまとめた彼女は、いつもより露出が多い。
「日焼け止め、ちゃんと塗り直しました?」
普段から長袖ウェアとロングパンツで肌を隠している彼女の肌は、いざ夏空の下に晒してみると驚くほど白い。
普段使いしている日焼け止めスプレーでは俺の気持ち的に心許なさすぎて、肌に負担の少ない低刺激の日焼け止めを道中で買い足して彼女に押しつけたのだ。
そんな俺に対して、彼女は心の底から鬱陶しそうに顔をしかめ、面倒くさそうにため息をつく。
「……せっかくヒマワリに囲まれてんのに第一声がそれで大丈夫?」
「日焼けで赤くなったら大変じゃないですか」
「ちゃんとやったから安心して。でも、なんで急にヒマワリ? そんな趣味あった?」
……人が遠慮した本音をコノヤロウ。
まさか彼女から言われるとは心外である。
「……どういうことですか」
「変なポーズ指定しては写真を大量に撮られるのかとばかり」
「変なポーズってなんですか」
「んー……」
考えるそぶりを見せたあと、彼女はとてとてと俺から数歩距離を取った。
指先で麦わら帽子のつばを摘んで振り返る。
「例えば、こんな感じ?」
腰をくねらせわざとらしく唇を突き上げてはにかんで目元を緩めながら俺を見上げた。
「は? 被写体の天才ですか?」
ヒマワリの群生を背景に、まさかのサービスショットを彼女自ら提供してくれた。
立っているだけでもこんなにかわいいのに、こんなあざとい表情と立ち方をすればさらにかわいくなるに決まっている。
携帯電話のシャッター音をけたたましく鳴らし続けた。
「とはいえ、逆光なのでやるならこっち来てやってください」
「散々連写しておいてから言う?」
俺の言葉を一蹴したあと、彼女は大きな麦わら帽子を最大限に活用して歩き出した。
しばらく写真は撮らせてくれそうにないだろうと、諦めざるを得ない。
ゆっくりと、彼女の気分のままに、晴れ渡る夏空とヒマワリを堪能したのだった。
*
帰路の途中、空は徐々に茜色に染まって夜の帷を下ろす準備をする。
飲み物がなくなってしまったから休憩がてら道の駅にでも寄ろうかと声をかけるが、彼女からの返事はなかった。
「……寝ちゃった?」
つばの大きな麦わら帽子を抱えて、助手席で彼女は肩を上下に揺らしていた。
小さく寝息を立てる彼女の無防備な姿を横目で捉えたあと、アクセルを踏む。
今は俺の中で新鮮で特別なこの光景も、たくさんの小さな日常となって長い人生の一部に溶け込んでいくのだろうか。
ヒマワリ畑の景色や、彼女の寝顔。
今日というこの日を大切に刻んだ。
そしていつか、今日の出来事を思い出にして懐かしみたい。
たくさんの「特別な景色」を作っては「あの日の景色」と振り返り、かけがえのない過去にしながらふたりで時を重ねていけるように。
そう、なれたらいいと願った。
『あの日の景色』