二日酔いでズキズキと痛む頭を押さえながら、リビングのローテーブルに突っ伏した。
「……最っ悪」
「かわいかったよ♡」
うるせー……。
その言葉は俺の専売特許だ。
声の弾ませ方から、彼女がニヤニヤといやらしく笑っているのが手に取るようにわかる。
ことの発端は、酔った俺が彼女に『3つだけ、なんでも願いを叶える酔っぱらいの妖精さんです』とかなんとか言ったからだ。
普段、彼女は酒を飲まないし、たとえ俺が相手でも酔っぱらいの相手はしない。
しかし、昨夜はめずらしく俺の戯言にノってきて、きっちりしっかり願い事を3つ、要求していった。
ひとつ目はスーツを着ること。
いつも仕事で着ているし見慣れているはずなのになんでわざわざ?
もしかしてスーツを着た俺とセッッッしたいってことか!?
なんて期待した俺の純情を返してほしい。
ふたつ目の願い事で一気に雲行きが怪しくなった。
彼女は俺の髪の毛を結びたいという。
しかもツインテール。
頭皮が引きちぎられるが!?
髪の毛はまだ大切にしたいから、ちょっとだけ抵抗した。
抵抗したら彼女がすりすりと寄ってきて、俺の手の甲を細い指先で意味深に撫でる。
「なんでも叶えてくれるんだよね? 妖精さん?」
あの最強の顔面を使って扇状的に微笑み、耳元で艶を含めて囁くもんだからひとつも抵抗できなかった。
そんなけしからん色仕掛けはどこで覚えた!?
あとで押し倒してグズグズにしてやるっ!
と、決意を胸にしていたら、いつの間にか頭上でふたつの触覚が完成した。
嫌な予感を抱いたまま残した最後の願い。
酔っぱらいの妖精さんの酔いがさめそうだったので、一旦インターバルを挟んで缶ビールを2本空けた。
酔いを無事チャージしたところで、彼女からの最後の願い事を聞く。
どうせぶっ倒れるならここでぶっ倒れたかった。
彼女の最後の願い事は、ネット動画ではやっている短い楽曲を、俺に歌いながら踊れというものだった。
鬼畜の所業である。
スーツを着たデカい男がダミ声を響かせ、見様見真似にもならない奇妙な動きでツインテールを揺らし、あまつさえ動画に残されたのだ。
恥でしかない。
動画を確認させてもらったが、彼女が笑いを堪えているせいでブレッブレだ。
撮るならちゃんと撮れ。
酒も入れてないくせに酔っぱらいみたいなこと願ってるんじゃねえよ。
胸中で悪態をつきつつも、画面の中からでも彼女が心底楽しんでいる様子が伝わってくるのだからなにも言えるわけがない。
どこまでもかわいいの天才である。
「願いは叶えてやりました。愛してます〜」
最後はくるくる回りながら何度も投げキスをしたあとリビングから移動した。
そのあとの記憶がない。
ハッと目を開いたらそこは玄関だった。
まさかの寝落ちに、体はバキバキに悲鳴をあげている。
完全に意識を飛ばした俺を彼女が抱えられるわけもなく、枕を頭に敷いて、タオルケットを被せてくれていた。
……そして今である。
酔って記憶が残るとか、タチが悪すぎる。
ついでにツインテールの寝癖も残った。
死にたいの極み。
「絶対にベッドで泣かせてやると思ってたのに、寝落ちとか不覚すぎる……」
「あ? どこでどうしてそうなった?」
は?
思わず顔を上げたら、彼女はあきれて顔をしかめていた。
「……ウソでしょう?」
あんなあからさまに仕掛けておいて覚えてないとはどういう了見だ。
ズキズキと二日酔いとは別の原因で痛み出した頭を抱え、再びテーブルに突っ伏したのだった。
『願い事』
星はコンペイトーじゃなかったし、雲も綿あめじゃなかった。
三日月のハンモックや、虹のすべり台も幻だった。
子どもの頃は確かに鮮やかに色づいていた景色が、今では現実という影の膜に覆われる。
いつからか仄暗く深い海に魅せられて、自分中の都合のいい陳腐な現実だけを宝石のように扱い、抱え込んでいた。
この先、意図して空を見上げる機会が何回訪れるだろうか。
打ち上がった花火を見ては、身の丈に合わないきらびやかな夢や目標を掲げたところで、無惨に砕け散るだけだとあざ笑うのか。
遠距離恋愛をしている織姫と彦星を探しては、白鳥に変身したゼウスに掻っ攫われてしまえと嫉妬に狂うのか。
理想と現実の距離感に失望することもなくなった。
空っぽな心に無理やりなにかを詰めたところで、今さら満たされるわけもない。
現実という薄っぺらい紙幣を詰める、ただの貯金箱に成り下がった。
見苦しく「いい人」を取り繕いながら、ひとりむなしく酒をあおる。
そんな灰色の日々を送るものだと思っていた。
目の前に、恋焦がれ続けた天使が舞い降りてくるまでは。
*
暑さを冷房でごまかして、リビングのソファでゴロゴロしていたらいつの間にかうたた寝をしていた。
ぽこん、と携帯電話に彼女から連絡を知らせるポップアップが表示される。
なんの気なしに画面を開くと、近くの公園の敷地に咲いているヒマワリと彼女の照れくさそうな笑顔が映った写真だけが送られてきた。
「はああああっ!?」
インカメ無加工という画質で撮っているのにもかかわらず、このかわいさには感心した。
彼女の自撮りスキルが残念なことが悔やまれる。
晴れ渡る青空、悠然と咲き誇るヒマワリ。
最高のコントラストと、最高の顔面をなぜ活かそうとしないのか。
こうしてはいられないと玄関まで走ったところで、彼女が帰ってきてしまった。
公園から全力で走っててきたのだろう。
汗だくで息があがり、頰も紅潮していた。
控えめにいってキスしたい。
絶対に怒られるから、彼女がシャワーを浴び終わるまで我慢するけど。
「……ただいま。よかった、……、間に合った」
「おかえりなさい。俺はなんにもよくありません。間に合ってません。なんですか、あれ」
「私の顔、好きなんでしょ?」
「当然です」
息があがったままの彼女は、カラッと笑ってスニーカーを脱いで俺の横を通りすぎた。
「少しでも夏の苦手意識が薄くなるようにおすそ分け」
「は……?」
振り返ったときには彼女はもう風呂場に行ってしまった。
彼女に夏が苦手だなんて話したことはない。
確かに夏季にデートをする機会は少ないが、それは彼女自身が忙しすぎるからだ。
言葉にも態度にも出したつもりはない。
人の機微に雑な彼女に暴かれていたことは意外だった。
携帯電話に送られた写真をもう一度目を向ける。
わざわざ自撮りをしてまで俺の心を軽くしようとしてくれたのだ。
「あー……好き……」
太陽よりも眩しくて、夏の空よりも大らかで、ヒマワリよりも明るい彼女に、今日も俺は恋をする。
『空恋』
気温や風や湿度で季節を感じるように、彼女の仕草や表情、声の調子に隠された感情の波音に耳を澄ませていく。
リビングのソファに座って難しい顔で携帯電話の画面を睨みつけていた。
……最近、彼女の様子がおかしい。
俺といるにも関わらず、携帯電話に触る機会が増えたのだ。
前触れもなく突如起こった彼女の行動の変化。
その意図を探るために、ゆっくりと彼女の頬に触れた。
わざと彼女の耳に指先が当たるように撫でる。
ひく、と小さく肩を震わせたものの、真っすぐに目線を合わせたまま俺の手を受け入れた。
「なに?」
「んー……」
すりすりと耳の先端を指で擦ると、身を捩りはするものの、手を払いのけられることはない。
俺に触れられることは携帯電話よりも優先事項らしく、安堵した。
「ツンとしててかわいいなあと思って」
耳の輪郭はきれいな弧を描いているのに、本当に先端だけちょんと尖っている。
まさに人間に擬態した妖精である。
「は?」
「いえ、あなたではなくあなたのお耳の先っちょです」
穏やかな瞳で俺を映していた眼差しが、急にギンっ、と急に鋭く変わったから、爆速で弁明した。
彼女自身がツンとしていることには違いないだろ、という本音は隠しておく。
「その言い方やめて」
唇まで尖らせる彼女はいたって普段と変わらない。
だからなおのこと、手から離れない携帯電話に意識がいった。
「やめてほしいのは、言い方だけですか?」
「はあ? さっきからなに言っ……っ、びゃあっ!?」
パクッと耳を食んだらとんでもない声量で叫ばれた。
「ねえっ!? 急に舐めるのやめっ、て!」
真っ赤な顔でぷりぷりとされても、全く、少しも、1mmも怖くない。
むしろその顔で言われると逆にやめたくなくなってしまうのだが、せり上がってくる嗜虐心は今はしまっておいた。
「別にいいですけど」
「あ……」
やめろって言ったのそっちのクセに。
離れたら離れたで物欲し気に瞳をうるうるさせて見上げてくるから始末が悪すぎる。
俺の物申したい視線に気づいたのか、彼女は慌ててわずかに宿った熱を隠した。
「スマホ、やめてくれたらいいですよ?」
「ん? スマホ?」
「最近、ずっと見てますよね? 誰かからの連絡でも待ってるんですか? まさか、俺と別れたいとか思ってます?」
「えっ!? 全然違うよっ!?」
観念したのか、今度は彼女が俺の耳に口元を近づけてきた。
ふたりきりなのに、内緒話でもするかのように「実は」なんて前置きをされる。
消え入りそうな震えた声に、聞き逃してはいけないと耳を澄ました。
ぽそぽそと耳打ちした彼女の言葉に、限界まで目が見開く。
見下ろしたときには、彼女は既に羞恥に染まった顔を両手で隠していた。
「お、覚えてるかわかんないけど……そっちが言ったんだからね!?」
彼女の感情の波音は、きっと心拍の速さと同期している。
ずっと彼女の手の中で抱えられていた携帯電話は、ソファの上に転がっていた。
『波音に耳を澄ませて』
夏の早朝はすでに明るく、外の気温も汗ばむ程度には高いだろう。
窓を閉め切っていても主張する、けたたましい蝉の鳴き声がじっとりと肌にまとわりついた。
エアコンで室内温度は快適に保たれているはずなのに、徹夜を重ねたせいもあり、不快指数は上がっていく。
集中力も切れ、ちょうどパソコンの電源を落としたところで、活動時刻を迎えた彼女とバッティングした。
「もしかして、ずっと起きてたの?」
ぼんやりとした足取りで、ペタペタとのんびりキッチンに向かう彼女からはきっとマイナスイオンが飛んでいる。
寝起きの彼女からしか得られない癒しは、まさに心のオアシスだ。
眠気が一気にぶっ飛んだため、彼女の質問には答えずにキッチンまで追いかける。
「メシは俺がやりますから。あなたは準備してきてください」
「いやいや。私にかまってないでさっさと寝なよ」
柔らかくて細い彼女の髪の毛は寝癖がつきやすい。
盛大に重力に逆らい、見て見て、とかわいらしく訴える彼女の少し長くなった前髪にそっと触れた。
「なかなか派手に反抗期を迎えた前髪がいますけど、直さなくて大丈夫ですか?」
「ん?」
はねた毛先を、ツンツンと指で突いて遊ばせる。
されるがままになっていた彼女の思考が次第にクリアになり、あわてた様子で俺の手を払いのけた。
「やだっ! ウソっ! ダメっ! 見ないで!」
「なら早く洗面台に行ってください。あと2秒で撮りますよ」
寝巻きのポケットから携帯電話を取り出す仕草をすれば、光の速さでリビングを出ていった。
「お、お味噌汁あっためるだけでいいから!」
バタバタと音を立てながらそんな言葉を残していく。
作り置いていた味噌汁の入った鍋を冷蔵庫から取り出した。
髪を宥めるのにずいぶん悪戦苦闘したらしく、洗面台からなかなか彼女が戻ってこない。
卵を焼いて大根を少しだけおろして、たくあんも添えたところで、ようやく彼女が戻ってきた。
テーブルに並んだ朝食を見て、何度もお礼と謝罪を繰り返すから心がくすぐったくなった。
朝食をしっかり取ったあと、トレーニングウェアに身を包めば彼女のスイッチは完全に切り替わる。
玄関の段差で腰を下ろし、使い古したスニーカーを片足ずつ丁寧に履いた。
靴紐の緩さや履き心地を念入りに確認した彼女は、スッと立ち上がって振り返る。
「いってきます」
俺が大嫌いなその言葉を、彼女は軽快に弾ませた。
彼女の笑顔がキラキラと弾けてほとばしる。
目が眩むほどのきらめきに思わず目を細めた。
見惚れる隙も与えてくれやしない。
我にかえったときには彼女は玄関のドアを開けていた。
小さくて軽やかなポニーテールの毛先を、青い風が撫でていく。
「気をつけて」
俺の言葉は風に乗って届いたか。
曖昧なまま、玄関のドアは閉められた。
『青い風』
自宅までの最寄り駅に着いたとき。
くん、と繋いでいた手を遠慮がちに引っ張り、彼女が足を止めた。
だから俺も足を止めてなんの気なしに振り返る。
ふさふさの睫毛が切なげに揺れたのは、湿度のこもった夏の夕風のせいではないだろう。
「どうしました?」
聞いたところで彼女は言葉を濁すはずだ。
だから、きっと彼女が求めているであろう模範解答とは少しずれた質問をしていく。
忘れ物でもしたのか、とか。
夕食を外ですましたいのか、とか。
日用品の買い足しでもあるのか、とか。
形のいい眉毛を下げながら、彼女は律儀にそれらを否定した。
焦らしたりからかったりしたいわけではない。
消去法でひとつずつ彼女が求めている言葉の可能性を高めて、自分の中の期待値を上げているだけだ。
我ながら最低であると自覚はしている。
それでも実感したいのだ。
気を抜けばすぐに遠くへ行ってしまう彼女に好かれていることを。
「ごめん、なんでも……」
人と向き合うことに臆病になってしまった彼女に、こんな試すようなことをすれば諦めてしまうことも知っている。
「……『俺ん家でメシでも食って行きますか?』」
「え?」
パッと顔を上げる彼女の表情は、戸惑いながらも期待の色を濃くした。
「そ、れは、ありがたいけど。でも……」
「『なら、決まりです』」
彼女からその先の言葉を聞きたくなくて、彼女の求める言葉を終わらせた。
その代わりに、先日、俺たちの関係性がひとつ進んだことを実感させる。
「……でも、忘れちゃいました? 俺たち、ちょっと前に同棲を始めたんですよ?」
「あ……、って、ああっ!?」
彼女の中でまだ現実味がないのか。
俺の元いた家と最寄り駅が同じせいか。
同棲しているのに待ち合わせなんかしてしまったからか。
「これで寂しくなりましたね?」
「教えてくれたっていいじゃん」
なんにせよ、寂しい思いが少し解消されたらしい彼女は、わかりやすく不貞腐れた。
「例え帰る場所が一緒でも、寂しいときは寂しいって言ってほしいんです⭐︎」
「うん」
……いやそこは素直になってくれても。
からかいすぎたかな。
反省していると、ツンと唇を尖らせて拗ね散らかした彼女がもそもそとつぶやいた。
「れーじくんとの1日がこれで終わっちゃうのは、ちょっと寂しい」
ギュン、と心臓を鷲掴みにされて胸を押さえる。
急に素直になるのずるいだろっ!?
甘やかに震える声から、頬が紅潮しているのは夕日のせいだけではないことは明白だ。
言ってほしかったから言わせたのだが、かわいさの爆発力が凄まじい。
「……少し、遠回りして帰りましょうか」
「ん。ありがと」
安堵した笑みを浮かべた彼女に釣られて俺の目元も緩んだ。
繋いでいた右手の指先を絡め取り、迂回したルートをゆっくりと進む。
振り返ることをしない彼女が見据える未来の先は、俺には遠すぎて眩しすぎて見ることができなかった。
それでも彼女が進むのなら、俺だって追いかけないわけにはいかない。
『遠くへ行きたい』