記録的な猛暑日とやらを更新し続ける今年の夏。
キッチンに立ち続けるのもしんどくて、極力火を使わない作り置きが増えていく。
タマネギやブロッコリー、モヤシにキャベツをレンチンして、単品それぞれにポン酢や唐辛子をぶっかけてツナ缶を乗せた程度のシンプルな一品ばかりだ。
……酒のつまみしかねえ。
キレも飲みごたえも最高なキンキンに冷えたビールがうまい季節にはなってきた。
作っていたのは決してつまみではない。
とはいえ、さすがにツナ缶のみで主菜と言い張るには心許なかった。
味噌とだし汁を混ぜ合わせてすりごまを入れた。
結局缶詰か、というところではあるがメインとなるサバ缶を取り出す。
サバ缶、キュウリ、大葉、ミョウガ、夏の旬をふんだんに味噌の中にぶち込み、冷や汁が完成した。
食べるときに一味でも振りかければ完璧だ。
と、思ったところで結局、酒のあてにしようとしていたことに気がつく。
冷や汁くらいはメインとしての体裁が保てるよう、一味の代わりになるものがないか冷蔵庫を開けた。
「あー……。そういえば買ってたな」
コロン、と冷蔵庫の隅に住み着いていたのはスダチだ。
さっぱりした風味を楽しみたいときのために買っておいていたのを思い出す。
既にポリ袋に小分けにされていて、その内のひとつを取り出せば、柑橘の香りがふわりとキッチンに舞った。
薄くスライスしていけば、爽やかな香りはさらに強くなる。
若々しくツンとした匂いを冷や汁の中に溶かしていった。
「……」
柑橘系の香りはどうしても彼女を連想させる。
彼女が愛用している制汗剤や汗拭きシート、日焼け止めは全てシトラスの香りだ。
彼女から溢れる清々しいのに甘やかな夏の匂い。
その香りが急に恋しくなるのだった。
『夏の匂い』
遮光カーテンで光を遮ることができても、音までは遮ることはできなかった。
突如、激しく窓を叩きつけてきた雨音は、微睡んでいた俺の意識をはっきりとさせる。
隣で眠っていた彼女も同様だったらしく、体を起こして遠慮がちにカーテンを捲っていた。
そのまま食い入るように窓を見つめているから、我慢ならずに声をかける。
「そんな格好でカーテン開けないでください」
「え?」
体を起こす気力はなく、彼女の背骨を指で辿る。
小さく皮膚を震わせ、反射的にカーテンを掴んでいた手を離して振り返った。
「ねえ。やめて」
「なら、今の自分の格好を自覚してください」
シンプルこそ彼女の美しさを際立たせるが、さすがに上裸はやりすぎである。
外はまだ暗く、部屋の明かりは常夜灯にしたままだ。
いくら雨がモザイクの役割を担っているとはいえ、しどけない姿を晒した女性が窓際にいることくらいは視認できるだろう。
例えここがマンションの高層階だとしても、だ。
不用心にも程がある。
「脱がしたのはそっちのくせに」
きまり悪そうにする彼女に、今度は俺が口を閉ざす。
彼女を求めて散々好き勝手したのはその通りなのだが、下着やシャツを羽織ることなくタオルケットの中に潜り込んでくるのはどういう魂胆だ。
脇の下におでこをグリグリと押し当てて照れくささをごまかすくらいなら、きちんと服を着ればいいのに。
わざとらしく彼女の小さな背中を叩き、ギブアップした。
「ちょ、これ、さすがにくすぐったいです」
「ふふん」
勝ち誇って得意気に鼻を鳴らした彼女につられて、俺も笑ってしまうのだった。
『カーテン』
厚く積み重なった雲が鮮やかな黄金色に染まる一方で、空は青く、深く、色を濁して渋くなっていく。
数時間前、彼女は日本を発った。
物理的距離が開く期間は3週間前後。
遠距離恋愛をしているカップルの忍耐強さには頭が上がらない。
焦燥、陰鬱、暗たん……まるで膜が張ったかのように胸中は重苦しかった。
いっそのこと、このあと襲うであろうゲリラ豪雨で、この鬱憤ごと洗い流してほしい。
出会ったときにはもう、彼女は青春を人生にすると決めていた。
果てしない夢に向かって彼女はこれからも広大な空や海を渡り続ける。
「いってらっしゃい」
いつか、その言葉を素直に言える日が来るだろうか。
『青く深く』
ひと仕事終えて帰路に着き、風呂に入って缶ビールを開ける。
なんとなくテレビをつけて流したニュース番組。
ウェザーニュースで追加される情報が、いつの間にか花粉から紫外線にに切り替わっていた。
意識してしまえば雨の日が増えてきたと実感する。
夏は少し苦手だ。
背中を追い続けた先輩が引退して、新チームで臨んだインターハイは初戦敗退。
前年度準優勝という輝かしい功績に泥を塗ったのは紛れもなく俺だった。
悔いはあるが、冬の全国大会ではベスト4。
なんとか体裁を整えることはできたと自負している。
競技を毛嫌いするようなトラウマにならずにすんだのは不幸中の幸いだ。
数年経った今も、あの夏の結果は俺の中でしこりとして残っている。
おかげで青春の名残に夢を見ながら年を重ねた、やっかいなオッサンが完成してしまった。
缶をカラにしたところで日付が変わる。
急に重たくなった腰を無理やり上げて、寝支度を整えた。
寝室に入った途端、つい声を漏らしてしまう。
「えぇ……」
あどけない顔で眠っているのは同棲している彼女だ。
寝室は除湿が効いていて冷えているのに、タオルケットは足元に追いやられている。
Tシャツとハーフパンツは寝ぼけた状態で脱ぎ捨てたのだろうか。
シャツは頭の上でくしゃくしゃに丸められて、ハーフパンツは片足だけで履いていた。
どうしてこうなった……。
普段は凛としているし、寝ているときには幼さを残すがここまで乱れることは初めてだ。
控えめな胸や太ももが露わになり目に毒なこの状況にもかかわらず、暑さゆえに子どもみたいな行動をしたであろう彼女に失笑する。
そういえば彼女との出会いも夏だった。
眩しくて、苦しくて、全身が熱くなるのは夏のせいではない。
青々とした夏空の下で笑う彼女は、力強く光を射す太陽よりも煌めいていた。
しかし、当時、キラキラと眩い彼女の瞳に映していたのは別の男で。
その相手もまた、確かに彼女を慈しんでいたから横恋慕するに気もなれなかった。
俺の恋は一瞬で散った。
やはり、夏は苦手だ。
タオルケットを彼女に被せたあと、隣に潜り込んで小さな体を抱き締める。
彼女の少し冷えた肌に、夏の気配を感じ取った。
『夏の気配』
結婚証明書に署名をして、つつがなく結婚の儀式を終えた。
純白のドレスに身を包んだ彼女と腕を組む。
この一歩のために人生を捧げてきた。
拗らせた片思いを募らせ、ゴリ押しで恋の花を咲かせ、今日、ようやく実を結ぶ。
祝福の拍手を浴びながら、笑顔が積もったバージンロードに彼女とともに足を踏み入れた。
世界で一番きれいに着飾った彼女は、いつもより小さな歩幅でゆっくりと歩く。
はにかんだ笑顔を浮かべる目元にはうっすらと膜も張っていた。
雫として溢さないようにこらえているのが彼女らしくていじらしい。
「私を選んでくれてありがとう」
わずかに上ずった声でそんな言葉までくれるのだから、俺が泣きそうになった。
「……俺のほうこそ。手を取ってくれたこと、感謝しています」
幸せを噛み締め、まだ見ぬ世界への最初の扉を、今、開く。
『まだ見ぬ世界へ!』