「赤いね」
「…うん」
「特に匂いとかないんだね、生臭いとか。日にちが経ったらすごくなるのかな」
「え?」
「これって水で拭いてから空拭きすればいいのかな?床赤くなっちゃうのかな。木だし、なんか残りそうだよね」
「うん…」
「どう思う?残りそうだよね。俺、頭今あんまり働かないから陽菜に任せていい?俺は、どうしよ、あの、あれする、これお風呂持ってくよ。わかんないけど、なんか漫画で見たよやり方」
ぐだぐだ。
不穏だ。
「陽菜、聞いてる?」
「…っあ、ごめん、めっちゃあの、ごめん。なんだった?」
「だから、陽菜は床拭いてくれる?俺はお風呂持ってくから」
「…え、何がお風呂?」
「だから、陽菜が床を」
頭が、生まれてきて初めてだ。
眠っているのに、ドクドクしてるような、焦っているような。
頭の中がねずみ色の雲で覆われている。
とりあえず動こうとするも、がくんと膝が折れて、情けなく床に手がつく。ぽたりと床に垂れる透明な液体は、私の涙か、汗か、はたまた赤に見えないやつの血か?
そうであれば、私はもう既におかしくなっている。
「陽菜」
晴生が私のように体勢を低くし、私を抱き締めた。晴生の白いジーンズが床の液体を踏み、赤く滲む。その光景に、思わずはっと息ができなくなる。自分がしたことの現状が、今やっと理解できてきているようで。
「陽菜、ね、大丈夫だから」
「……」
「俺が、俺が何とかするから。陽菜は大丈夫。大丈夫だよ」
何も大丈夫じゃないというのに、晴生は泣きながら微笑んでいた。苦しそうな微笑みが胸を苦しくする。
優しい彼が無駄な優しさを行っていることを、早く指摘して、早く彼を解放しなければいけないのに、私は、
「大丈夫。陽菜。俺が頑張って隠すから。明日から、また一緒にゆったり過ごそう」
「……うん」
ありがとう、が口に出なかった。何も、口にできる気がしなかった。
泣きながら横で床を雑巾で擦る彼は、私のために何でもするようだ。
その愚かさにたまらなく胸が締め付けられたのに、私は何も口にできず、行動できず、ずっと頭はねずみ色の雲のままなのだ。
愛のためならなんでもでき、/
「あ。」
横から彼の声が聞こえたが、私は顔を上げなかった。
母からのメッセージをさらりと返してしまうと、手持ち無沙汰に夜空へ顔を掲げた。すると、「私を見て」と言わんばかりに煌めく流れ星が降り落ちてくるのを目撃し、思わず「あ。」と声が漏れた。
「流れ星やんな」
へらりと笑っていそうな声に同感するのが癪で、「うん」と適当に返事をし、またスマホに目を向けた。母からのメッセージはまだ来ていない。憂鬱な時間に本当に舌打ちが漏れそうになる。
「俺ら、あの、付き合った時、見たよな」
「……」
「初めてデートした時や。えっ…と、あれ、映画見に行った日」
「……」
「…あの……見んかった?流れ星。夜、二人で外見てた時」
「…いや、初デートは映画じゃないけど」
顔色を伺う話し方にイライラとし、はあとため息だけ遠慮なくさせてもらった。まだ関係を繋ぎとめようとする会話の出だしに、世の全ての男が嫌いになりそうになる。
「別にどうでもいいけど、カフェに行った日でしょ、それ。夜、公園で」
「あ…そうそう、きれいやったな、流れ星。咲良、願い事言ってたやんな」
「覚えてない」
「…そっか」
横から聞こえるか細い返事の主は、見えないけれど、苦笑いをしていた気がした。うざったいくらいに気を遣った、困り顔の笑い。心の中では泣いてそうな下手な笑顔。見飽きたその顔は今日はとことん眼中に入れたくなくて、ずっと前を向くことにしていた。
「俺さ、あの日初めて流れ星見てさ」
「ほんまに、降ってきたから。びっくりして」
「……いや、こんな話興味ないよなぁ」
「最後に、流れ星見たから、ちょっと…なんか、悲しくなって」
見えない困り顔の横顔は、鼻をすすっていた。
私は返事を返さず、目前の夜空を見ていた。
しん、と降り落ちてくる流れ星に、願いを伝えることもせず、ただただ、降りゆく流れ星と一緒に、彼との最後の時間を過ごした。
流れ星に願いを/
幸せそうな姿が、欲しい。
「いいなあ、ロング。羨ましい」
友人の髪を撫でながら、ふと本音をこぼしてしまった。別に、失言というほどではないのだけれど、変に焦ったような気持ちになる。
「由佳もロングにしたらいいじゃん」
自分の焦りに真っ向から向かってきた回答だった。ある意味、ベストアンサー。けれどそれは言って欲しくない言葉でもあったため、「んー確かに」と適当に視線を逸らした。
「由佳、ロング似合うと思うよ。私ずっと前から思ってた」
「んー…ありがと」
「伸ばしてみたら? とりあえず、ボブくらいとか」
「そうだねぇ…考えとく」
運動部ほどではないが、私のショートヘアは、友人の菜々美から見れば、やはり似合っていないようだった。似合っていないとは言われないが、自然とそう言っているように聞こえる。現に、いろんな人からそう言われるし。私だって、とっくの昔からそう思っている。
「ショートの女の子かわいいけどね。あ、はるちゃんとか。はるちゃん、ショートめちゃくちゃ似合ってるよね。めっちゃ可愛い。コウキくん、はるちゃんがショートにしてから告ってたし、顔が小さい子がショートしたら勝ちだね」
菜々美がなんだか訳が分からないくらい楽しそうに、教室の真ん中にいる同じクラスの少女へ視線を向ける。はるちゃんと、みんなに呼ばれる彼女は、私と同じショートヘアだった。私と似ても似つかないきれいなショートヘア。菜々美はそう言いたいんだろう。
菜々美も、誰もかも、私がショートにしている理由も気持ちも分かっていないのに、なんだかもう…本当にむしゃくしゃする。ずっとずっと、あの子のこととか、あいつのことも、ないものねだりな私も、全部全部嫌になる。真っ白から真っ黒になっていく私の心は誰も気付いてくれないんだ。
ねえ、みんな、
「ね、由佳」
気付いてよ。
「…そうかなあ、はるちゃんロングの方が似合ってたけど」
冷めた顔して笑う私は、やっぱり、救いようがない、この中で最も汚い代表者なのかもしれない。
この菜々美のきれいなロングも、はるちゃんの似合っているショートヘアも、彼に告白されたはるちゃんも、みんなみんな、何もかも羨ましいんじゃなくて、幸せそうなのが、満足そうな姿が、たまらなくうざったらしく、
なんていうか、ええと、なんていうか…
「嫌いだなぁ」
その呟きは、菜々美に聞こえていなかったようで、私は特に安堵することなく、開かれている扉の先の廊下に目を向ける。
ショートヘアが好きなはるちゃんの彼氏は、今日の昼休みは通らなかった。
ないものねだり/はるちゃんの彼氏のことがずっと好きだったり。
「ごめん、暇だったからきちゃった」
今日は、他の女の人はいなかった。
彼は、そう暗く笑む私につられて笑い返した。唐突に訪れた私を追い返すことなく、彼はどうぞ、と背を向けた。
今日で五回目の彼の家は、今日もなぜだか安心感のような、しかし、妖しげな煙がふわふわと漂っているような、そんな不思議さがあった。
ここにくると、いつも変な気持ちになる。
「なっちゃん」
「…ん?」
「珈琲飲む? それか紅茶?」
「……」
「うそうそ、カフェラテだよね。苦い飲み物嫌いだもんね、なっちゃん」
黒髪マッシュヘアの整った顔立ちをした彼は、女神のような柔らかな笑みを浮かべている。憐れむような、慈しむような。ドジな子供を見るような目で私を見ている。この前も、今日もだ。
私より、有利な目。
「今日はどうしたの」
「…え?」
「なっちゃん、かわいい服着てるね。デートだったの?」
「…どうだろうね」
「えー、そうなの? デートだったら、嫌だなぁ。悲しいな」
笑んだ時の三日月の目。時折見えるかわいらしい八重歯。私な大好きな顔が適当なことを言ってくる。それはいつものことだが、いつもいつも聞く度に辛くなるのだ。嬉しいと共に悲しくて、悔しくて、気持ち悪くて、イライラして、憎たらしい気持ちが。ずんずんと、腹の中を巡っている。
自分らしく生きろと説く現代社会において、必要のない、後ろ向きな気持ちばかりが、彼と顔を合わせる度に湧き出てきてしまう。
何が悲しいだ。何でそんなこと言うんだ。どうして私を辛くさせるんだ、悪者にさせるんだ。どうして、どうして、優しいことばっかり、かっこいいことばっかり、言ってくるの。
どうしてあなたは、いつもいつも、悪い男なのに、
魅力的な人なの。
「なっちゃん、彼氏作っちゃダメだよ」
ゆっくりと伸びた彼の手は、私の背中にふんわりと触れた。そのままぎゅっと抱きしめられ、彼の甘い匂いが私の鼻腔をくすぐった。私を、みんなを虜にさせる、悪魔の匂い。悪魔の言葉。そのどれもが、大好きで、大嫌いで堪らない。
「俺のもんだからね」
「…何が」
「なっちゃん。俺の大切なもの。誰にもあげない」
「…」
「なっちゃん、大好き」
DV男宛らの飴に私は思わず笑みを浮かべた。うん、私も。なんて汚いことを返す私は、誰よりも汚い人間なんだろうな。部屋の中にある数々の女の私物の現実に向き合わなきゃいけないのに、彼に反抗することなく、快楽に身を溺れさせるこの私は。
「なお」
「ん?」
「私も、大好き」
ずっと一緒にいてね。
なんて言葉は告げたところで、遊び人の彼には伝わらない。
彼の唇に口付けをすると、私は涙を堪えながら微笑んだ。
堅実逃避/遊び人の彼(悪い沼男)を好きになっちゃった私の話
「今日、元彼からもらったお気に入りのマフラー見つけてさ」
「ああ…元彼の?お気に入りだったんだ?」
「うん。これ。ピンクと黄色と白の。ほんわかしてるでしょ」
「まあね。久しぶりに発見して、ノスタルジーな気持ちにでもなった?」
「ううん、特に何も感じなかった」
「でも、やっぱこれ可愛いなあと思って」と屈託のない笑みを浮かべると、ユキは首元のマフラーに目を向けた。似合ってないと言いたいのに、春のように柔らかなユキにはそれはぴったりで、逆に俺が悲しい気持ちになった。いい感じだと思ってた女の子が、元彼のマフラーを付けてくるって、もう完全にあれでしょ。脈なしでしょ。くそう。
「まあ、似合ってるけどさ」
「ふふ、ありがと」
「でも俺、ユキにぴったりのマフラーこの前見つけたんだよなぁ」
元彼に密かに対抗する。会ったことのない元彼に。嫌なことなんてされてないけど、なぜか嫌いな元彼に、ユキと付き合えないならせめて勝ちたい。いや、もしかしたら付き合えるかもだけど?
「ユキにプレゼントしたいって言ったら、どうする?いる?」
揺れる心臓を抑えて、テーブルに視線を送った後、ユキの顔を窺った。うわぁ、緊張する。返事次第では、発展するかもしれない。するって思ったら、しない時にショック受けるかもしれないが、でもすると思いたいのは片思いの楽しいところじゃない?いや、片思いの嫌なところ?
そうだねえ。
しばし考えた後、俺がドキドキしているのにも関わらず、彼女は以前変わらず柔らかな笑顔で口を開いた。
「今のところこれで大丈夫かなぁ」
いつもありがとね、タクヤ。
そう微笑む彼女は天使か悪魔か。はたまた、そもそも俺なんて眼中にないのか。
まあどちらかと言えば、今は悪魔にしか見えず、「そうすか」と俺は静かに項垂れた。
「あ、これと色違いの、駅前にあったよ。おそろにする?」
「え?」
お気に入り/片思いの女