勿忘草
「嫌い」
いつしかそれが彼女の口癖になった。
頼まれていたCDの新譜を聴いて、不意に顔をしかめる。
「このフレーズ嫌い」
イヤホンを外し、口を真一文字にしている。
なんだったのか気になって、歌詞カードを3度読み返す。
僕には何がなんやら分からない。
ただ曖昧に頷き、黙って林檎を剥く。
病室に夕陽が差し込む。
窓から影が伸び、僕の足元へと忍び寄る。
消毒液の匂いは、記憶が引きずり出される様で胸が苦しくなる。
この匂い、私嫌いだわ。
彼女が言ったのはもう半年前。
1つずつ1つずつ、彼女はこの世界に別れを告げるかの様に嫌いなものを増やしていく。
病室に寄る前、医師に言われた言葉を思い出す。
ナイフを持った手元が震える。心臓が激しく脈打つ。
僕の手の甲に、彼女は自分の掌を重ねてきた。
「私、泣いてるあなたを見るの嫌いよ」
分かってる、忘れないからさ。
声に出さず、心の中で呟く。
君のこと、君の中の君が嫌うあらゆることを。
君がいずれ別れを告げる、この愛おしき日々を。
【ブランコ】
日暮れ時、公園で遊んでいるといつも胸が苦しくなった。
もう帰ろうね、と母が言う。
幼稚園児の僕はそっぽを向いてブランコを漕ぐ。
あと15回漕いだら帰ろうと思っている。
口には出さない。
あと15回、あと10回。
まだ帰らない。あと5回。
何も言わないで見ていて、あと少しだけ。
伸びる影に視線を落とし、僕は祈った。
街へ『木枯らし』
朝起きて、コップ一杯の水を飲んだ僕は街へ出る。
午前8時には起き上がり、9時前には外出する。
あらかじめ決めていたことだ。
2年間勤めた職場を退職して、飽きるまで自由に暮らしてみようと思った。幸い、半年程度なら遊んで暮らせる程の貯金はあった。
退職してから今日で3週間になる。
時間が経つにつれ、漠然とした不安が足元に忍び寄ってきた。
激務をこなしていた頃、あれだけ焦がれていた自由をうまく乗りこなせない。
行きたかった映画も釣りも、それぞれ1度行ったきり行っていない。
ただベッドの中でスマホをいじる日々が続き、これではいけないと最低限の外出を自分に課すことにした。
行き付けの喫茶店で小一時間を過ごし、図書館で昼過ぎまで本を漁る。本に飽きるとバッティングセンターに行く。
昨日も同じ1日だったのではないか。
一昨日は、明日はどうか。
今日は何月何日だったか、分からない。
夕暮れが近くなり帰路につく。
ビルの谷間が茜色に染まっていく。
木枯らしがビューっと吹く。
カラスの群れが飛び立ち、はっとして足元から視線を上げた。
見渡せど見渡せど、街には見えない道が張りめぐらされていた。
自由を求めていたはずの自分は、ただ習慣のレールの上を移動していた。
仕事を辞めても、街に出ても、つまるところ僕は僕の枠組みから逃れられないのだと唐突に悟った。
お題:こんな夢を見た『ヤクルトスワローズ』
こんな夢を見た。
家でダラダラとスマホをいじりながらテレビを観ていた。
プロ野球のドラフト会議がやっていた。
そうしたら唐突に自分の名前が呼ばれたのだ。
東京ヤクルトスワローズから7巡目の指名だった。
会社から電話がかかってきて上司から「おめでとう」と言われた。
まだ入団するかどうか分からない、なんてとても言えなかった。
だって僕は中学高校、テニス部だったのだ。
次の日のスポーツ新聞の2面の右隅に、小さく僕の写真と名前が載っていた。
「未完の大器」
「知られざるダークホース」
格好良いキャッチフレーズを考えるものだな、と感心する。
言われてみれば僕だって未完の大器かもしれないし、ダークホースになれるかもしれないのだ。
結局僕は、契約金の500万円に釣られて契約を決めた。
しかし、それはあまりに認識が甘かったと言わざるをえない。
いざ神宮球場のグラウンドに出ると、ミサイルの様に硬球が飛び交い、ゴリラの様な男達がぶんぶんとバットを振り回していた。
僕は猟師に狙われた野ウサギの様に、芝生の上で逃げ惑った。
ボールから逃げ回ってへとへとになり座り込んでいると、内野席の前方に記者達が集まっているのが見えた。
その中心にいる人物を僕は知っていた。
あれは、村上春樹だ。
村上春樹は名誉スワローズファンとして知られていた。
さり気なく近くをうろついていると、ちょっと君と村上春樹から声をかけられた。
「例えばだけれど、君の場合は球拾いから始めてみるのも良いんじゃないだろうか」
まさに天啓だと感じた。
僕は、必死に球拾いに勤しんだ。
村上春樹が僕を見ている。
ビールとツマミを片手に、僕の球拾いを見つめている。
そうだ、いつかこの体験を本にして売り出そう。
僕は多分、半年かもっと早い時期にクビになってしまうだろう。でもそれで良いのだ。
史上初、元プロ野球選手で作家デビュー。
悪くないなと思った。
お題:タイムマシーン『リセット・マラソン』
「リセマラって楽しい?」
唐突に、咲が聞いてきた。
思わぬ問いに、私は口ごもる。
人生をやり直せるならどうするか。
そんな夢物語も、実際に叶えてしまえばそれはファッションや文化の一部として生活に溶け込んでいった。
22世紀の初頭、とある天才科学者が人生やり直し装置を開発した。
あらかじめセーブポイントを設定しておけば、装置を起動すると起動者本人の意識だけがその時間に戻ることが出来る。
リセマラは高校生活中で1人1回まで、なんていうルールが設けられるも、そんなものが守られるはずがなかった。
リミッターを外すパッチが流出し、誰もが複数回のリセマラ経験者。
誰が何回リセマラしてるか分かったものじゃない。
私が話した覚えのない過去のことを、友人が当たり前の様に知っていて時々恐ろしくなる。
他人の中に複数の私がいて、私の中にも複数の彼らが存在する。
合わせ鏡の様に広がる無限の並行世界。
隣のクラスのとある男子は、好きな女子と仲良くなる為に数え切れないリセマラを繰り返し、1年ですっかり別人格になってしまったそうだ。
ただ稀に、リセマラを拒否する者もいた。
たとえば咲、私の幼馴染み。親友。
咲は中学入学時、リセマラの装着をきっぱりと拒否したのだ。
リセマラ装着手術の適合年齢は13歳までと言われている。
親や教師は必死で説得した。
手術なんて15分で済むのよ、考え直しなさい。
リセマラするかどうかは着けてからでも選べるじゃない。
とか、なんとか。
咲はみんなの憧れだった。
バスケ部のエースで文武両道。
私は勉強だけでも咲に追いつこうと必死だったが、リセマラを使わない咲の努力は並外れたものだったはずだ。
咲は中学の3年間、リセマラについて語ることは一度も無かった。
興味本位で聞いてくるクラスメートがいても、そうゆうの興味ないから、の一点張りだった。
けれど、そんなわけはなかったのだ。
私達は同じ高校に進学した。
そして高校卒業間近、凍えるような1月の夕暮れ時、並んで帰宅する咲が不意に立ち止まり私に言った。
「つぼみってさ、リセマラしてるんだよね?」
公園の白熱灯が朧に咲を照らす。
「なんかさ、嫌になっちゃうなーって」
アハハ、と咲が乾いた笑い声を出した。
そして軽く鼻水をすすり、沈黙が訪れた。
「リセマラって楽しい?」
唐突に咲が言う。
切れ長の澄んだ目が私を見据える。
うまく声が出せない。
「えっと」
分かんないよ、そんなの。
そう言いかけて口籠る。
そんなことを言えば軽蔑されるに決まっている。
けれど、咲は見透かした様な目で続けた。
「つぼみ、ちゃんと考えてリセマラしてる?」
「一応、それは。うん」
「全部否定はしないよ。でも、リセマラしただけあなたの世界が無かったことになって、私との思い出も無かったことになって。そうゆうの、ちゃんと考えなさい」
ちょっと上から目線な物言い。
仕方ないじゃない。だって、みんなやっていることなのだ。みんなが咲みたいになれるわけじゃない。
私はごく控え目に、上目遣いで睨み返す。
その時私は、咲の瞳が涙で潤んでいることに初めて気付いた。
唇をキュッと噛み締めた後、咲が言う。
「ごめん、嘘。時々後悔するの。なんであの時拒否したんだろうって」
咲は【後悔】という言葉を使った。
何て愛しく、美しい言葉なのだろう。
この世界から失われつつある概念。
いや、もしも私に後悔というものがあるとすれば……。
「でも、つぼみが、もし私と同じになってくれたらさ」
咲の腕が私の首筋に伸びる。
リセマラ装置の設置箇所に指がかかる。
咲の吐息が頬にかかる。
吐息のリズムから、咲が震えていることが分かる。
クラクラする、胸の鼓動が早くなる。
「駄目っ!」
私は咲の腕を振り払っていた。
私はもう、戻れないのだ。
13歳より前の自分に、後悔に満ちた美しき荒野に。
先日見たVR通信でニュースキャスターは、人間の精神寿命が千年を超えたことを報道していた。
気が遠くなりそうな時間だ。私はその長い旅路を、何度もリセットしながら走り続けるのだろうか。
その日、私は帰宅して制服を脱いだ後、リセマラのセーブポイントを更新した。
今日という日を、忘れぬ為に。
咲と過ごしたあの瞬間を、永遠に確定する為に。