マサティ

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5/31/2025, 7:20:02 AM

おばあさまは今年で幾つになりますの?
電話越しに聞かれる。
祖母は現在93歳、9月が来れば94歳になる。
まだ生きていたら、という仄暗い前置きを胸に仕舞う。
電話主は祖母と古い付き合いらしい。顔も年齢も分からないが、親しみを感じる声だった。

祖母は今グループホームに入居しており、もう半年会いに行っていない。
母の話によると、眠っている時間が日に日に増え、歩くこともままならなくなってきているらしい。
母から聞いた現状を、少し柔らかくして相手に伝える。

電話を切ったあと、急に罪悪感が込み上げてきた。
祖母は人生の最期が近いことをどう感じているのだろうか。
幸せな人生だった。祖母はよく自分に言い聞かせていた。
それも10年近く前の話。
聡明だった祖母だが、ホームの入居前は理性のタガが外れて感情を抑えるのが難しくなっていた。
義理の母を自宅で看取るまで世話し続けた祖母にとって、理不尽に感じているのかもしれない。
幸せな人生だったと今も思えているだろうか。
記憶が1つずつ抜け落ちて、それでも人は幸福でいられるのだろうか。

夜更かしが続いている。
深夜は生活の影に隠れていた不安や疑問が這い出してくる。
生きること、死ぬこと、やるべきこと、その他諸々。
眠りにつく前に祖母のことを思い返す。
考えてみれば眠るということは日々死んでいるということか。
僕も祖母も30数年で随分と変わった。世界にとっては些細なことだが、僕らにとっては大きな物語だ。
せめて、覚えていられる人が時々思い出してやらないと。
いつか人生は終わる。でも、多分明日はやってくる。多分の積み重ねの先に終わりがある。思考に疲れ果て目を閉じる。多分来る明日を夢みて。

2/25/2025, 9:16:43 AM

保存(一輪の花)

1/13/2025, 3:19:04 PM

深夜零時にウォーキング
垂直に見上げれば天頂に満月
歩いても走っても変わらず頭上照らす
丸く光るあれはきっと井戸の縁
誰かが覗いているに違いない
屈折と乱反射が彼の姿を隠す
僕は海底を往くチョウチンアンコウ
餌を探し、月影を踏みしめる
天頂から垂れた釣り糸を見つけたら
思わず食べてしまいそう
冷えた夜霧をヒレで押し出し
息を吐けば白い泡が月まで届く
点滅する自販機はクシクラゲ
枝を広げた街路樹はコウモリダコ
油断した僕を待ち構えている
冬空にポツリ浮かぶボーイング
ハダカイワシ或いはデメニギスか
ここは水底、深海ウォーキング
澄んだ黒い静寂が僕を包む

8/31/2024, 9:38:16 AM

保存

7/22/2024, 9:50:47 AM

私が1番欲しいもの

『月とクジラ』

今は深夜か早朝か、午前4時前に家を出た。
ビルの谷間にポーンと花火が打ちあがった。
けれどこの花火ちっとも消えないなと思ったら、沈みかけのお月さまだった。
夕日に似た橙のグラデーションを宿していたので花火と見間違えたのだ。
私はじんじんとする瞼をこすりながら急いでいた。
浜に入道クジラが出たらしい。
海の友達が言っていた。
夜明け前の入道雲がザパーンと身を翻したかと思えば、クジラだったという話だ。
この入道クジラ、朝マヅメに姿を見せるのだが日が照り出すと消えてしまうらしい。どこに消えてしまうのかは誰にも分からない。
今日明日が最後だろうな、と海の友達は言っていた。
私はいてもたってもいられなくなって浜に向かったのだ。
家を出る前に同棲中の彼女と喧嘩をした。
そろりそろりと静かに家を出るつもりだったが、押入れから望遠鏡を探す物音で彼女を起こしてしまったのだ。
「どこに行くの?」
彼女は明らかに不機嫌だった。
深夜、あるいは早朝の外出について私は彼女に話していなかった。
けれど、それだけの話でもないらしい。
私が現在無職で求職活動中であること、彼女の実家への挨拶を渋っていること、部屋の片づけを疎かにしていることなどなどが積み重なって眉をひそめている。
私は向き合って、彼女をなだめてから家を出るべきだった。
けれど、クジラはそんな私を待ってはくれない。
私は何やかんやと中途半端な説明だけ済ませ、シューズのかかとを踏んだまま足早に家を出た。
もういい、と彼女の声が聞こえた。
私は取り返しがつかないことをしてしまったのではないか。
不安と焦りと期待を胸に、車のエンジンをかけた。
未だ知らぬ入道クジラの姿と彼女のことが交互に脳裏をよぎった。
沈みかけの満月から目を離せなかった。
既に月は半分以上沈み、夜の終わりを告げている。
サイドミラーに映る対角の地平線は既に白んでいる。
考えなければいけないことが幾つもあった。
けれど今考えることはただ一つ。
海へ海へ、クジラが去る前に。
バイパスに出る。
目的地の浜まで30分。
海の友達から、まだかまだかとラインが届く。
お腹の底が切ない気持ちできゅーっと鳴る。
入道クジラを見た者は、それから一年幸福に過ごすことが出来るのだという。
けれど、私はクジラを見ることで自分を幸せにしたいわけではなかった。
ただ、入道クジラをこの目で見たいだけだった。
一昨日まで入道クジラについて考えたことすらなかったのに。
彼女の冷たい視線を置き去りに、私は海に向かっている。
アクセルは止まらない。
浜に着くと、既に大勢の人がごったがえしていた。
車を停めるスペースはなく、駐車場をぐるぐると旋回するはめになった。
途方にくれていた時、浜に並ぶ椰子の木の上空に巨大な白い紡錘形の塊を見た。
正確な大きさは分からないが、東京タワーと同じくらいの大きさだろうか。
グォーンっという鐘の音に似た鳴き声が夏空に響いた。
入道雲が白波のごとく前後左右に飛び散った。
巨大な白い腹をそらせて、円盤の様なヒレを高々と掲げて旋回している。
そして再び、グォーンという声をあげて入道雲の中に飛び込んだ。
そしてゆっくりゆっくり、雲の合間をたゆたいクジラは静止した。
数分待ったがクジラはもう動かなかった。
よくみれば、それはクジラの形をした入道雲だった。
路上に一時停止した車内でしばらく呆然としていた。
わざわざ引っ張り出してきた望遠鏡は手に取ることすらせず、助手席に置きっぱなしだった。
人だかりが少しずつ帰路につき始めている。
やっと駐車スペースに停めて、目的もなく浜をうろついた。
海の友達を探したが既に帰宅したようだった。
子供が浮き輪を手に砂浜を走っている。
海の家がガレージを開けて、開店の準備をしている。
ありふれた夏のビーチだった。
まるですべてが幻だったかのように。

仮眠をとってから帰路についた。
今朝の彼女との会話が憂鬱に蘇った。
鍵をあけてただいまと言うも、返事は無かった。
溜息混じりに冷蔵庫を開けると、華奢な三日月がコロンと転がり落ちた。
この三日月あまり光らないなと思ってよく見ると、バナナだった。
バナナの皮を剥くと、白く冷え切った彼女の顔が出てきた。
彼女はバナナの皮に包まれて寝息を立てていた。
慎重に彼女を取り出し、抱き上げてベッドに運んだ。
数分して彼女が目を覚ました。
「帰ってたの?」
「ついさっき」
彼女は憑きものが落ちたように穏やかな顔をしていた。
「私ね、夢をみたの」
「どんな?」
「冷蔵庫の冷えたりんごとぶどうが、おいでおいでをしてきてね。一緒に眠ろう、冷えた果実になろうって。私は未熟なバナナになって彼らの隣で眠りについたの」
おかしいよね、と君は笑う。
そうだね、きっと夢なんだろうけど。素敵な夢だと思うよ。
その時、私は改めてクジラに想いを馳せた。
幻だって良いじゃないか。
私の、私たちの幸不幸がそれぞれの意志によるものだとしても、クジラが振りまくという幸福の一片を願わずにはいられなかった。

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