幸ちゃんと手を繋いで路地を縫うように歩いた。私は自然と早足になって、幸ちゃんは脚をもつれさせていて、申し訳なかった。
「雪国に行きたいな。」
幸ちゃんがぽつりと呟いた。言葉の少ない子だから、一言を大切にしたくて、理由を聞いた。
「ここはまだ冬にならんでしょ?だから、さっさと北に行って、雪に会いに行くの。」
幸ちゃんは「暑い」って、手袋を脱いだ。大きな痣のできた手首が露わになる。腕をまくろうとしていたので、止めた。
「寒けりゃあ、着てられるよ。ね、お姉さん、連れてって。あたし、お金あるよ。」
幸ちゃんは、小さな手に不釣り合いな長財布を取り出すと、お札の枚数を数え始めた。止めて、財布を預かる。
お金なら私が出す。お姉さんだから。
とびきり雪が降っているところに行こう。そうすれば、幸ちゃんは厚い服を着ていてくれるし、私たちの顔も過去も、すべて隠してもらえる。
ここが冬になる頃には、私たちの逃避行は終わる。それを信じて、改札に切符をくぐらせた。
「またね。」
「たまには帰ってきてね〜!」
「ずっと友達だぞー!」
離れていく車のエンジン音に負けぬよう、声を張り上げた。武史は窓から顔を出して、大きく手を振っていた。僕らはさらに大きく、何キロ先からも見えるように、全身使って手を振った。車が見えなくなっても振り続けた。
武史、はなればなれになっても、ずっと親友だぞ。手紙書くからな。
手紙のやり取りは三回続いた。それからぱったり、音信不通になった。
「田舎じゃ友達が限られてるからな。向こうで自分に合う親友を見つけたんだろ。守、お前にはもっとおとなしい子が合ってるよ。」
僕を宥める父親に反発して、家を飛び出した。遮二無二走っていたら足を滑らせて田んぼへ落ちた。前髪まで泥だらけで、視界を塞がれる。
そしたら、武史の姿が見えた。泥だらけの僕を見下ろしていた。武史は寂しそうに口を開いた。
「なあ、守。俺、はなればなれになっちゃった。」
「ああ。僕ら、はなればなれだね。」
僕と同じ気持ちだったのが嬉しかった。やっぱり僕の幻覚で、すぐに消えた。
泥だらけで家に帰ると、怒られた。
『速報です。今朝未明、〇〇県の山中で、身元不明の──』
父親はテレビを消して、怒った。しばらくテレビ禁止だって。あーあ、つまんない。武史、帰ってこいよー。
春に来た子猫はもう、砂のおトイレ覚えたよ。
お兄ちゃんはまだオムツのままなの?
「お兄ちゃんも子猫ちゃんと同じように可愛がってあげてね。」
お母さんはそう言うけれど、お兄ちゃんは可愛くない。
すぐ叩くし、すぐ蹴るし、すぐこぼすし、オムツは臭い。
子猫の段ボールに、交換こって入れてくれば良かったのに。
そう言ったらぶたれたよ。
子猫ちゃんと、お兄ちゃん。おんなじようにわたしもね、可愛がってよ、お母さん。
彼女は、毎年秋になるとこの別荘にやってきて、向かいのコテージの僕へ手を振ってくれる。
秋になったら僕はコテージへ来る。元々は、紅葉が素晴らしく、空気も美味いから買ったし、夏から秋にかけて滞在する場所だったのに、彼女とすれ違いになるのが嫌で、秋から冬に期間を変えたのだった。
毎日、ドキドキしながら彼女を待った。庭の木椅子に座り、唇を湿らす程度にココアを傾けて、ひたすら待った。夕方になると、冷め切ったココアを飲み干して、とぼとぼとベッドへ向かう。それをひたすら繰り返した。
今年の秋風は、やたらに寒い。心地よさはなく、喉を渇かし、肌を裂き、僕の心を冷え込ませる。
きっと冬が追い越していたのだろう。結局、僕の元に秋は訪れなかった。
彼女の別荘の玄関に、蜘蛛の巣が張ってる。枝でそれを振り払う。逞しい蜘蛛が枝に垂れ下がっている。「来年はあるか」と問うた。蜘蛛は去っていった。
友人とはぐれた。なんてこった。僕は登山初心者だし、友人に道案内を任せていたから、地図もない。携帯も圏外だ。おかしいな、普通に繋がるって聞いていたのに。ずいぶんと外れに来てしまったのだろうか。
道はあるけれど、看板がない。迷ったら下れという知識から、下る道を選ぶけれど、すぐにまた上ってしまう。同じところをぐるぐる回っている気さえする。
上って下って、平坦な道に差し掛かる。先を見た。
「!」
誰か、いた。動きが止まり、息も止まる。踊り損ねたような格好で、僕は静止した。目を逸らせず、じっとみた。
若い女性だ。黒髪が背中まで伸びていて、白いワンピースを着ている。山の中だというのに、ナップザックと登山靴を身につけていない。それどころか、何の荷物もなく、裸足だった。
今までは、人っ子一人いなかった。だから、突如現れたその女性が、ひどく不気味に感じた。格好といい、あまりに幽霊然とし過ぎている。
幽霊然とし過ぎているから、人間なのだろう。こんな創作じみた幽霊が本当にいるわけがない。なんだか、気分が良くなってきた。
「迷ってるんです。」
自ら話しかけた。女性は、ぼんやりと笑った。
「それなら、ここを上るといいですよ。てっぺんに辿り着けます。みんな、待っていますよ。」
女性は、白い腕を斜め上に突き出した。指差す先には、長い階段があった。こんなのあったのか。気づかなかった。
「ありがとうございます。」
礼を言って、階段の一段目に足を掛ける。二段目、三段目、再び女性の声がした。
「また会いましょう。」
声の方を振り返ったが、すでに女性の姿はなかった。てっぺんへ続く別の道もあるのかな。
見上げてみると、階段はすごく長い。でも、てっぺんに辿り着きたい。なぜか頭がふわふわして、とても幸せなんだ。階段も苦じゃない。足が羽根のようで、さっきまでの痛みが嘘のようだ。
登山禁止の期間だけど、僕たちは悪くなかったんだな。だって、てっぺんでみんな、待ってるんだろ。