急にすべてがどうでもよくなった。さっきまでどうやって逃げようか愚考を巡らせていたのに、ついにそれさえ諦めた。
ドンドンドン、ドアを拳で叩く音がする。大家か、借金取りか、それとも真弓が帰ってきたのか。
「祐二、開けて!誰か上がってくる!早く!」
真弓の声だ。だがこれも俺の幻聴かもしれないし、敵の罠かもしれない。俺は床に大の字のまま、時が過ぎるのを待った。
ずっと恐怖に囲まれてきたから、今は気分が良い。天井の木目が何に見えるか、考えているだけでいい。幸せだ。
どれだけそうしていただろうか。ふと、起き上がりたくなった。上体を起こすと、頭がフラフラする。思い出したかのように腹が鳴った。
いやに静まり返っていた。あのけたたましいノックはいつ止んだのだろう。外の様子を確認したくて、ドアを開けた。
目の前には……。腰が抜けて、座り込んだ。
あの時、どうでもよくならなければ、助けられたかもしれない。これからどうすればいい?警察に通報しても、俺が逮捕されるだけで、真弓は帰ってこない。逃げたって、元通りの毎日だ。
俺は再び大の字になった。急にすべてがどうでもよくなったのだ。
押入れの奥を整理するなんて、小学生の頃以来だろう。埃を吸わないよう息を止めて動かしたのは、ピンク色に金ピカが散りばめられた可愛らしい宝箱だった。
「あら、懐かしい。」
母が言った。開けると、プラスチックでできた宝石のぶら下がったネックレスや、大きな真珠もどきのブレスレットが、箱いっぱいに詰まっていた。
あの子と身につけて遊んだっけ。どれが似合うかなってお互いの選んで、鏡の前でポーズをとって、お姫様ごっこをしたな。
思い出しながら、『捨てる』袋に仕分けをした。
「捨てちゃうのね。まあ、今の貴方にとってはガラクタかしら。」
母が言った。概ね合っているけれど、少し違う。
今の貴方にとっては、じゃない。昔の私にとっても、これはガラクタだった。
あの子が笑ってくれるから、喜んでくれるから、あの子と遊んでいる時だけ、これらは宝物になれた。今の私にとっては、その思い出が宝物だから、いいんだ。
あれから3ヶ月。ようやく、父の部屋に着手する気になった。父が肌身離さず持っていた鍵を使って、扉を開けると、久々に、キィという音を聞いた。
中を見た。そのまんまだ。あの頃のまま。私が夕食の呼び出しをして、父が原稿のキリが良くて、すぐに部屋から出てきた時、隙間から見えていた部屋のまんま。
初めて入った。絶対に入るなと言われてきたから。中は古い本の匂いがして、埃っぽかった。
掃除は案外簡単だった。価値のないものは置いてなかったから、私が欲しいものか、古本屋や骨董屋に売るものか、分けるだけで良かった。
だいたい片付けてから、書斎机に取り掛かった。父の背中を思い出して、気が憂うから、最後にしたのだ。原稿の束を持ち上げたら、その下に、厚い革表紙の本があった。
それは、日記だった。
取材旅行と書斎の往復ばかりで、私に全然構ってくれなかった父。母は、父のそういうお堅いところが好きだから良いって、すべてを許していた。私も、そんな母の血を引いているからか、仕事人間の父は格好良いと思っていた。黙々と机に向かうその背中が好きだった。
父とはなんの想い出もなかった。けれども、心のどこかで繋がっていたって、そう信じている。
少し、気が引けるけれど、父のことを知りたくて、日記を開いた。
なにこれ。取材旅行なんて嘘っぱちじゃない。だから、売れなかったんだよ。この薄っぺらい人間性が作品に出てるから、売れなかったんだよ。
大嫌い。
日記の中には、想い出がたくさん詰まっていた。私じゃない娘と、母じゃない妻との、想い出が。
幸ちゃんと手を繋いで路地を縫うように歩いた。私は自然と早足になって、幸ちゃんは脚をもつれさせていて、申し訳なかった。
「雪国に行きたいな。」
幸ちゃんがぽつりと呟いた。言葉の少ない子だから、一言を大切にしたくて、理由を聞いた。
「ここはまだ冬にならんでしょ?だから、さっさと北に行って、雪に会いに行くの。」
幸ちゃんは「暑い」って、手袋を脱いだ。大きな痣のできた手首が露わになる。腕をまくろうとしていたので、止めた。
「寒けりゃあ、着てられるよ。ね、お姉さん、連れてって。あたし、お金あるよ。」
幸ちゃんは、小さな手に不釣り合いな長財布を取り出すと、お札の枚数を数え始めた。止めて、財布を預かる。
お金なら私が出す。お姉さんだから。
とびきり雪が降っているところに行こう。そうすれば、幸ちゃんは厚い服を着ていてくれるし、私たちの顔も過去も、すべて隠してもらえる。
ここが冬になる頃には、私たちの逃避行は終わる。それを信じて、改札に切符をくぐらせた。
「またね。」
「たまには帰ってきてね〜!」
「ずっと友達だぞー!」
離れていく車のエンジン音に負けぬよう、声を張り上げた。武史は窓から顔を出して、大きく手を振っていた。僕らはさらに大きく、何キロ先からも見えるように、全身使って手を振った。車が見えなくなっても振り続けた。
武史、はなればなれになっても、ずっと親友だぞ。手紙書くからな。
手紙のやり取りは三回続いた。それからぱったり、音信不通になった。
「田舎じゃ友達が限られてるからな。向こうで自分に合う親友を見つけたんだろ。守、お前にはもっとおとなしい子が合ってるよ。」
僕を宥める父親に反発して、家を飛び出した。遮二無二走っていたら足を滑らせて田んぼへ落ちた。前髪まで泥だらけで、視界を塞がれる。
そしたら、武史の姿が見えた。泥だらけの僕を見下ろしていた。武史は寂しそうに口を開いた。
「なあ、守。俺、はなればなれになっちゃった。」
「ああ。僕ら、はなればなれだね。」
僕と同じ気持ちだったのが嬉しかった。やっぱり僕の幻覚で、すぐに消えた。
泥だらけで家に帰ると、怒られた。
『速報です。今朝未明、〇〇県の山中で、身元不明の──』
父親はテレビを消して、怒った。しばらくテレビ禁止だって。あーあ、つまんない。武史、帰ってこいよー。