もし飛行機から投げ出されたらどう対処する?すぐに気絶するとも聞くが、もし意識があったならば上からも下からも大洪水で、どうすることもできないだろう。
携帯電話が繋がるならば、風切音と共に私の声を妻に届けるだろう。泣きじゃくる声なんて聞かせたこともないから、最初で最後、良い記念なんじゃないか。
それでも生きたくなって、クッションとなるものを捜すかもしれない。上空一万メートルから落ちて無事でいられるクッションなんて存在しないのかもしれないが、枝をばきぼき折りつつ全身血だらけになりつつも着地するとか、巨大マシュマロのギネス記録の現場に落ちて低反発で助かるとか、夢見がちに考えてしまうのは、寡聞で或ることの長所と言える。
実際には、命を他人に任せるしかないのだ。閉じ込められているのだから、どうすることもできない。
ああ、私が何も知らなくて良かった。この飛行機があとどれだけ持つのか察することができない分、希望が持てる。
妻への手紙は、したためた。胸に抱いて、落ちていく。意識は深く、落ちていく。
「ああっ、離婚したいっ!」
そんな言葉、子どもの前で言うもんじゃない。祖母のお小言を笑顔で耐え抜いたあとの母はいつもこうだ。私と母と妹がぎゅうぎゅうの部屋で、顔を覆って泣き始める。逃げるところがここしかないのは分かるけれど、妹はまだ多感な中学生だよ?
父は一人部屋に篭りきりで相手にしてくれないもんね。祖母も一人部屋で悠々自適に暮らしてるんだ。羨ましいなあ。
「私、一人暮らしするね。」
って、言ってしまったらどうなるだろう。母は泣きじゃくって止めるかしら。妹は、うつが悪化するかしら。
ああ、早く結婚したい。そんで、この家から飛び出して、相手を怒らせて、すぐに離婚を言い渡されるの。夢の一人暮らしゲット。そうしたら、私を責める人は誰もいないでしょう。私だって、被害者になれるでしょう。
急にすべてがどうでもよくなった。さっきまでどうやって逃げようか愚考を巡らせていたのに、ついにそれさえ諦めた。
ドンドンドン、ドアを拳で叩く音がする。大家か、借金取りか、それとも真弓が帰ってきたのか。
「祐二、開けて!誰か上がってくる!早く!」
真弓の声だ。だがこれも俺の幻聴かもしれないし、敵の罠かもしれない。俺は床に大の字のまま、時が過ぎるのを待った。
ずっと恐怖に囲まれてきたから、今は気分が良い。天井の木目が何に見えるか、考えているだけでいい。幸せだ。
どれだけそうしていただろうか。ふと、起き上がりたくなった。上体を起こすと、頭がフラフラする。思い出したかのように腹が鳴った。
いやに静まり返っていた。あのけたたましいノックはいつ止んだのだろう。外の様子を確認したくて、ドアを開けた。
目の前には……。腰が抜けて、座り込んだ。
あの時、どうでもよくならなければ、助けられたかもしれない。これからどうすればいい?警察に通報しても、俺が逮捕されるだけで、真弓は帰ってこない。逃げたって、元通りの毎日だ。
俺は再び大の字になった。急にすべてがどうでもよくなったのだ。
押入れの奥を整理するなんて、小学生の頃以来だろう。埃を吸わないよう息を止めて動かしたのは、ピンク色に金ピカが散りばめられた可愛らしい宝箱だった。
「あら、懐かしい。」
母が言った。開けると、プラスチックでできた宝石のぶら下がったネックレスや、大きな真珠もどきのブレスレットが、箱いっぱいに詰まっていた。
あの子と身につけて遊んだっけ。どれが似合うかなってお互いの選んで、鏡の前でポーズをとって、お姫様ごっこをしたな。
思い出しながら、『捨てる』袋に仕分けをした。
「捨てちゃうのね。まあ、今の貴方にとってはガラクタかしら。」
母が言った。概ね合っているけれど、少し違う。
今の貴方にとっては、じゃない。昔の私にとっても、これはガラクタだった。
あの子が笑ってくれるから、喜んでくれるから、あの子と遊んでいる時だけ、これらは宝物になれた。今の私にとっては、その思い出が宝物だから、いいんだ。
あれから3ヶ月。ようやく、父の部屋に着手する気になった。父が肌身離さず持っていた鍵を使って、扉を開けると、久々に、キィという音を聞いた。
中を見た。そのまんまだ。あの頃のまま。私が夕食の呼び出しをして、父が原稿のキリが良くて、すぐに部屋から出てきた時、隙間から見えていた部屋のまんま。
初めて入った。絶対に入るなと言われてきたから。中は古い本の匂いがして、埃っぽかった。
掃除は案外簡単だった。価値のないものは置いてなかったから、私が欲しいものか、古本屋や骨董屋に売るものか、分けるだけで良かった。
だいたい片付けてから、書斎机に取り掛かった。父の背中を思い出して、気が憂うから、最後にしたのだ。原稿の束を持ち上げたら、その下に、厚い革表紙の本があった。
それは、日記だった。
取材旅行と書斎の往復ばかりで、私に全然構ってくれなかった父。母は、父のそういうお堅いところが好きだから良いって、すべてを許していた。私も、そんな母の血を引いているからか、仕事人間の父は格好良いと思っていた。黙々と机に向かうその背中が好きだった。
父とはなんの想い出もなかった。けれども、心のどこかで繋がっていたって、そう信じている。
少し、気が引けるけれど、父のことを知りたくて、日記を開いた。
なにこれ。取材旅行なんて嘘っぱちじゃない。だから、売れなかったんだよ。この薄っぺらい人間性が作品に出てるから、売れなかったんだよ。
大嫌い。
日記の中には、想い出がたくさん詰まっていた。私じゃない娘と、母じゃない妻との、想い出が。