かのこ

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8/13/2023, 12:14:10 PM

『心の健康』2023.08.13

 オフの時は前日に買い込んだ材料を使ってお菓子を作る。
 クッキーでもケーキでもなんでもよくて、全て明日のボクに任せている。
 今の気分は、どうやらパウンドケーキらしい。
 バターは無塩なのがこだわりポイントだ。
 プレーンとオレンジピールとココアの三種類を作るつもりなので、意味もなく早起きをした。今日はずっと家でお篭もりだ。
 起きてすぐにオーブンを170℃に余熱しておく。もちろん、無塩バターと溶き卵を常温に戻しておくことは忘れない。
 その間に、洗濯やら掃除やらを済ませておく。これも大事なことだ。
 そんな事をしていると、イイ感じになっているので、三つのボールに材料を入れて手順通りに進めていく。
 プレーンは後回しにして、ココアとオレンジピールの分を優先して作る。
 材料を型に入れてかたちを整えオーブンへ。
 一つ一つ焼いていくから時間がかかってしまう。しかし、そんな時間も無駄にせず、後片付け。そして時々、飲み物。
 お昼すぎになって、ようやく三つのパウンドケーキが完成した。美味しそうな匂いが漂ってくる。
 粗熱が取れたころに型から外して冷ます。今日も上手くできた。
 ボクは同じグループのメンバーに連絡をした。同じマンションに住んでいるから、すぐに来るはずだ。
 果たして小腹を空かせた彼らは、文字通りすぐにやってきてボクの作ったパウンドケーキを食べる。
 美味い美味いとの声を聞くと、胸の奥のつかえが取れた気がする。
 作っている時間も無心になれて楽しいが、こうして美味しいの声を聞くとあったかい気持ちになり無心が満たされる。
 これが、ボクの心の健康を保つ方法だ。

8/12/2023, 1:18:18 PM

『君の奏でる音楽』2023.08.12


 ひとは誰だって意外な特技を持ち合わせているものである。
 いや、意外ではないか。我が親愛なる義妹はミュージカル俳優だ。
 この曲はなんといったか。確か、ラプソディーインブルーだったと思う。
 義妹はそれに合わせて、ダンスを踊っている。
 トップの彼女の隣で、その子に負けないぐらいの妖しい色気をだして、足を伸ばし腰を回し手を、伸ばす。
 男役の群舞はいつ見ても美しい。これで全員女性なのだから恐ろしいことだ。
 自分の隣では親友が感心したように顎を摩っている。
 今回は割りと近めの席なので、滴る汗の音すら聞こえてきそうだ。
 シュッ、パサッ。体を動かすたびに、そんな音が聞こえる。
 乱れることなく、衣擦れの音が揃う。
 身内の贔屓目もあるのかもしれない。義妹の体からは音楽が聴こえる。
 音ハメなのだが、その伸びやかな表現力とピクリとも微笑まない表情筋。それでも、バチンとウインク。
 ティンパニ、シンバルの音でビシッと決め、ウインクをしてペロッと舌舐めずりをする。
 ヒュー、と親友が小さく声を出し、周辺の女性客が息を呑む。
 なるほど。
 これが、君が奏でる音楽か。

8/11/2023, 1:24:45 PM

『麦わら帽子』2023.08.11

 風に麦わら帽子が舞う。それが遠くに飛んでいく前に、手を伸ばして捕まえた。
 追いかけてきた持ち主であろう女の子に返してやると、彼女は嬉しそうに笑ってお礼を言った。
 今度は飛ばされないように帽子を抑えて、彼女は母親らしき女性の元へ駆けていく。会釈する母親にこちらも会釈して、女の子に手を振った。
 仲良さそうに去っていく背中を見送って、オレも帰ろうかと踵をかえすと、そこに彼がいた。
「久しぶりだな」
 いかめしい顔に笑顔を浮かべた年上すぎる彼。彼もまた麦わら帽子を被り、涼し気な甚平を着ている。
「どこのじーさんかと思った」
 嫌味を言ってやると、彼は快活に笑って流し、被っていた麦わら帽子をオレに被せた。
「暑さにやられても知らんぞ」
「うっせぇ」
 そうやって憎まれ口を叩いても、彼は笑うだけだ。
 そして手に持った紙袋から、ヘンテコなというかいかがわしい形の置物を取り出してオレに渡してきた。
「お土産だ。今回はアメリカに行ってきた」
「絶対、アメリカでなくても買えるだろ」
「面白いだろう? 」
 茶目っ気たっぷりにそんな事を言う彼に、お土産よりも彼の顔を見れたらそれでいいと言いかけたが、恥ずかしいので口に出すのはやめた。
 聡い彼にそれがバレないように、オレは麦わら帽子を目深に被った。

8/10/2023, 11:50:03 AM

『終点』2023.08.10


 この電車を終点まで乗ったらどうなるだろう、という考えがよぎり思わず笑ってしまった。
 今書いている脚本の登場人物のような思考。ミッドライフクライシスというらしい。
 あいにく自分はまだそこに至る年齢ではない。本やネットで調べただけの知識しかないが、中年期におこる憂鬱のことを言うらしい。
 今日はオフだ。人に会う用事も買い物もない。時間に余裕はある。
 いっそ本当に終点まで行ってみようか。
 路線図を確認すると、終点は高崎駅だ。
 行けなくはない。帰れなくもない。
 帰宅の時間や交通系電子マネーの残金を考えると、なかなかの大冒険である。
 しかし。
 などと悩んでいると、本来降りるべきだった駅をすぎてしまった。
 不思議と焦りはなかった。だから、そのまま座席に座ったまま流れる景色を見る。
 乗り過ごしたのなら、仕方ない。
 バッグから手帳を取り出し、今の心境をメモしようとした。しかし、それすらも面倒くさくなり、すぐに片付けた。
 今の自分はシナリオの登場人物だ。その心境をトレスすることにした。
 電車はガタンゴトンと揺れながら、高崎駅を目指す。

8/9/2023, 11:04:04 AM

『上手くいかなくったっていい』2023.08.09


「上手くいかなくったっていい。案外、なんとかなるもんさ」
 出会って間もない頃、彼はそうやってオレを励ましてくれた。
 まるっきりはじめての現場で戸惑うオレに、彼はタバコを美味そうに吸いながら、左の口角を上げて笑う。
「やれることやってみたら? ダメな時はダメって言われるだろうし、何事もチャレンジだよ。大丈夫、俺がキミのプランに合わせるよ」
 彼はブロードウェイ出身で経験豊富だから、オレのめちゃくちゃな芝居プランにも合わせてくれた。その結果、演出家は面白いと言って、オレを認めてくれた。
 臆病になるオレに、あれもやってみよう、これもやってみようと提案してくれて、彼には本当にお世話になった。
 彼に出会っていなかったら、ここまで登りつめることは出来なかっただろう。
 彼のことは、役者として一人の人間として男として尊敬している。
 上手くいかなくて悩んだ時は、彼の言ってくれた言葉を思い出すようにしている。
彼は、
「そんなこと言ったかなぁ?」
 と首を傾げる。とぼけているのか、ガチなのか。のほほんとしている彼のことだから、きっと後者だろう。
 それでも、オレは彼のその言葉を、指針としているのだ。

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