イルミネーションを見ると
わーキレイ♡とすぐに言葉が出てくる人と、キレイだと思いつつも、大きいリアクションができずに、反応が悪い人、なにを考えているのかわからないと思われる人がいる。
私は明らかに後者で、求められているような感情表現ができなかった。
なので、なるべく感情に訴えかけるものから遠ざかって生活をしてきた。イルミネーションや花火を見にいくこともなく、感動を訴えかける映画は見ないし、観ても求められている反応ができなさそうなので、避けていた。
ただ、歳をとるにつれて、そういった感情表現のリアクションを求められる側から、求める側になった。つまり、喜ばないといけない側から、喜ばせる側への立場の変化。そのため、リアクションの必要性は減っていったので、その分は生きやすくはなったかと思う。
歳をとると生きやすくなることもあるんだと最近思う。そのせいか最近は、イルミネーションやとても美味しい食べ物を前にしても、ほんの少しの感嘆符は出るようになり、それから、その感動の分析を始めている自分がいる。それは結構自分では楽しいのだが、なかなかわかってくれる人はいない。まあそういうものだろう。
愛を注いだり注がれたりしても
「お前は橋の下から拾ってきたんだよ」と親から言われてショックを受けた、という話を以前はたまに聞いていました。
親になってわかるのは、子供には、お金も時間も体力も忍耐も必要なのに、わざわざ拾ってくるなんて、よほど愛が溢れる人か奇特な人なんだなと思うようになりました。
こう考えると、親が本人なりの愛情を注いでいたとしても、子がそれをわかるということはほぼないでしょう。逆の立場になって、初めてわかるものでしょう。
なので、愛情を注がれている側は、当たり前だと思っているので、なくなって初めて気づくようです。
逆に愛情を注いでいる人は、たまに注ぐのに疲れることはあるでしょうし、注ぎ方や加減がわからない時もあります。
またお互いが、親だからこうするべきと思っていて、それがずれている時は、あまりうまくいかないのかもしれません。
しかし、これだけ注いでいるんだから、と怒るのは、ちょっと大人げないですね。
私といえば、感情的になった後に、もう少し大人にならねば、と反省をする日々です。
心と心というのは
「集団の中でこそ孤独になれる」とある映画の台詞であったが、人が心を意識するのは、他人の存在がある時が多い。一人の時はあまり意識しない。ただ、一人の時でも、実過去の記憶や誰かにどう思われているかとか、これは誰かにどう思われるかなど、人との関係を気にしている時間は割と多い。
なので、数多くの心の定義の中では、個人的には「ヒトとヒトの間に立ち生まれるもの」というのが一番しっくりくる。そして、良くも悪くも、それは変わっていく。
だから、関わりの中で生まれる心が変わっていくのは当然のこと。変わるのが当たり前で、変わらないことが珍しい。
逆にいうと、心と心が通じ合わないのがデフォルトなので、通じ合うというのは、とても貴重。
そういった多くの誤解の中で、運よく通じたものがとても心地よい。もしかすると、人はその瞬間を求めて冗長性なコミュニケーションをし続けるのかなと思う時がある。言い方を変えると、それは心を作り上げる時間ともいえるかもしれない。まあ、言えるかもしれないけど、でもそれだけでもない気はするので、それ以外の事はまた別の機会に。
なんでもないフリはよくします
元々形から入るタイプでした。眉間にシワがよると考えている感じがするので、良い考えを出すために、シワを寄せてみたり。また、イラっとした時にニヒルに対応したらクールかなと思い、チックのように片方の口角だけ上げてみたりとかしてました。
でも実際は、シワがよっても良い考えは浮かばないし、片方だけ口角を上げても、イライラは変わらないので、形だけ変えても、あまり変わりませんでした。
同様に、なにもないフリをしても、なにもない訳ではないので、フリをしてもあまりメリットないのはわかります。
でも、なんでもないフリは、気を抜くとしてしまいます。動揺していない方がクールに見えるからか、感情を出すのが疲れるからか、感情よりも対応が先だからか。とにかく、気がついたらフリをしてます。
それは、元々は意味があったのかもしれないけど、今となっては、ただのクセかもしれません。かといって、どれくらい変える必要があるのかはわからないけど。まあいいか。
仲間が大事という価値観
仲間がいない人からすると、仲間がいる人は楽しそうにみえる。家族がいない人からすると、家族がいる人は楽しそうに見える。
更に、娯楽作品系の漫画やアニメや映画などでは、仲間を大切にするのが何よりも優先される気がする。仲間のために命をかけてとか、仲間至上主義みたいなのは多い。
なんでこんなに仲間なのかなとしばらく考えた、現実はそうじゃないのに。
その結果、「現実はそうではないのはわかっているから、娯楽の世界ぐらいは、わかりやすい価値観に浸ってリラックスしたい」のかな。
実際の自分が体験している世界をそのまま体験しても、気分転換にもならないし、リラックスもできないし。まず見たくない。
気まぐれな上司や先輩に振り回され、要領の良い同僚は出世し、パートナーはわかってくれないし、子供は言うことを聞かない。自分が生きている意味もあまり感じられない日々。
そんな日々には、仲間を思うわかりやすい倫理観で貫かれた物語は、一種の癒しとなるだろう。だから色々な物語は、大体は勧善懲悪で、仲間を大切にし、パートナーを大切にし、慈愛を持つ人が勝利する。実際はそんなことはなかなかないのだが、ないからこそ、そういう世界を描く意味がある。希少だからこそ意味がある。
私には基本仲間はいないので、ついつい仲間というのは都市伝説ではないかと疑っているが、でも仲間と楽しそうにしている人を見ると、いいなぁと、ちょっとだけ思う。