私の傾向
私は昔から、楽しい話をしたり、みんなで盛り上がって、というのが苦手でした。だから、楽しい話、未来を感じるような話は、自分は好きではないし、自分は暗い人だと思っていました。
でも最近気づいたのですが、暗い話が好きなわけではないようです。というのも、人が暗い話をしていると、話を反対方向に変えたくなるからです。
つまりは、明るい人には暗い話をするし、暗い人には明るい話をする。暗いところには明かりをつけ、明るいところでは暗さを求める。
まあ普通に、人と反対のことをしたい、という人だったようです。だからなんて事はないんだけど、周囲にこんな人がいると嫌がられるだろうなと思います。まあ、そんな人です。しょうがないな。
記憶の海というより
記憶というものは、なぜあんなにも脈絡なくやってくるのだろう。今から出て来ますよとか、せめて合図は欲しい。
急にくるから、対応に困る。そして、あまり良い記憶は出てこない。どうでもいい事、もう忘れてしまっているものが出てくる。
たまには、本当は必要だけど、見たくないから見ないようにしているうちに、忘れてしまったということもあるが。
なので、記憶の海でなく、記憶の川くらいにして欲しい。できれば三級河川くらいの小さな規模で、橋でも渡れるくらいの。それくらいだったら、多少の予想はできるから。
とはいえ、本当に記憶の川があったら、一方通行だから、予想できる分、面白くないかもしれないし、動揺も感動も少ないかも。
そして、効率が良いように側溝を作ったり、暗渠にしたりと、膨大なはずの記憶を無かったことにして、整理してますよみたいな態度をしてしまうだろう。
そう考えたら、予想できないことも起こるし、溺れる事もあるかもだけど、海もありかもしれない。たまの津波は太刀打ちできないけどね。
夢を描けって言われるのは
とても苦痛でした、子供の頃。特になりたいものはないし、なれそうなものはないし。将来の夢っていうのも苦手です。小さい頃から、夢とか希望とか、そういうのとは縁がない人生を過ごしています。
大人になると、そういうのを言われる事はなく、ほっとしていました。しかし、職場は職場で、マインドとか課題とか目標とか、夢まではないにしろ、ないものをあるように語らないといけません。そして語ったために、そのないものに向かっていかなくてはいけないという、自己予言みたいなものを強要されます。
なのでせめて、もしかしたら今の時代にも自分のような子がいるかもしれないので、小さい子供に将来のことを聞かなくてはいけない時は、「将来の夢はなくても、わからなくても大丈夫だよ、聞かれて困ることもあるからね」という言葉くらいはつけ加えています。
それでも、割とちゃんと答える子供は多く、最近の子は偉いなあと思っていました。でも、最近の子は空気が読める子が多いので、もしかすると、こちらが安心するような模範的に答えを用意しているのかもしれません。
だとしたらせめて、私ができることといえば、本当はどうなの?なんて野暮な事は聞かずに、答えてくれたらほほえむくらいがいいのでしょう。
誰から誰に届かない?
なぜか、人のためにした親切というのは相手に届かない。でも、この人嫌いだな、なんて気持ちはよく届く。
少し考えてみた。逆に、自分にも人の思いは届いていないのかもしれない。気づいてないとか自分の考えと違うからとかでスルーしているのかも。でも嫌われてるなという思いはよく届く。
だとすると、自分は他人を受け入れないのに、自分を受け入れて欲しいと思うのは、少し都合が良い感じもする。
自分ができることから、という視点から考えると、嫌いだなという気持ちは抑えられないのでしょうがないとして、大事なのは、周囲の親切を受け入れる事が大事なのかもしれない。
まあ、自分のこだわりはあるから、なかなか難しいけど、そういう視点は、今までなかったので、たまにはいいのかもしれない。
木漏れ日を撮る
映画「パーフェクトデイ」を見て以降、どうも木漏れ日が気になる。よく写真を撮るようになった。
そして、撮りながら考える。一体なにを撮っているのだろう。葉っぱなのか光なのか、葉っぱがあることで光を確認するのか。
それとも、そんなに意味はなく、ただきれいと思ってカメラをむけるだけなのかもしれない。そのように無心に近い状態になる事は、生活においてあまりない。
ある意味、マインドフルネス状態なのかもしれない。まあそこまでなくても、いいもの見たな、得したな、という感じはする。
そう考えると、木漏れ日を撮る瞬間、メンタルをスモールリセットして、小休止しているのかもしれない。同時に、お得感も少し感じている。
多分似た効果は、虹もあるんじゃないかと思う。あくまでも個人の見解だけど。