これで最後の〇〇
そう言った時は、最後ではない。最後のお願い、一生のお願いが何度もあるようなもの。
大体の人は、これで最後だから、と言っても、最後にする事はできない。
多分それが人間らしさで、本当に最後にする人は、人らしくない冷たい人だと言われたりする。
このような、言えば言うほど嘘くさくなっていく、という言葉は、個人的にはとても興味深い。
病気のフリをして
本当に今日の昼から何もしたくなくて、天気もいいし具合も悪くないけど、ずっと寝ていた。側から見たら、具合が悪い人のように見えると思う。誰かが来る事もなく、寝たり起きたりただただ、布団の中で過ごす。
あまりにも寝ていたら、本当に風邪のようになってきた。体熱いし喉も痛い。
なので、風邪薬を飲んで、今度は元気な人のフリをしようと思う。
私の傾向
私は昔から、楽しい話をしたり、みんなで盛り上がって、というのが苦手でした。だから、楽しい話、未来を感じるような話は、自分は好きではないし、自分は暗い人だと思っていました。
でも最近気づいたのですが、暗い話が好きなわけではないようです。というのも、人が暗い話をしていると、話を反対方向に変えたくなるからです。
つまりは、明るい人には暗い話をするし、暗い人には明るい話をする。暗いところには明かりをつけ、明るいところでは暗さを求める。
まあ普通に、人と反対のことをしたい、という人だったようです。だからなんて事はないんだけど、周囲にこんな人がいると嫌がられるだろうなと思います。まあ、そんな人です。しょうがないな。
記憶の海というより
記憶というものは、なぜあんなにも脈絡なくやってくるのだろう。今から出て来ますよとか、せめて合図は欲しい。
急にくるから、対応に困る。そして、あまり良い記憶は出てこない。どうでもいい事、もう忘れてしまっているものが出てくる。
たまには、本当は必要だけど、見たくないから見ないようにしているうちに、忘れてしまったということもあるが。
なので、記憶の海でなく、記憶の川くらいにして欲しい。できれば三級河川くらいの小さな規模で、橋でも渡れるくらいの。それくらいだったら、多少の予想はできるから。
とはいえ、本当に記憶の川があったら、一方通行だから、予想できる分、面白くないかもしれないし、動揺も感動も少ないかも。
そして、効率が良いように側溝を作ったり、暗渠にしたりと、膨大なはずの記憶を無かったことにして、整理してますよみたいな態度をしてしまうだろう。
そう考えたら、予想できないことも起こるし、溺れる事もあるかもだけど、海もありかもしれない。たまの津波は太刀打ちできないけどね。
夢を描けって言われるのは
とても苦痛でした、子供の頃。特になりたいものはないし、なれそうなものはないし。将来の夢っていうのも苦手です。小さい頃から、夢とか希望とか、そういうのとは縁がない人生を過ごしています。
大人になると、そういうのを言われる事はなく、ほっとしていました。しかし、職場は職場で、マインドとか課題とか目標とか、夢まではないにしろ、ないものをあるように語らないといけません。そして語ったために、そのないものに向かっていかなくてはいけないという、自己予言みたいなものを強要されます。
なのでせめて、もしかしたら今の時代にも自分のような子がいるかもしれないので、小さい子供に将来のことを聞かなくてはいけない時は、「将来の夢はなくても、わからなくても大丈夫だよ、聞かれて困ることもあるからね」という言葉くらいはつけ加えています。
それでも、割とちゃんと答える子供は多く、最近の子は偉いなあと思っていました。でも、最近の子は空気が読める子が多いので、もしかすると、こちらが安心するような模範的に答えを用意しているのかもしれません。
だとしたらせめて、私ができることといえば、本当はどうなの?なんて野暮な事は聞かずに、答えてくれたらほほえむくらいがいいのでしょう。