とりとめもない話がほとんど
もしかすると世の中のほとんどの会話は、とりとめもない話なのかもしれません。
たまに、目的があってそれに向かう会話があったり、解決に向かう話があったり、オチがあったりという話があるかもしれないけど。そういう価値観の会話は、会話の中のかなり限られたパーセンテージなのだと思います。
なので、普段の会話は、オチも探さず、正しさも決めず、一つの真実も決めず、ただただ、流れていくのが良いのでしょう。
そう思うことにして、だいたい話し合いの時は大人しくしています。早く終わらないかなと思ったりしながら。
風邪に対しての考えを最近改めた
社会人生活をしていると、体調管理ができて当たり前、できないのはダメ、という考えが主流だ。そうやって長年してきた。
それが、何度かコロナにかかり、仕事を休んでもどうにかなることがわかってから、別に休んでもいいやと感じるようになった。
そうすると、なぜだか細菌やウイルスがよく自分に滞在するようになり、定期的に体調不良になるようになった。
しかし時代の流れか、休んでもそこまで言われることも減ったし、動けること、眠れること、食べれることの大事さも体感できるし、回復の過程を忘れた頃に実感できるようになった。
そういうメリットもあるなら、非日常体験の一つとして考えるのもありかと思うようになった。また、細菌とかウイルスを拒否しなくなったので、向こうも来やすく、滞在しやすくなったのかもしれない。
ということで、風邪も含めて、休むのも含めて、ウイルスや細菌も含めての人生と思うようにしている。
わかった気がして疲れる夜には
一人で疲れる職場の飲み会。
・管理職の人のグチ→上司からの圧が大変で、若い人に絡むことでなんとか保とうとしている
・若い人は静かに愛想笑い→早く終わらないかなと思っている
・沢山お酒を飲んではじけている主婦→なかなか飲める機会がなくて大変
・愛想笑いしている新人→名目は自分の歓迎会だが、どこのグループにも入りづらい
そんな光景を見ていたら、なんだかとても疲れた。本当はどうかわからないし、全て自分の妄想かもしれないのに。
こんな時は雪でも降って、何にも見えなくなったらいいのに。でもほんとに降ったら困るだろうけど、そんな気持ちの時もある。
イルミネーションを見ると
わーキレイ♡とすぐに言葉が出てくる人と、キレイだと思いつつも、大きいリアクションができずに、反応が悪い人、なにを考えているのかわからないと思われる人がいる。
私は明らかに後者で、求められているような感情表現ができなかった。
なので、なるべく感情に訴えかけるものから遠ざかって生活をしてきた。イルミネーションや花火を見にいくこともなく、感動を訴えかける映画は見ないし、観ても求められている反応ができなさそうなので、避けていた。
ただ、歳をとるにつれて、そういった感情表現のリアクションを求められる側から、求める側になった。つまり、喜ばないといけない側から、喜ばせる側への立場の変化。そのため、リアクションの必要性は減っていったので、その分は生きやすくはなったかと思う。
歳をとると生きやすくなることもあるんだと最近思う。そのせいか最近は、イルミネーションやとても美味しい食べ物を前にしても、ほんの少しの感嘆符は出るようになり、それから、その感動の分析を始めている自分がいる。それは結構自分では楽しいのだが、なかなかわかってくれる人はいない。まあそういうものだろう。
愛を注いだり注がれたりしても
「お前は橋の下から拾ってきたんだよ」と親から言われてショックを受けた、という話を以前はたまに聞いていました。
親になってわかるのは、子供には、お金も時間も体力も忍耐も必要なのに、わざわざ拾ってくるなんて、よほど愛が溢れる人か奇特な人なんだなと思うようになりました。
こう考えると、親が本人なりの愛情を注いでいたとしても、子がそれをわかるということはほぼないでしょう。逆の立場になって、初めてわかるものでしょう。
なので、愛情を注がれている側は、当たり前だと思っているので、なくなって初めて気づくようです。
逆に愛情を注いでいる人は、たまに注ぐのに疲れることはあるでしょうし、注ぎ方や加減がわからない時もあります。
またお互いが、親だからこうするべきと思っていて、それがずれている時は、あまりうまくいかないのかもしれません。
しかし、これだけ注いでいるんだから、と怒るのは、ちょっと大人げないですね。
私といえば、感情的になった後に、もう少し大人にならねば、と反省をする日々です。