どんなに離れていても
私の人生がガラッと変わったのは、あの国のあの場所。あの国で大学生だった私は、青春のいろんなことをそこで体験した。
そして、あの事件以来、私はだんだんと自暴自棄になっていったように思う。交友関係も、お酒の飲み方も、職業選択も、パートナー選びも。どうしようもない状況になっても、まあ私の人生こんなもんだし、なんて思っていた。
でも不思議なことに、あれから何十年も経ち、私はその場所を見に行こうと思った。今、どうなっているのか。
おそらく、行っても何も起こらないのはわかっている。私はただ、あの時に止まってしまった私の時間を動かしたいのだと思う。
ある知人に、あの場所に行こうと思うと話すと「行こうと思っている時点で、すでに動き始めている部分があるのかもね」と言ってきた。なんて前向きな。私には全くない感性。
昔の昔はそういう考え方は全く相容れなかったが、今は、そういう考えもあるかな、ぐらいにはなった。
私の中では、何十年離れていても何千キロ離れていても、あの事件は全く風化していない。いつでも私と共にある。そして、あの時点で私は完全に詰んだ・・と思っていた。
でもわざわざ見に行こうというくらいだから、かなり劣勢だったが、本当は詰んでなかったようだ。
ほんの少しは私の時間も進んでいるのかもしれない。まあ行ってみてからだね、実際の所は。
苦いビール
どこに行こうかなんて考えるのは、楽しかったはずなんだけど、最近はあまり楽しめない。何時からこれがあって、それまでにできればこれをしておきたくて・・・みたいなものが勝手に頭の中に浮かんできて、勝手にタスクになっている。
勝手に出てくるto doリストをこなす人生。なんだかつまらない。だから、リストをこなさないような人生がいいなと思うたびに、思い出す事がある。
それは、「明日から来なくていいよ」と言われ、急に仕事がなくなった次の日のこと。
いつもは昼間からビールが飲める人はいいなと思っていたので、念願だった昼間からビールをしてみた。思ったほど美味しくない。なんだか苦い。そして、働いている人たちになんだか申し訳ない気がして、すぐに店を出た。帰りながら、自分がしたかったのは、本当はこれではなかったんだなとしみじみ思った。
その苦味を思い出すので、つまらないと思う時は、リストがある人生は悪くはないんじゃないかと思い直すことにしている。ありすぎると余裕がなくなるけど、全くないとビールが苦くなる。加減は難しい。
星明かりを見ながらたまに思うこと
少し高い所に登ると、星がとても綺麗に輝いて見える。でもどんなに綺麗でも、私には、星々を見ながら星座の絵が見えてこない。なぜ、星々の中から神話の中の絵を想像し得たのだろう。自分の頭の中では、あの点と絵が結びつかない。
よく、プラネタリウムのストーリーとかでは、古代人は星を見ながら神話の世界を〜というのがある。でも小さい頃から私は、全く想像がつかないし納得がいかなかった。
だからもしも、タイムスリップとかして、古代に行ったとしたら、今よりももっと星は綺麗だろうが、星を見ながら星座の話などができないだろう。だから、タイプスリップはできればしたくない。
でも実際にしてしまったら、星座の話どころではないだろうというのはわかる。エアコンないし車もないしWi-Fiないしアイスないし・・・
そんな事はわかっているけど、空の星々を見るたびに、自分の想像力のなさを突きつけられる時がたまにあった。
でも最近は、少し考え方を変えた。「タイムスリップしなくて良かったと」思うようにした。想像力のなさは変えられないが、自分に言い聞かせる言葉くらいは自分で選びたいから。まあ、自分にできるのはこれくらい。
情熱はめんどくさいものだと思っていたが
静かな情熱という言葉があるが、やかましい情熱とか、静かでない情熱っていうのはあまりない。情熱というのは、基本は静かではないなものなのだろうか。やかましいものと情熱は似たところがあるのだろうか。
どちらにしても、情熱という言葉は、イメージだけだと、努力や根性やそんなものと近い。体育会系の人はいいかもしれないが、そうでない人には、ちょっと苦手な分野のように思われる。
しかし、「静かな」という言葉がつくと、印象が変わってくる。なぜそんなに違うんだろう。情熱も、静かであれば、他者に迷惑がかからないからいいのかな。
そういえば情熱家というのは、周りを巻き込んで物事を成すようなイメージがある。静かな、という言葉がつくと、それが途端に変わる。
個人的には、ただ単に好きなこと、夢中になれる事をしていて、そのあり方が静かだったりやかましかったりするだけかもしれない。
そう思うと、そんなに違いはないか。まわりがとやかくいうことではない。なんか情熱ってめんどくさいよねって思ってたけど、本人からしたら、大きなお世話だな。
まわりの人が元気ないのかなと思う時は
おそらく自分が元気ない時。まわりの人を見て、みんな元気だなと思い、たまにそうでない人を見つけると、少し自分と似てると勝手に思い、聞いてみたりする。
さらに、自分の調子が悪いほど、他人を気づかったりする人がいる。他人を元気にする事で、自分も元気になったと勘違いするためにしてたりする。
昔は、こういうのがあるから、人に構うのは遠回りに感じていた。他の人に気を使うくらいなら、自身に気をつかうべきだと。
でも最近は、考え方が変わった→どっちでもいいじゃない という考え方に。
他人が元気になったのをみて、自分が元気になったと勘違いしてもいいじゃない。自分の元気のなさに気づかず、他の人の心配をしてもいいじゃない。
そういう誤解の連続で、コミュニケーションというのは成り立っているし、コミュニケーションを続けていくうちに、元気になっていくという方向もあるかもしれない。
まあ、どれでもいいんじゃないかと、私見ですけど。