誰から誰に届かない?
なぜか、人のためにした親切というのは相手に届かない。でも、この人嫌いだな、なんて気持ちはよく届く。
少し考えてみた。逆に、自分にも人の思いは届いていないのかもしれない。気づいてないとか自分の考えと違うからとかでスルーしているのかも。でも嫌われてるなという思いはよく届く。
だとすると、自分は他人を受け入れないのに、自分を受け入れて欲しいと思うのは、少し都合が良い感じもする。
自分ができることから、という視点から考えると、嫌いだなという気持ちは抑えられないのでしょうがないとして、大事なのは、周囲の親切を受け入れる事が大事なのかもしれない。
まあ、自分のこだわりはあるから、なかなか難しいけど、そういう視点は、今までなかったので、たまにはいいのかもしれない。
木漏れ日を撮る
映画「パーフェクトデイ」を見て以降、どうも木漏れ日が気になる。よく写真を撮るようになった。
そして、撮りながら考える。一体なにを撮っているのだろう。葉っぱなのか光なのか、葉っぱがあることで光を確認するのか。
それとも、そんなに意味はなく、ただきれいと思ってカメラをむけるだけなのかもしれない。そのように無心に近い状態になる事は、生活においてあまりない。
ある意味、マインドフルネス状態なのかもしれない。まあそこまでなくても、いいもの見たな、得したな、という感じはする。
そう考えると、木漏れ日を撮る瞬間、メンタルをスモールリセットして、小休止しているのかもしれない。同時に、お得感も少し感じている。
多分似た効果は、虹もあるんじゃないかと思う。あくまでも個人の見解だけど。
すべては思い出
以前、新婚旅行というのがなぜか気になって、何人かの人に聞いたことがあった。共通しているのは「さんざんだった」ことを「楽しそうに話している」ことだった。
なにかを無くしたとか、熱が出たとか、天候が悪くなったとか、ずっとケンカしたとか、内容的にはとても体験したいとは思えない。
でもその語り口が楽しそう。これが不思議。時間が経つと、辛かった思い出がよく見えてくるのかもしれない。スイートメモリーの歌詞のように。
逆に考えると、新婚旅行は大変だったが、その後の出来事がもっと大変だったから、今から考えると、当時はあれくらいでバタバタしてかわいらしいものだ、と思えるようになったのかもしれない。
まあ何事も「すべては思い出」と言って流れに身を任せていくくらいがちょうどいいのかも。
次世代のエネルギーはなんだろう
昔は原子力だった。今は、これというはっきりしたものはそんなにない気はする。
太陽光パネルは増えたが買取価格は下がるし、水力発電はそもそも増えてない。地熱発電は、一定の場所でしか普及してない。風力発電は、東北の方で増えているが、他はあんまり。あとは、海洋温度差発電というのもあるけど研究段階。
個人的には、人の悪意や妬みなどをエネルギーにしている特撮の悪役のように、イライラで発電できたなら、人が多いことほど電気が生み出されるからいいんじゃないかと前々から思っていた。
しかし、よくよく考えると、今の効率化を求める現代だと、イライラする人を集めて、よりイライラさせる薬などが開発されていって、24時間イライラしっぱなしの人が生まれてくる可能性が出てくる。
そうなると、いくら公共の福祉のためとはいえ、なかなかその人はつらい立場だし、長生きはできなさそう。どうもこれは違う。他の選択肢の方がいいようだ。
最近思うこと
過去は変わらないが、過去の意味することは変わるし、未来の予想をするのはよい暇つぶしだがほとんど当たらないし、今やっていることも、後から見たら結構失敗も多いだろう。
なので、中年の80%は失敗でできているというのは本当だと思う。歳を取ればとるだけ失敗が増えていき、あまりにも増えていくので、慣れるしかない。でもまあ、今まで生きてこれたのだから、失敗100%ではないのだろう。
そうして、多少は頑張って、2割ぐらいは成功して、8割の失敗を受け入れて、やり過ごして、生きていく。それが私の軌跡。あまり見たくない。
とはいえ、もしかしたら、失敗ではない2割だけをつなげていったら、それなりの人生だという軌跡もあるのかな。少しでもあるといいな。