クーラーの効いた車のなか、私はまどろんでいた。
光と陰が降り注ぎ、心地よさにいつの間にか意識を手放していた。
遠くではしゃぎ声と叫び声が聞こえる。
私はどうしてここにいるんだっけ?
「ターッチ」
あ、そうだ鬼ごっこしていたんだ。休み時間の校庭で、クラスメイトの子たちと一緒に。
ずいぶん彼らと離れてしまった。少し戻ろう。
歩き出したときに、なにかが動く気配がしてそちらを振り向く。
なにかいる。なんだろう。そーっと近づいていく。
逆上がりの補助板のうら、そこに彼女はいた。
彼女は小さな世界をつくっていた。葉っぱのテーブルに、小枝のソファー、どんぐりの住人。
「わあ、すごい」
彼女は肩を揺らしていた。驚かせたことを謝り、
「私も一緒に遊んでいい?」
そうお願いした。彼女はコクンと頷く。
彼女はすごく無口で、だけどとても優しかった。
それから私は休み時間の度に彼女に会いに行った。雨でなければいつも彼女は補助板のうらで遊んでいた。そして私は毎回そこにお邪魔していたのだ。
それが彼女との思い出だった。
「おーい、ついたぞ」
父に起こされ、私は伸びをした。
車内から出れば太陽が照りつけた。私は手庇をつくる。
祖母の家はやたら広い。その廊下を歩いているとがさがさと音がした。半開きになった襖から首をのばす。
広がるのは小さな世界。木製のテーブルに、木製のイス、多種多様のぬいぐるみたち。
私はなつかしさに目を細めた。
窓越しに見えるのは、満天の星空だった。
ガタンゴトンと揺れる車内。座席の背もたれから離れる。
嘘みたいに美しかった。
写真におさめたくなってスマホを探す。ポケットを叩いてみたけど、見つからない。それにいつものカバンもない。
「ここは夢だから」
心拍数が上がる。声のするほうを見ると中性的な見た目の人がいた。
「ここは夢だから、いつかは目覚めるんだよ」
はあ、と間の抜けた返事しかできなかった。
これが夢?それにしてはシートの固さも感触もリアルな気がする。
まあ、いいか。あらためて外を見る。よく目を凝らせば、星空のしたは水面のようだ。そこにうつった星空はため息が出るほどのゆらめき。
「ここは夢だから、いつかきっと忘れるんだよ」
そうかもしれない。でもこれは覚えておきたい。
ゆったりと揺られながら、星を眺めていた。
自転車をこいでいた。手のひらの汗でべたべたになるハンドルをわたしはこれでもかと握りしめた。
そんなんじゃ、なにも変わらないよ。
知っている、そんなこと。言われなくたって自分が一番よくわかっている。
やけに重いペダルを踏みしめて、坂をのぼる。
この先になにがあるっていうんだよ。
頭の片隅でそんな声がする。
周りには人っ子ひとりいない。きっとここで立ち止まったってだれにも気づかれない。
こんなことに意味なんかない。
数々の言い訳で逃げてきた。やらないといけないこと、やりたいことから逃げてばかりだ。
遅々として進まない車輪に、生ぬるい風が襲い狂う。
背中に汗がつたって、やがてじっとりとシャツに張り付く。不快だ、嫌だ、止まりたい。
それでも足を止めないのは、まだ諦めたくないからか。
あいつを見返したい。正論ばかり言うムカつくあいつをぎゃふんと言わせるんだ。
普段小難しいことばかりしゃべるあいつがぎゃふんだなんて絶対面白い。
力強くこいで、こいだ。頬を伝う汗になりふり構わず、前に進むことだけを考えた。
どれくらいたったのだろう。ようやくひらけた場所に出る。ここがゴールだ。
ペダルから足を離し、ぎこちない動きで水筒に口をつける。喉を通る冷たい水がこんなにもおいしい。
口の端からこぼれる水を手の甲で拭う。
やった、わたしやったよね。
どっしりと構える入道雲に向かってわたしはとびきりの笑顔でピースをした。
そして君は宇宙になった。
駅のホームにはまばらに人がいて、休日にしては寂しげだ。
ホームからのぞく空に描いたひこうき雲に想いを馳せる。
近くにいた老夫婦がなにやら楽しげに会話している。
僕はそれだけでなんだか幸せな気分になれた。
やがてやってきた電車に乗り込み、気ままに揺られ目的地へ運ばれた。
「や、おはよ」
改札を出た先に美乃梨がいた。煌めく笑顔に僕は当てられる。僕の彼女は今日もかわいい。
本日は付き合って1周年デートだ。君のためにプレゼントを用意した。きっと気に入ってくれるはずだ。
帰り際に渡そう。
水族館、喫茶店、本屋。君と行くならどこだって楽しい。君が屈託なく笑ってくれるから、僕は一緒にいて心地良い。
来年も再来年もいつまでも何度だってデートをしよう。なにもなくたって君といれば毎日が彩られる。
日が落ちはじめて、僕らは展望台にいた。
用意したプレゼントを渡そうとカバンを漁る。
「奨くん、あのねわたし奨くんに言わないといけないことがあるの」
突然君が真剣な顔で言うから、僕の心臓の音が強くなった。続きを知りたい、けど聞きたくない。
「わたしね、宇宙になるんだ」
たぶん3つくらいクエスチョンマークが頭の上に並んでいたことだろう。
「わたし奨くんが好き。だけどならないといけないの」
なにかのサプライズとか壮大な冗談かなと思った。けど君は僕の知っているかぎり真面目に言っているということはわかる。
「えっと、なにかの病気とかってこと?」
「ううん。宇宙になるの。もう地球には帰ってこれないの」
それ以上のことは言えないと君はいつもより元気半減で笑っていた。
「奨くんが好きだよ。でもだからこそ奨くんは幸せになってね」
壮大な別れ話だったのか、なんだったのか。
カバンにしまったままのプレゼントを自室の引き出しの奥に突っ込んだ。
あれが君との最後の会話だった。
そして君は宇宙になった。
きっと私たちはなにかを取り戻すために歩いているんだよ。
子どものころ、欲しかったおもちゃ、食べたかったお菓子。いつの日か忘れてしまったあのころの夢。
大人になればなんでも手に入るって、信じていた。
はやく大人になりたくてしかたがなかった。
ようやく大人になり、社会にでて働きはじめた。仕事の忙しさにかまけてあの日の誓いもあのころの喜びもすべて忘れていた。
心ない言葉とか、噛み合わなくなっていく歯車とかそういう小さなことが、積み重なっていた。
自分はここにいないほうがいいだとか、そういうネガティブなことばかり考えてしまう。そういう思考になる自分に腹が立つ。だけどそれではなにも解決なんてしないということも経験上よくわかっていた。
「子どものころに戻りたい。あのころのほうがよかった」
会社を辞めた同期がよく言っていたことを思い出す。
そうなのかもしれない。結局、自分は大人になったところでなにも手に入れていない。何者にもなれていない。
ふと窓の外を見た。そこには三日月になりきれていない月が浮かんでいた。
月は好きだ。心がすさんだ夜でも当たり前にあるから。
しばらく眺めて、気づく。
月は本当はずっと丸だ。影ができるから三日月とかに見えるだけで。
今なにも持っていないと思っているだけで、本当はずっと持っているのかもしれない。
そしていつだってなにかを取り戻せるのかもしれない。
とりあえず明日、おもちゃ屋さんに行ってみようかな。