砂をすくえば指の間をこぼれていくだろう。人を欺いてでも手に入れたかった金も同じだった。
地獄の底の血の池の中、あいつを踏みつけ息を吸い、こいつに踏まれて溺れて足掻く。暗がりだけの天に向かって、無数の腕がひしめきながら、阿鼻叫喚の独りよがりを叫び続ける。
それはお前の髪か蜘蛛の糸。先の見えぬほど高い場所からつらりと降りて、俺の眼の前をくすぐるように揺れていた。
掴み、すがり、何かを踏みつけ背を伸ばす。繋がる先など何処でもいい。ここでない、少しマシなどこかなら。
ずるり、ずるりと手繰って登る。何処まであるのか知らないが、どこまで来たのか気にはなる。ちら、と足元のぞいてみれば、我も我もと群がる悪人の、腕に足に声に目が。ぞっと背筋を走るのは、泡と消えゆく己の労力。ここまできたのだ、やっとここまで。
砂をすくえば指の間をこぼれていくだろう。俺を救いたいお前も同じだよ。
まさか俺が悪人なのを、知らなかったわけじゃあるまいに。丁半博打の手慰みに、悲しい顔をしやがって。お前も俺も願いは叶わぬ。虚しい過去が、そればかりが積み重なる。ああ、だったらいったい、どうすれば―――
砂が、砂が、見向きもされずにこぼれた砂が。
血の池の中で泥になる。
【どうすればいいの?】
君にもらった花が枯れてしまった。
【やるせない気持ち】
春は春とて桜は蕾。先に咲いたは梅の花。枝の上にはうぐいす一羽。冬のころから先達に習い、朝に夕にと学んで歌う。ところが下手も下手なりで、メジロに笑われ、人には首を傾げられ、ぴよぴよ自信をなくし、植え込みの中へ隠れて泣いた。それでも学ぶを諦めず、霜の降る日も歌って泣いて、今日は今日こそ、晴れの舞台。仲間の声が谷を渡って、春よ春よと季節を告げる。いざと思って息を吸って、大きく開いたくちばしで、歌いたいのにため息ばかり。ぴよぴよ悲しくなってきて、梅の枝に座り込み、小さな体を震わせる。
ここは細道、通りゃんせ。びゅう、と一陣、風が吹く。桜に季節を譲ってか、梅の花は散り模様。花びらひとひら、ひらりと舞って、鳴かないうぐいすの頭を撫でた。
どうしてお前は鳴かないの
「歌が下手くそなんだもの。」
どうしてお前が下手だとわかるの
「皆と同じに歌えないもの。」
どうして同じになりたいの
「うぐいすの歌を歌えない鳥が、どうしてうぐいすでいられるの。」
私はおまえの歌を聴いてきた。ずっとずっと聴いてきた。お前が私のうぐいすで、お前の歌が、私にとってはうぐいすの歌だ。お前がうぐいすであることは、私には今更間違えようもない
うぐいすは少し考えて、小さな声で「ホケキョ。」と鳴いてみた。梅の木は優しく花を揺らし、うぐいすに頼んだ。
私はとても年寄で、小さな声は聞こえない。あぁ、私の花が全て散れば、私の春もそこまでだ。来年にはもう、咲けるかどうかわからない。春に春告げ鳥の歌を聴けないとは、なんとも寂しいことだ
びゅう、とまた風が吹き、わっ、と梅の木に巻き上がった。白い花びらがいくつもいくつも、枝から離れて散り落ちる。うぐいすは慌てて立ち上がると、胸いっぱいに息を吸った。失敗するのは変わらず嫌だった。けれど、歌いたいのも本当だった。仲間の名誉のためだからと、口をつぐむのは悲しかった。だから、たった一人でも、聴きたいと耳を傾けてくれるなら、春を告げるこの誇らしさを、どうか受け取って欲しいと願って。
「ホー、ホケッキョッ。」
谷を渡る、少し跳ねた歌声。誰のものとも違う、澄んだ声色。はら、と土に触れた梅の花が、微笑んでいた気がする。
【神様が舞い降りてきて、こう言った】
夏祭りの夕暮れに、出見世の熱気。首から伝う汗が、浴衣の衿にするりと逃げる。
私があなたにねだったのは、瓶ラムネのビー玉だった。カラカラと、飲み干した瓶の口を開け、あなたが神社の手水舎でちょいと洗えば、町も花火も逆さま模様。
あなたの手のひらから、親指と人差指でつまんで空にかざす。ドォン、と音をひびかせる大きな花火を閉じ込めて、見物客の歓声に浸す。
きれいですね、と言うあなたに、そうですね、と返事して、また、ドォン、と大きく空を彩る花火に、あなたが目を向けているすきに、私は、この夏を閉じ込めた小さなビー玉に、さっきまで、あなたの唇が触れていたガラスの肌に、そっと接吻する。
冷たい感触と、急にほてる肌。
あなたがそれを見ていたなんて、私が知るのはもう、ずっとずっと、後のこと。
【視線の先には】
ぼくの先生は、また女の人と心中しようとした。けっきょく失敗しちまって、女の人は死んじまったのに、先生は奥の座敷で寝込んでらっしゃる。
先生は、ここ三日、しきっぱなしの布団の上で、しくしく泣いたり、ウンウン唸ったり、わるい夢でもみてらっしゃるのかもしれませんが、目が覚めたって、現は夢よりもっと悪いことでしょう。泣き枯れた細い声でときどき、ぼくのことを呼びつけます。
「おい、おい、そこにいるか。」
「、はい。なんでございましょう。」
一拍おくと、先生のほうには、奇妙な焦燥感がただよいます。ふすま越しに返事をすれば、本当に小さな声で「なんだ、いるのか。」と、安堵か諦めかしれないため息をこぼすので、ぼくは、こんなどうしょうもないことを繰り返す先生への腹立たしさを、こうやって当てつけているのです。
だって、ひどい話じゃありませんか。書きかけの原稿を小机に置きざりに、あっちの生娘、こっちの芸者と、ふらふら、ふらふら、酒やらタバコだか鎮痛剤だかしりませんけど、色んなものにおぼれては、ついには川の水にまで飛び込むのですから。
筆を執らない先生など、ぼくにとっては本当にたいくつで、気晴らしにと、広がったままの、先生の書きかけの原稿用紙を手にとって眺めておりましたら、なにかすっと気持ちのすくような、それでいて仄かに、腹の底に火の点るような、妙な気持ちになるのです。
先生の文章の、編集、校正を請け負って、もういくつの季節をともにしたでしょう。本もいくつか出しましたが、製本されて書店にならぶ先生の本を手に取る人は、誰ひとり、ほんとうの先生を知りません。先生の手つかずの言葉の連なりは、当の先生以外じゃぼくだけが知るもので、くわえて、ぼくだけが、先生の原稿に赤インクでペンを入れることができるのです。
ええ、まだ世間を知らない先生の文は、ぼくだけのもので、先生の原稿をよごしてよいのも、ぼくだけなのです。
それだのに、先生は筆を握るより、先生の本を読んだこともない女の人の、やわらかい膝で昼寝をするほうが好きだといって、ぼくの訪問などすっぽかし、着物の抜け殻をおいて部屋を抜け出すようになりまして、いまじゃすっかり、一度ならぬ心中沙汰で、世間の耳目を集めてしまっているのです。
相手ばかりを死なせてしまって、自分は生きのびるなどとはなんとも不届きなやつだと、世間様は先生を責めるのですが、まぁ、あの女の人たちが先生の筆の肥やしになってくれるのなら、ぼくはもう、どうだってよいのです。けっきょく、あの人たちは、先生を連れていけなかったじゃないですか。
それで、ぼくはふすまを開けて、寝込んでいる先生のそばへ小机を運び込み、万年筆とインクと、原稿用紙を置きまして、布団をかぶって、まだ泣いている先生に声をかけましたが、先生は返事をなさいませんでしたので、布団をひっぺがして、腕をつかんで起き上がらせて、万年筆を握らせましてね、
「先生、〆切が近いんですよ。」
そう言って、レコード盤に針を刺すように、ペン先を原稿用紙の上へと、先生の手を持ち上げましたら、先生は、鬼火でも見るような顔でぼくを見つめるのです。
お気持ちはお察ししますが、というぼくに、「おまえなんぞに、分かるもんか。」と、先生が悪態をつきましたので、ぼくは胸の内で、そんなことないですよ、と返事をしました。なぜって、先生はきっと、ぼくと同じだと知っていたからです。
先生はね、最初から死ぬ気なんてないんです。あの女の人たちが、自分から去ってしまう前に、自分だけのものにしてしまうために、つまらない口約束と軽薄なロマンスを囁いて、自分なんかの甘言に体も魂も捧げてくれる、あの純真さが、どんな酒やタバコや鎮痛剤より、先生の痛みをやわらげてくれる、って知っちまったんですよ。
でもね、今この座敷に、先生がすがれるのはぼくだけなんです。先生が手をかけなくたって、ぼくは逃げたりしませんよ。いつもお側にいるじゃあないですか。あの女たちは先生の体を知っているけれど、魂までは知らないでしょう。だって、先生の魂は、この小机の上にあるんですから。
ねえ先生。これは、こればっかりは、ぼくのものです。ぼくの痛みをやわらげてくれるのは、これだけなのです。だから、先生、
「書いてください。」
どうしてぼくじゃあ駄目なんですか。先生のペン先に足りないインクがあるんなら、酒もタバコも鎮痛剤も、ぼくがご用意いたします。新しい女だって、今すぐに。
ぼくはひどい顔をしていたんでしょう。ぽかん、としばらくぼくを見ていた先生は、ペン先の落ちた原稿用紙に広がっていくインクの染みに目を移すと、深い溜め息をついてから、つらり、と筆を動かしました。ぼくの手の中で、先生が文字を書いたのです。その瞬間、ぼくの胸には、熱いものがぞくりと流れたのを、忘れることができません。
ああやっぱり、ぼくはあなたと一蓮托生。あなたの筆と心中できるのは、あとにも先にも、ぼくひとりだけなのです。
【優越感、劣等感】
【手を取り合って】