noname

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7/12/2023, 2:00:21 PM

 お前の仕事は糸紡ぎだと、糸車の前に座させられたのはいつだったでしょう。何千何万何億の、糸を紡いで紡いで、今日も紡ぐ。それでも覚えているのです。初めて紡いだあの糸を。
 指をすり合わせて作った糸端を、糸車に掛けたのは穏やかな春の日でした。芽吹いた緑に綻んだ花。母親はその幸せを抱きしめ、父親はその歓びに絶え間なく語りかけました。ようこそ、ようこそ、僕らの元へ。
 カラカラ回る糸車。すくすく育つ可愛いあなた。まるで夏の若木のようにまっすぐに。
 トンボを追いかけ水たまりで転んで泣いて、初めて乗る船の汽笛の音にびっくり跳び上がる。同じ歳の子たちと出会って学び、居眠りを叩き起こされ、開いた教科書は逆さまだなんて。
 いつも周りに笑顔があふれている。だってみんな、あなたを愛しているから。
 回る回る糸車。巡る月日が育てる強さ。まるで秋の空に鳴る、澄み切った鐘の音のよう。
 使命があると袖を通した服に連れられて、肩に背負った銃を選んで故郷を離れれば、塹壕の片隅で飲むウヰスキーに漂うのは硝煙ばかり。昨日出会った隣町の―――は、婚約者への手紙だけを残して土の下。明日は我が身と笑っていたのは、あなただけじゃなかったのに。ああ、轟音の雨があなたを襲う。

 お母さん、死なせてください。
 あなたの首に伸ばしかけた手を床につき、あなたの母は崩れて泣いた。だって、あなたを愛しているから。
 お父さん、死なせてください。
 あなたの頭に短銃を向け、引き金を引けずにあなたの父はすがって泣いた。だって、あなたを愛しているから。
 友よ、友よ、死なせてください。
 ある者はいつまでも傍にいると誓ったし、ある者は置いていくなとあなたに怒った。だってみんな、あなたを愛しているから。
 誰か、誰か、この苦しみを終わらせてください。
 糸が震える。震えて叫ぶ。まるで冬のつららのように、涙ばかりが冷たく落ちる。故郷に戻ったあなたの胸に、勲章だけが輝いている。それを触る手も、見せに回る足も、自ら愛でる目もなくしたあなたの、明日を私は紡ぎ出す。だって、あなたを愛しているから。
 けれど、糸が震える。私の指の中で、糸が震えて叫ぶ。泣いて泣いて、まるであの日、転んで膝を擦りむいたときのよう。糸を紡ぐだけの私は何もできずに、あなたの母が優しいおまじないをかけたのを、羨ましく眺めていたのを思い出したのです。
 誰も、誰も、その苦しみを取り除けない。
 誰も、彼も、あなたの明日を望むから。
 あなたの糸を手繰り寄せ、あなたの母の真似をする。ずっとずっと、羨ましかったあの日に思いを馳せて、同じ呪文を唱えてあげましょう。
 私が、私が、叶えてあげる。他の誰にも叶えられないあなたの願いを。




 だって、あなたを愛しているから。




 そうして、指をすり合わせて私が作った糸端が、糸車に巻き取られていったのは、ある穏やかな春の日でした。



【これまでずっと】

7/11/2023, 3:04:30 AM

 こんにちは。そこの椅子に座るんですね。私とお話してくれるなんて、あなたは親切な人だ。
 私は小鳥と暮らしています。黄色い小鳥だったと思うが、青色だったかもしれない。こんにちは、と良く鳴く鳥で、勝手に鳥かごの外を飛び回るんです。
 家族は娘が一人います。目に入れても痛くない、本当にかわいい息子で、昨日は公園で鉄棒と追いかけっこをしていたっけ。だっこが好きだというので、よくピザを焼いてやりまして、美味しそうに食べるので、私も美味しかったし、家の中はいつも掃除が大変でした。
 ところでお聞きしたいのですが、このキャンディーは何ですか。頂いてよろしいのですか。あなたは本当に親切だ。ああ、美味しいですね、次はロケットに乗りたいなぁ。

―――***―――

「お加減いかがですか。快方に向かっていますね。」「先生、小鳥は。」
 鉄格子のはまった窓から差し込む陽光が、ちらちらと白い壁に反射する。

「薬の量はちょうどよかったですね。」
「先生、私の子は。」
 膝の上に抱いていたのは、丸まったシーツだけ。

「このままなら、きっと退院できますよ。良かったですね。」
 私とあなた以外、誰もいない狭い部屋。白衣を着たあなたが、サラサラと紙に何かを書き連ねる。白っぽい部屋の白っぽいベッドに座った私に、ノックとともに入ってきたあなたの助手が、口を開けるようにと言う。

「先生、私は、幸せだったんですよ。」

 あなたの微笑みに、口の中が苦くなる。


【目が覚めると】

7/9/2023, 9:10:51 AM

 歩道橋の上で夜風に吹かれていた。上るテールランプと、下るヘッドライトとの間に立てば、眠らない信号機の青色に、押し流されたい孤独感。
 上京した日は、何もかもがうまくいく気がしていた。花が咲くどころか、芽生えもない日々に、いつしか朝日とともに、自分自身への不信がめざめていった。
 今日も今日とて、路上の歌にギターの音色、就活スーツに自己啓発本。野望を、野心を、星の光ごと食らって爛々と光る街。生ぬるい夏の風に滴った汗は、アスファルトに飲み干されて、跡形もなく消えた。
 もっとよこせ、と街がざわめく。裸一貫、失うものなど何もなかったはずのこの身から、時間のジャックを、若さのクイーンを、情熱のキングを、切り捨て、切り捨て、皿の上に投げ出せば、ナイフとフォークで味わい奪う、上品ぶった奇術師の唇。

 なあ、明日はうまくいくかもしれないだろう。

 舌なめずりの甘い響きに、手に入らない夢がくゆる。食い散らかされた残骸が、夢の続きを求めてすがっていた。探る眼が、握りしめて差し出せない手札をチラリと見遣るが、躊躇う姿に興味を失い、ため息をこぼした。引き止めなければ。脂に濡れた、酷薄そうな唇を拭うこの奇術師が、席を立つ前に―――

 食後のワインを飲まないか。

 絞り出す声で呼び止める。ふと、驚きを瞬かせた唇が、にまりと微笑んだ。差し出されたグラスの縁に、ひしゃげたハートのエースを投げ入れる。ぐるり、くらりと奇術師が回す、グラスの艶を両目で追えば、カードがワインに変わりゆく。ゆらゆらと、眼前に立ち昇る夢、夢、夢。
 燃える火ならばこの身をもろとも、けれど街の明かりはガラスの中に。誘われるままに恋い焦がれ、手を伸ばすたびに阻まれて、弄ばれる羽虫が嘆く。こんなはずじゃあなかった、と。


【街の明かり】

7/7/2023, 2:18:35 AM

 私の手はいつも冷たかった。冬などは、何に触れても、じわじわとした不快な痺れがあるばかり。
 彼女は私の同級生で、部活動も同じ、帰る道の方向も同じだった。運動神経がよく、勉強もでき、絵を描くのも上手かった。努力を惜しまない人だった。
 親友などと呼ぶほどには、互いの距離は近くもなかったけれど、下校時間にこっそり買って、二人で駐輪場の屋根に隠れて食べた、一つ百円ぽっちのアイスの味は、どうしてあれほど美味しかったのだろう。
 ある冬の午後。下校時間に二人で帰路につき、他愛もない話をしながら並んで歩いていた。指先のかじかむ私の手を見て、彼女がそっと手を差し伸べた。温めてあげるよ、と。
 繋いだ彼女の手の温かさが、私の冷たい手の血を絆す。与えられる優しさに心地よさを覚えながら、二人、いつもの帰り道を歩いていく。

 ふと、

 私は気づいた。彼女の手が冷たくなっていくことに。彼女は顔色ひとつ変えず、にこやかに私に話しかけている。私の手は、たしかに彼女の温もりを得たのに、それでも冷たいままだった。繋いだままの二人の手が、どちらも熱を失っていく。それでも、彼女は放そうとしなかったのに。

 「もう大丈夫。」

 私は彼女の手を放す。与えられるものもなく、奪い続ける浅ましさに、私自身が耐えられなかった。そう、と彼女が答えたのは、ちょうど二人の分かれ道の上。またね、また明日、そう互いに声をかけて分かれたら、その冬も、次の冬も、痺れる指を握りしめ、私は彼女と、二度と手を繋がなかった。


【友達の思い出】

7/7/2023, 1:33:53 AM

 人の子ら、命潰えて星になる。悲しみに、寂しさに、幸福に、満足に、それぞれの色で瞬きながら、地上の幸いを夢に見る。
 今夜、満天の星空。いずれ私もゆく場所だから、あなたを弔い、祈りを捧ぐ。
 星よ、星よ、あまねく命の輝きよ。歴史の河に散りばめられた、猛き血潮の願いの束よ。我ら汝を継ぐ者ぞ。見守り給えよ、安らかに。


【星空】

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