作品71 心だけ、逃避行
母の泣き叫ぶ声。それを宥めようとする父の声。弟の泣き声。皿の割れる音。壁を叩くような鈍い音。部屋の外から聞こえる数々の騒音。
耳を塞いでも、音が大きいせいで振動がひどい。逃げられない。
でも、イヤホンさえすればこんな世界から離れられる。違う世界に行ける。そう思っても再生ボタンを押そうとする手は震えていた。気づかないふりしてボタンを強く押す。ほぼ叫んでいるような激しい曲が流れ始めた。
誰かこの音漏れを怒って。
体はまだ震えている。コップに入った水もまだ揺れている。ノイズは鳴り止まない。
作品70 冒険
夏休みの度に、自転車で海へ行く。
行き方は適当。荷物も適当。へんてこな歌を歌ったり、間違って人ん家の道路に入って怒られたり、よく分かんないところで写真を撮り合ったり。暑い!なんて笑い合いながら、コンビニで買ったアイスを分け合ったり。
靴を脱ぐことすら忘れて海に飛び込む。服の重さすらも面白くて、笑った拍子で海水が口の中に入る。泳げないから、波が足をくすぐるたびに軽く怯える。着替えを忘れて絶望する。それを誰かが笑う。暗くなったら持ってきた花火で遊ぶ。
帰りは誰もそう言ってないのに歩き。自転車が荷物になるけど、この時間をみんな伸ばしたがる。
ゆっくり歩くから帰るのは門限過ぎ。怒られたくねーとか帰りたくねーとか言って、だけど誰も僕らを置いていかない。そして来年また来ることを約束する。次は着替え持ってこようと誰かが僕をいじる。また笑い声。
満月まであと少しの薄い月。たまに流れるほうき星。しょうもないことで笑ってる誰かの声。自転車から伝わる道の凹凸。僕らが通ったからか少し立派になった獣道。数匹飛んでくる蛍。蛙や虫の鳴き声。整備された道。電灯についた蛾。微かに聞こえる風鈴の音。どっかの家からはしゃぎ声。段々、家に近づいてきた。
今年の冒険が終わる。いつか捨てる貝殻を握りしめた。
作品69 子供の頃の夢
保育園の頃から仲の良かった友人が亡くなったと、母から連絡があった。一瞬何を言っているのかわからなかった。彼が死んだという言葉の意味が、理解できなかった。だって。だって彼は死ぬようなやつじゃない。彼に死なんて似合わない。あいつはいつも生き生きしていて、太陽って言葉が似合うくらい輝いてて、死ぬようなやつじゃない。あいつは。
そう口を開きかけて、言葉を飲み込む。電話の向こうで母が大丈夫?と心配そうに尋ねていた。気持ちを出してしまわぬよう、静かに大丈夫とだけ返して電話を切る。そしてすぐ、彼にメッセージを送った。
『何してんだよ』
『なあ』
『暇だろ』
『この前観た映画、続編やるんだって』
『一緒に見に行こうぜ』
『あと飯食いに行こ』
『おごるから』
既読はつかない。
『なあ』
『何で』
『何で何も言ってくれなかったんだよ』
いつまで経っても、返信も、既読も、何もつかなかった。
彼の死から数カ月経った。不思議なことに、あれだけ大事だった人が死んでも、人は一人で生きていけるらしい。
ただ、これまでどう過ごしていたのか、記憶にあまり残っていない。
今日も布団にうずくまっていると、通知音がした。母からかと思ってスマホをちらっと見て、飛び起きる。彼からだった。
スマホのロックを外し、急いでメッセージ画面を開く。送ったメッセージ全てに既読がついていた。すぐ、視線を画面の下へ向ける。
『こんにちは。』
彼らしくない口調。
『こいつの兄です。』
そりゃそうだよな。彼が生きているわけがない。
『元気にしてるかな。良ければなんだけど、今度会えない?』
また、通知音がなる。
『君に渡したいものがあるんだ。』
「久しぶりだね。葬式ぶりだっけ。」
近所のファミレスで、会話の始め方に悩んでいると、相手がそう喋り始めた。
「そうですね。」
こっちの返答を無視して、目の前の男は店員にコーヒーを二杯注文した。そして深くため息を吐く。
「本当、あいつは最後まで恥さらしなやつだったよ。急に変な格好をしだしたかと思うと彼女だかを作り始めて。最後の最後には自分で死ぬなんて。どこまで俺らに迷惑かけるんだか。」
何年経っても変わらぬこの男の全てが、亡くなった彼を何度も殺す。
「まあ生きていても迷惑だったし、結果的にはこれでも良かったのかな。これで僕に迷惑かけられたと思ってるなんて、本当哀れだ」
「それで」
早くこいつと別れたくて、言葉を遮った。
「渡したいものってなんですか。」
自分のペースを乱されたのがよっぽど嫌なのか、それとも賛同されなかったのが気に食わなかったのか。男はこちらを睨みつけた。
ちょうどいいタイミングでコーヒーが届く。店員にお礼を言わないのを見て、彼とは全く違うなと感じた。
「渡したいものだが、これだ。」
そう言って男は、黒いカバンの中から厳重に蓋がされたお菓子の缶缶を取り出す。
「中身は見ていない。先日あいつの部屋の片付けをしているときに見つけたものだ。手紙が貼り付けてあり、開けることなく君に渡せと書いてあった。」
手紙が缶缶の上に置かれる。
「君に渡す。好きにしてくれ。」
そう言うと男は机の上に札を起き、立ち上がった。
「きっともう君に会うことはないだろう。だから最後に質問させてくれ。」
視線を一度上に向けてから、男は口を開く。
「妹と君の関係は何だったんだ。」
もっと彼を馬鹿にするようなことを聞かれると思っていた私には予想外の質問で、コーヒーを飲もうとした手が止まる。男の表情を見ると、いつもの人を小馬鹿にしたようなあの顔ではなく、ただ純粋に家族のことを知ろうとする普通の兄に見えた。それを見て、思わず下を向く。
私達の関係を表す言葉を探す。
「私と彼は、ただの幼馴染です。」
最後まで想いを伝えられなかった、その代わり秘密の共有を数多くした、ただの幼馴染だ。
“彼”という言葉に男は何か言いたそうだったが、何かを諦めたかのような顔をし、
「弟と仲良くしてくれて、ありがとう。」
それだけ言って、店を出た。
コーヒーはまだ温かかった。
家に帰り、箱に巻かれたガムテープやら何やらを取り始める。彼はどんな思いで封をしたのだろう。見つけてもらえると、信じていたのだろうか。
手に力を込めると、意外にもすぐ蓋が開いた。中には一通の手紙と、思い出のガラクタがたくさん入ってあった。その中の一つに、目が止まる。
それは保育園の頃、将来の夢を書こうという時間のときに私が作って、彼に渡したものだった。ガタガタの、丸が無駄に大きい汚いけども子供らしく愛らしい字で、彼の名前のすぐ後に“ のおよめさん!”と書かれていた。記憶に残ってないけど、この頃から私は彼のことが好きだったんだな。
何となくその上を裏返してみた。そこには彼の丁寧な字で、大好きと書かれていた。いつもの彼の口癖。冗談風に伝えてくる、彼のあの言葉。だけど今だけ、それが本当だと勘違いしていたかった。
よけていた手紙を拾い上げる。紙だけの割には少し重くて、小銭が入った封筒のような感触がした。手紙の封を開け、逆さまにする。数枚の手紙とともに紙が結び付けられた指輪が出てきた。結び目を解き、くしゃっとなった紙を開く。
『来世は君と結婚したい。』
震えたその字は、偽りのない字だった。
結局離れ離れになってしか、私達は両想いになれない。わかっているけど、なんとも情けない。何度もこの繰り返しだ。指輪は薬指にぴったりだった。
キッチンへ行き、使っていないマッチを取り出す。
どうせありふれた言葉しか書かれていない手紙を、中身を確認せず燃やす。いつ、どんな方法で彼のいない今世をやめようか、黒くなる手紙を見ながら考えた。
所感5 恋か、愛か、それとも
友人が好きな人ができたと言ってきた。同学年でクラスは違う人。どこが好きなのかと聞くと、全体的にタイプだと返ってきた。恋愛ってそういうものなんだなと学んだ。
兄弟のうち半数に、恋人ができた。あれでもできるのだなと、一つ学びになった。
昔馴染みの友人に、彼氏ができた。喜々としていて、真っ先に自分達に伝えてくれた。もちろん素直に祝った。数ヶ月後、彼女は別れた。
自分には恋愛というものがいまいち分からない。というか、自身の恋愛対象が所謂少数派という物に含まれる人間のため、社会的にも恋愛するのに向いていない。そして、自分自身も恋愛することをあまり好いていない。それらを素敵なものだな憧れるなとは思う反面、どうせ行き着く先は性欲なんだろ気色悪いなと思ってしまう。
誤解しないで欲しいのは、別に性欲といった欲望を嫌っているわけではない。欲望とは人間が生きるために有している。その中でも性欲は生理的欲求に含まれ、マズローの欲求階層説に基づけばこれは土台となるものでもある。それくらい、性欲とは重要だと言うことだ。そして自分はそれを理解しているし、嫌っているわけではない。
ただそれは他者のだった場合で、自分にそれがあるのを思うとえもしれぬ嫌悪感に苛まれる。トラウマがあるわけでも何でもないのにおかしなものだ。
とどのつまり、自分は根底から恋愛するのに向いていないということだ。やってしまえばどうにかなるのかもしれないが。
こんな自分でも、一応人を好きになったことはある。だけどあの好きと、みんなが持ってる好きがいまいち一致しない。だからこれが本当に恋なのか、愛なのか、それとも何なのかが、いまいち分からない。相談すれば良いのではないかと思うかもしれないが、おそらく他人に聞けばさすが恋愛赤ちゃんと茶化されて終わりだ。
自分には「恋か、愛か、それとも」と問われて友情と続けるべきなのか、性欲とつなげるべきなのか、尊敬や憧れの延長線上と言うべきなのかそれすらもわからない。アタッチメントなどの視点でいけば、尊敬や憧れが続くのが正しいのだろうか。
自分にはそれすらも、何もわからない。
本当に何を言いたいのか分からなくなってきた。書いてるこいつが分からないのだから読んでるあなたも分からないだろう。それで正解です。多分だが、恋愛ってどういう方面から見ても難しいね。ということだと思います。知らんけど。
作品68 傘の中の秘密
いつからこんな、雨が嫌いになったのだろう。
あの日は確か、台風が来るとかで午前中に学校が終わった。親の迎えを待つ人、スクールバスで帰る人、キッズクラブに行く人。大半は歩いて帰る人だった。僕もそのうちの一人。ただ、僕と同じ道で帰る人はほんの僅かで、それぞれ固まることなく歩いていた。
背中には教科書とタブレットが入った重いランドセル。右手には結局使わなかった体操着。左手には傘を持っていた。
この傘は、少し年の離れた兄が高校生の頃に使ってた傘だ。だから、子供が使うにしては少し大きくて使いづらいし前が見えづらい。だけどその分ランドセルが濡れにくかったから、そこそこ気に入っていた。
帰ってご飯を食べたら何をしようか、なんて思いながら普段通る道を歩く。前には高学年の男の子。後ろにはたしか同学年の女の子。
きっと二人も学校がすぐ終わって、家で何をしようかってワクワクしているんだろうな。心無しか鼻歌が聞こえてきた気がした。
学校から家まで半分といったところでだろうか。前を歩いていた男の子が、十字路のところで止まった。瞬間車が通りすぎる音がする。そして車の走る音が聞こえなくなる。けれど彼はまだ動き始めない。
不思議に思いながらも歩き、僕は彼の真後ろまで来た。彼の足が傘の下から見えるところで止まろうとすると、彼は歩き始めた。それを見て車が来ていないのだなと思い、同じく歩き始める。雨が一層強くなった。音が聞き取りづらくなった。早く帰りたいと思ったその時、彼が走り始めた。
その瞬間、右側が急に眩しくなり、後ろから誰かに押された。急に2つのことが起きたので混乱してしまい、転んでしまった。手が痛い。何をするんだと悪態をつきながら振り返ると、すごいスピードで車が通り過ぎていっていた。そこで僕が轢かれそうになったのを理解する。そして押して助けようとしてくれた人に感謝せねばと視線を動かすと、いると思ったところに人はいなかった。無意識に視線を下にずらす。そこには轢かれた少女がいた。
「……は?」
車が走る音がどんどん遠くなる。前を歩いていた少年が振り向き僕らを見て、近くの家へ駆け込んでいった。救急車呼んでと呼ぶ声が雨に混じって聞こえてくる。体の体温がどんどん低くなっていくのを感じた。気に入っていた傘は車にかすったのか、骨が折れて使えなくなっていた。手がすりむけて血が出ている。なのに痛さを感じない。目の前では見たことないほど生々しい赤が雨と共に水たまりを作っていた。少女は動かない。僕はそれが死んだのか生きているのか見分けがつかない。体が動かない。見たくないのに顔が動かないから目を逸らせない。雨音のみが聞こえる。彼女の血が広がって、地面に転がった僕の傘まで届いた。少女の傘は、傘の機能を果たさない代物になっていた。少女の傘は赤い傘だった。
あの時のことを思い出すと、うまく喋れなくなる。体温も視覚も聴覚も何もかも鮮明に認識していたはずなのに、思い出そうとすると何かがそれを拒否する。
あの後誰かから聞いた。
前を歩いていた少年は、あの日車に轢かれようとしてたらしい。何度も何度もタイミングを見計らい、やっと足を踏み出した瞬間、急に怖くなって走ったらしい。そして彼は死ななかった。
後ろを歩いていた少女は、あの日の翌日に友達と遊びに行く約束をしていたらしい。大好きな赤い服を着て。そして彼女は、
彼女を殺したあの日から、雨が怖い。