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10/8/2023, 2:48:44 PM

束の間の休息


「いらっしゃいませ」
そう優しく声を掛けられて、ようやく気づく。
いつもだったら、会社へと向かう時間帯だ。昨日と同じように満員電車に乗り込み、揺れに揺られながら、目的地の駅で降りるつもりだった。
でも、何故か体は電車から降りようとはせず、目の前で無慈悲にドアは閉まった。それからいくつも、いくつも駅を通り過ぎて、本当に何となくでどこかの駅に降りたのだ。
ビル街とはうってかわって、緑あふれる自然豊かなその場所は自分が住む県内なのに、まったく別の世界のようだった。
時間がゆったりと流れるようなその場所で、ただ行き先もわからないまま、体にすべてを任して、考えることを止めた。
そうしてたどり着いたのがこの茶屋だった。古き良き木造建築があたたかく迎えてくれる。声を掛けてくれたのはきっとこの店の主だろう。それにしては随分と若いように見えるが、子どもらしいわけではない。美しい大人の女性だった。
「お茶でも、飲んでいかれますか?」
そう優しく微笑まれて、こくりと頷いて返事を返す。
中に他のお客さんはいなかった。促されるように席について、そっと息を吐き出した。何をするでもなく、ただじっと外の景色を見ながら待っていると、お待たせしました、とお茶が運ばれてくる。
点てた抹茶とそれに合うようなお茶菓子。見た目でも楽しませてくるような美しい見た目のそれに感動しながら、ゆっくりと楽しむ。
ひどく穏やかな時間だった。
抹茶の苦味と濃厚さに包まれて、お茶菓子の美味しさと美しさに癒されて、ようやく心が戻ってきたのはお昼をとっくに過ぎた時間だった。
仕事が、とか連絡しないと、とか思うところはたくさんあったが、少しだけ知らない振りをして、店主である女性に声を掛ける。
「あの、……この辺でおすすめなお昼を食べれる場所とかって知ってたりします?」
お会計がてら、そう聞けば、女性は優しく教えてくれた。おすすめのメニューも教えてもらい、お礼をして店を後にする。
向かう先はもちろん、駅ではなく、教えてもらった店だ。何はともあれ、お腹が空いてちゃ何もできない。
まずは腹ごしらえだ、と歩き出した足は思ったよりも軽くて、死んでいた表情筋が生き返るように笑みをこぼす。
きっと後でたくさん怒られるだろう。それでも、これはきっと必要だったのだ。
戻ってきた心におかえり、と声を掛けて、弾むように歩き出した。

10/7/2023, 2:05:53 PM

力を込めて


その子はひどく傷付いていた。体も、心も、ボロボロでもう無理だと静かに涙を流していた。
そっと、その子に手を差し伸べて、壊れないように抱きしめる。それは、まるで暗闇の中の一筋の光だったと後に彼女は語る。
そして、その日から、彼女がもう二度と傷付かずに済むように環境を整えた。三食食事つきの安心して寝れる部屋、これ以上磨耗しなくて済むように外との接触は最低限にして、ただただ生きているだけでいいと底のないような愛を与えた。
ようやく、彼女が前を向けるようになったとき、初めてがんばれ、と励ましの言葉を口にした。玄関から外へ踏み出すその背中に力を込めて手で押した。
「うん、いってきます」
そう花が咲いたように笑って家を出る彼女は、きっともう大丈夫だろう。きっと、もうあんな風になることはないだろう。そう思いながら、少し静かになった部屋の中で、コーヒーを啜った。

10/6/2023, 2:34:22 PM

過ぎた日を想う


ふと頭に過ることがある。
汗の滴り落ちるあの暑い夏の日に、白い雲一つない快晴の空に、君の屈託のない笑顔が合わさる。
あの日が妙に頭から離れなくて、何気ないときにふと思い出すんだ。
たとえば、雨が上がった後の水がたまった水たまりを見たときに、夏の匂いが終わる涼やかな風が吹くときに、君が呼ぶ声が聞こえて。
そんな色褪せない、過ぎた日を想うんだ。

10/5/2023, 2:23:24 PM

星座


かつて私は空にいた。
何年、何十年、いや、きっともっと数えるのも億劫になるほどの長い期間、私は空の一部だった。
星という存在で、光輝き、私はようやくその一生を終えた。
それから、生まれ変わって、初めて夜空を見たとき、懐かしさで泣きそうになった。優しい声でどれがどんな星なのか、教えてくれるその人に、聞いてみた。
「あそこで光っている星は?」
あれはね、と説明する声に耳を傾けながら、かつて私だったその星を見つめる。とある星座の一部だと、知ってその星座を指でなぞるように繋げた。
繋がるその星々はかつての友人であり、家族であった。嬉しくて涙を流していると、その人は柔らかく微笑んだ。
「綺麗だもんね」
その一言で、あの途方もない時間が報われたような、そんな気がした。

10/4/2023, 1:44:16 PM

踊りませんか?


いつもはきらびやかなホールはどこか妖艶な空気を漂わせて、舞踏会に来た者たちを歓迎する。
目元に仮面を着けて行われるその舞踏会は、いつもとは違う刺激に誘惑され、魅了される。
「踊りませんか?」
そう声をかけてきたあなたに誘われる形で、一曲だけ踊った。内緒話をするように囁かれた言葉は魅力的だが、お生憎様、こちらはあなたのことを知っている。
仮面に隠されているから、気づかないとでも思ったのか。本当に、愚かな人。
ぽそり、と彼の婚約者の名前を呟けば、明らかに動揺して慌て出す。
誘う相手を間違えたわね、と優雅に微笑み、その場を後にした。もちろん、彼の婚約者にはうっかりと口を滑らした体で、このことを話しておいた。

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