H₂O

Open App

束の間の休息


「いらっしゃいませ」
そう優しく声を掛けられて、ようやく気づく。
いつもだったら、会社へと向かう時間帯だ。昨日と同じように満員電車に乗り込み、揺れに揺られながら、目的地の駅で降りるつもりだった。
でも、何故か体は電車から降りようとはせず、目の前で無慈悲にドアは閉まった。それからいくつも、いくつも駅を通り過ぎて、本当に何となくでどこかの駅に降りたのだ。
ビル街とはうってかわって、緑あふれる自然豊かなその場所は自分が住む県内なのに、まったく別の世界のようだった。
時間がゆったりと流れるようなその場所で、ただ行き先もわからないまま、体にすべてを任して、考えることを止めた。
そうしてたどり着いたのがこの茶屋だった。古き良き木造建築があたたかく迎えてくれる。声を掛けてくれたのはきっとこの店の主だろう。それにしては随分と若いように見えるが、子どもらしいわけではない。美しい大人の女性だった。
「お茶でも、飲んでいかれますか?」
そう優しく微笑まれて、こくりと頷いて返事を返す。
中に他のお客さんはいなかった。促されるように席について、そっと息を吐き出した。何をするでもなく、ただじっと外の景色を見ながら待っていると、お待たせしました、とお茶が運ばれてくる。
点てた抹茶とそれに合うようなお茶菓子。見た目でも楽しませてくるような美しい見た目のそれに感動しながら、ゆっくりと楽しむ。
ひどく穏やかな時間だった。
抹茶の苦味と濃厚さに包まれて、お茶菓子の美味しさと美しさに癒されて、ようやく心が戻ってきたのはお昼をとっくに過ぎた時間だった。
仕事が、とか連絡しないと、とか思うところはたくさんあったが、少しだけ知らない振りをして、店主である女性に声を掛ける。
「あの、……この辺でおすすめなお昼を食べれる場所とかって知ってたりします?」
お会計がてら、そう聞けば、女性は優しく教えてくれた。おすすめのメニューも教えてもらい、お礼をして店を後にする。
向かう先はもちろん、駅ではなく、教えてもらった店だ。何はともあれ、お腹が空いてちゃ何もできない。
まずは腹ごしらえだ、と歩き出した足は思ったよりも軽くて、死んでいた表情筋が生き返るように笑みをこぼす。
きっと後でたくさん怒られるだろう。それでも、これはきっと必要だったのだ。
戻ってきた心におかえり、と声を掛けて、弾むように歩き出した。

10/8/2023, 2:48:44 PM